九月を旧暦では長月と申します。長月の由来は、「夜長月(よながつき」)の略であるとする説が最も有力であるようです。昔は九月になると雨の日が続いたものでしたが、最近では夏の延長という感じで比較的、少ない日が多い印象です。雨というのは必要な時には降らないといけないのであります。さもないと、動植物の生態系に悪影響を与えてしまいます。また、台風や集中豪雨(ゲリラ豪雨)でも困ります。適当で適切な降雨を期待したいものです。
先般は、法公会水子地蔵尊供養会にお参りを頂きありがとう御座いました。水子地蔵尊を祀る寺院は全国でもそんなに多くありません。そういう意味では法公会水子地蔵尊は貴重な存在といえます。本来ならこの世に生を授かり、産まれいずる尊い命が失われてしまうのですから、充分に供養をしないといけません。信者の皆様の尊いお気持ちが水子の供養となります。これからもどうか宜しくお願い致します。
今月は、秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭を開催いたします。私たちは先祖への感謝と供養を決して忘れてはいけません。この行事には、多くの信者の皆さまと共に供養会を行ないます。どうか多くのご参詣をお待ち申し上げます。
私が、サラリーマンの時でした。静岡県全体を管轄していた課長の時に、H医科大学小児科学教室を担当していた弊社担当者は、明るく、性格もよく、とても努力家であり顧客との信頼関係もまずまずの状況でした。
当医局では毎年恒例の天竜川での小児科主催のバーベキューが開催されておりました。さすがにバーベキューには教授は参加されておられませんでしたが、講師ドクター以下、医局員は殆んど参加しておられました。そこで、ある夏のバーベキューに参加を致しました。私の子供は双子で、たしか小学四年生の頃だったと記憶しておりますが、二人をつれて参加しました。小児科の医者は基本的には子供が好きであります。逆に子供が好きでないと小児科医は務まりません。
そこで、『立っている者は、親でも使え』じゃないですが、医者との信頼関係強化のために子供に参加をさせました。子供たちは先生方より親切にされ、バーベキューも作って頂き、おやつを貰ったり、とても仲良くできました。大変満足し楽しむことができました。
今後の活動がより円滑になるよう、未来への希望の種を蒔きました。効果は覿面(てきめん)に表れました。子供のお蔭でより強い信頼を得ることができました。本当に子供たちに感謝です。
どんな仕事でもとても大変です。楽な仕事は一つもありません。一生懸命、知恵を絞り、臨機応変に行動しなくてはなりません。信頼関係構築には優秀な人材が無くてはなりません。しかし、いくら優秀な人でも『相手の痛みが解かる人』でないといけないのであります。自己中心的でなく相手の立場に立って思考し行動できる人、すなわち、生きる知恵の持ち主が、本当の意味での『優秀な人』ではないでしょうか。
それでは法華経の如来神力品(にょらいじんりきほん)(第二十一章)に入りたいと思います。法華経は小乗(しょうじょう)と大乗(だいじょう)の両方を「統合」した経典(きょうてん)です。発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)によって、全ての諸仏を「久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊が仏」として統一しました。これが本門(ほんもん)です。迹門(しゃくもん)では、小乗の担い手であった二乗(にじょう)の成仏を説いた。その根拠は、一切の諸法を「実相(じっそう)」の一理(いちり)のもと統一したからです。要するに諸法実相(しょほうじっそう)です。しかも、迹門の「諸法(しょほう)の統一」と、本門の「諸仏(しょぶつ)の統一」は対応している。どちらも「妙法(みょうほう)」のもとに統一されました。
そもそも法華経は釈尊の遺言であります。釈尊が一番言い残しておきたかったこと。それは『生きとし生けるものよ、幸福になれ』という願いです。神力品(じんりきほん)は『付属(ふぞく)』の儀式であります。この末法(まっぽう)の世に法華経広宣流布(ほけきょうこうせんるふ)を地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)に託したのがこの神力品です。そして、法華経全体が『付属』をテーマにしております。特に虚空会(こくうえ)儀式では、そうです。宝塔品(ほうとうほん)(第十一章)で、巨大な宝塔が出現したのも、湧出品(ゆうしゅつほん)で無数の地涌(じゆ)の菩薩が大地を割って踊り出てきたのも、寿量品(じゅりょうぼん)で「永遠の仏」が説かれたのも、すべて付属(ふぞく)のためです。
それでは、神力品(じんりきほん)のあらましですが、「如来神力品(にょらいじんりきほん)」という名の如く、如来が宇宙を揺(ゆ)るがすような十大神力(じゅうだいじんりき)を示します。まず、章の冒頭ですが、地涌(じゆ)の菩薩の「誓(ちか)い」で始まります。「釈尊滅後の娑婆世界(しゃばせかい)」で、また、「他の諸仏の入滅後の国土」でも、法華経を弘めてゆきます。と、誓います。あらゆる仏の「入滅後」に広宣流布(こうせんるふ)をするという誓(ちか)いです。
