もう今年も余すところ三ヶ月弱となりました。あっという間に一年が過ぎようとしております。年を重なることの速さを実感するのも当然であります。今月、齢(よわい)六十一歳となりました。六十歳を過ぎたら、一日一日が非常に大切となってまいります。悔いの無いよう努力と忍耐と根性で生きてゆきたいと思っております。
つい先日の話ですが、中学の同窓会の連絡が入りました。前回の開催が平成十五年で、その時の幹事を仰せ使いました。今回の幹事が非常に不真面目で全く準備をしておりませんでした。この十三年間、同窓会が放置されたままでした。そこで、しびれを切らした同級生から、今年は何としてでも開催します。という連絡でした。
私が生まれた年は、戦後のベビーブームの後で、同級生は、あまり多くおりませんでした。まあ、田舎ということもありまして、三クラスで百名前後でした。前回の出席者は分かりますが、四十数年もたつと顔が分かるかどうか心配であります。意外と小さい頃の面影は残っているものです。同級生が皆元気で頑張っている姿を確認するために、参加したいと思っております。
先月は秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りを頂き、誠に有難う御座いました。来る十一月十三日には法公会立教四十三年祭が執り行われます。お餅も二十三俵前後投げさせて頂きます。多くの信者さまのご参詣をお待ち申し上げております。
私がサラリーマンの時でした。静岡県を担当しており、その当時、いろんな人間模様を見てまいりました。医者も十人十色でありまして、素直で純朴な人柄の先生から真面目で正直な先生や、一目見ただけでも神経質さがにじみ出るような先生、あるいは大雑把(おおざっぱ)で豪快な先生、いかにも意地の悪そうな先生と、ありとあらゆる人間に出会いました。これは、どの社会に出ても同様であります。
一般的にドクターは患者より偉いと思い込んでいる人が多いように感じます。確かに、病気を治すことが出来るのですから当然と思うかも知れません。しかし、まったくそうではありません。人間は全て平等であります。どちらかが偉いということは無いのであります。
藤枝市の総合病院のK先生とは、とても懇意にさせて頂きました。素直で性格が良い先生でしたので、こちらも、患者さんのために何か協力できないかと思い、いろんなご提案をさせて頂き、結果的に患者さんのメリットに繋がる情報提供ができました。
世の中にはそういう良い先生ばかりではなく、とても失礼な先生もおりました。私たちが患者さんにとってプラスになる情報提供をしても、渡したリーフレット(パンフレット)や名刺を目の前でごみ箱に捨てるという、誠に不愉快な先生もおりました。おそらく患者さんにとってのメリットと自分が係わる煩わしさとを天秤にかけ、そのような行為をしたものと思われます。
仕事をするにおいて、まず、大事なことは、喜んでできるかどうかであります。仕事は楽しくなければいけません。仮に、楽しくないと思うのなら、考え方を変えることが大事であります。とても辛い仕事や、とても疲れる大変な仕事については、人にはできない大事な仕事ができるのは自分だけと思うことです。自分しかできないのだと思うのです。
また、嫌な上司がいて、つまらない職場の場合も、この上司は自分を心より心配して、育ててくれるのだと思うことです。全てのマイナス思考をプラス思考に変えることが大切です。マイナスのエネルギーがプラスのエネルギーに変換されてゆくのですから、考え方一つで良くなってゆくのは疑う余地もありません。
私