ここに「地涌(じゆ)の菩薩」の重大な、また不可思議(ふかしぎ)な意義がある。仏という「一人」から「全民衆」への正法広宣流布(しょうほうこうせんるふ)を担うのは、いかなる国土であっても常に「地涌(じゆ)の菩薩」なのであります。
十神力(じゅうじんりき)は、先ず「①仏が広く長い舌を出すと、天まで届いた」。これは、法華経が全て真実であり、「広い」というのは十界(じゅっかい)の全ての衆生を救える。そして、「長い」というのは、久遠以来(くおんいらい)の妙法(みょうほう)であるという意味を示しております。「②釈尊の全身の毛穴から光が出て、あらゆる色の光を放ち、十法世界(じゅっぽうせかい)を照らした。諸仏も、同じように『広く長い舌を出し』 『無量の光を放った』とあります。全宇宙に、光と光が燦爛(さんらん)として、満ちてゆき広宣流布(こうせんるふ)の世界となった。「③一斉(いっせい)に咳払(せきばら)いし、④一斉に指を鳴らした」。これは真実の証(あか)しであり、諸仏の「声」と「指の音」が響きわたります。するとその音で「⑤十方(じゅっほう)の諸仏の世界の大地が六種に振動(しんどう)」します。全宇宙が歓喜(かんき)に打ち震(ふる)えたのであります。広宣流布(こうせんるふ)の大いなるドラマを象徴している。すると、「⑥そこにいる、生きとし生けるものが、娑婆世界(しゃばせかい)の仏の姿を見ることができた。釈迦仏(しゃかぶつ)と多宝如来(たほうにょらい)が宝塔(ほうとう)の中におられるのも見えた。諸仏は皆、獅子座(ししざ)に座り、釈迦仏を無量(むりょう)の菩薩や出家・在家の人々が取り囲んでいた。これらを見て、皆、未だかつて味わったことのない大歓喜(だいかんき)を得た」。このように十法世界(じゅっぽうせかい)とは、十界(じゅっかい)の衆生すべての住む世界と言ってよいと思いますが、すべてが大歓喜に満たされた時、「⑦空中から大きな声が響き渡る」という不可思議(ふかしぎ)が起こりました。諸天(しょてん)が、こう呼びかけました。「娑婆世界(しゃばせかい)というところに、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)という仏がおられて、今、菩薩のために妙法蓮華経を説いておられる。お前たちは、深く随喜(ずいき)して、釈迦仏(しゃかぶつ)を礼拝(れいはい)し供養(くよう)しなさい」と。その呼びかけに応じて、「⑧もろもろの衆生が合掌して、釈迦牟尼仏(しゃかぬぶつ)に帰命(きみょう)」します。「⑨十法世界から種々の華(はな)や香(こう)や、ありとあらゆる宝物(ほうもつ)が娑婆世界(しゃばせかい)に届けられ、雲のごとく集まって、一つの大きな宝の帳(とぼり)となった。それが十法(じゅっぽう)の諸仏を覆(おお)った」というのです。そして、「⑩十方の世界の隔(へだ)てがなくなり、一つの仏国土になった」。と説かれております。すでに寿量品で、「娑婆世界(しゃばせかい)」こそが、久遠(くおん)の昔から釈尊の「本国土(ほんこくど)」であると説かれております。その『娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)』が現出(げんしゅつ)したのです。
釈尊はここで驚くべきことをいいます。「諸仏の神力は、このように無量無辺(むりょうむへん)であり、不可思議(ふかしぎ)である。しかし、付属(ふぞく)のために、この神力(じんりき)を以て、無量無辺百千万億阿僧祗劫(むりょうむえんひゃくせんまんおくあそうぎこう)の間、この教(きょう)の功徳(くどく)を説いても、説き尽くせないのだ」と。これは単に、法華経の功徳を讃嘆(さんたん)しているのではない。実は、仏の滅後に、この教をたもつ人、すなわち上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の功徳を讃嘆(さんたん)しているのです。
全宇宙を揺(ゆ)るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の功徳を讃嘆(さんたん)しきれないという。これはただごとではありません。しかも、諸仏が「無量(むりょう)の神力(じんりき)」を現(げん)じたのも、将来、仏の滅後(めつご)に、上行菩薩がこの教をたもっていくことに対して、歓喜(かんき)したからだという。いわば、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の未来での活躍を祝福しての十大神力(じゅうだいじんりき)なのです。これだけを見ても、上行菩薩が、仏法上、特別で、なみなみならぬ存在であることが分かります。しかも、宝塔品(ほうとうほん)で、多宝(たほう)の塔(とう)が出現して以来、全ての説法が、この「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)への法(ほう)の付属(ふぞく)」という一点を目指している。要するに、「如来(にょらい)のすべて」が法華経に説き示されている。それを上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)に付属(ふぞく)するということなのであります。
神力品(じんりきほん)の経文(きょうもん)ですが「要(よう)を以(もっ)て之(こ)れを言わば、如来(にょらい)の一切(いっさい)の有(たも)つ所の法(ほう)、如来の一切の自在(じざい)の神力(じんりき)、如来の一切の秘要(ひよう)の蔵(ぞう)、如来の一切の甚深(じんしん)の事(じ)は、皆な此(こ)の教(きょう)に於(お)いて宣示顕説(せんじけんせつ)す」。これは、この経には、如来の一切の法と、如来の一切の自在の力と、如来の一切の秘密と、如来の一切の奥深さが、明らかに説かれているということであります。
上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)を始めとする地涌(じゆ)の菩薩は「三十二相(そう)」という「仏」の特徴であり、地涌(じゆ)の菩薩が仏であることを示している。だから、神力品の付属儀式は、本来は「仏(ほとけ)」から「仏」への儀式です。しかし、上行菩薩がどこまでも「九界(きゅうかい)」の立場で出現したことには、さらなる重大な意義がある。なぜならば「地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)」とは、内証(ないしょう)の境涯(きょうがい)が「仏(ほとけ)」と同じでありながら、しかも、どこまでも「菩薩(ぼさつ)」として行動してゆくからです。いわば「菩薩仏(ぼさつぶつ)」であるのです。
そして、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)は「因果倶時(いんがぐじ)の仏(ほとけ)」です。因果倶時(いんがぐじ)を「蓮華(れんげ)」という。妙法蓮華経の「蓮華」は「因果倶時(いんがぐじ)の仏」を表している。それは、「因行(いんぎょう)(仏因(ぶついん))」の中に「果徳(かとく)(仏果(ぶっか))」を認めることです。それまでの仏教は、どこまでも「仏果(ぶっか)」が勝れ、「仏因(ぶついん)」は劣っているとした。しかし、上行菩薩の出現によって、「因行(いんぎょう)(九界(きゅうかい))」に「果徳(かとく)仏界(ぶっかい))」を含んでいるのです。
要するに、無始無終(むしむしゅう)の仏を説くためには、「因行(いんぎょう)(仏因)」に「果徳(かとく)(仏果)」を認めなくてはならない。これが、三世常住(さんぜじょうじゅう)の本仏を示すうえで「唯一(ゆいいつ)の道」なのです。
釈尊と上行菩薩という『久遠(くおん)の師弟(してい)』が法華経の主人公ですが、それは宇宙と一体の「無始無終(むしむしゅう)の本仏(ほんぶつ)」の生命をさし示しております。本仏の「本因(ほんいん)」を、法華経二十八品では「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」として表現し、本仏の「本果(ほんが)」を「久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊」として表現している。これは釈尊と上行(じょうぎょう)と二つの別々の仏(ほとけ)というのではなく、一仏(いちぶつ)に二つの側面を表したということです。
法華経は「永遠の生命(せいめい)」即「永遠の本仏(ほんぶつ)」という大生命の実在を説きました。そして、その大生命が、凡夫(ぼんぷ)である「人間」に顕現(けんげん)するという事実です。末法(まっぽう)は「釈尊の時代」ではなく、「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の時代」です。「上行菩薩の時代」とは、「凡夫(ぼんぷ)こそが仏(ほとけ)である」と開顕(けんげん)してゆく時代です。ありのままの「凡夫」「人間」以外に「仏」はないのであります。
末法(まっぽう)の衆生(しゅじょう)に成仏(じょうぶつ)の「本因(ほんいん)」を説く、そのための如来神力品(にょらいじんりきほん)への付属(ふぞく)です。ゆえに如来神力品の「如来(にょらい)」の元意(がんい)は、釈尊だけのことではなく「一切衆生(いっさいしゅじょう)」のことになる。要するに「全民衆よ、汝自身(なんじじしん)の尊貴(そんき)さに目覚めよ!」という叫びであります。
「神力」とは「生命の力」です。凡夫を代表する「一切衆生」の本当の「生命の力」を示したのが如来神力品(にょらいじんりきほん)なのであります。
教祖・杉山辰子先生は『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事と仰せです。困っている人を助けることが、法華経の本意であります。そして、全ての人が幸せになることを願っておられます。
私たちが法華経広宣流布に邁進し三徳(さんとく)の実践をしてゆく時に、大きな、大きな功徳を頂くことができます。毎日、毎日のご精進の積み重ねが『すばらしき人生』への軌道となるでしょう。
合 掌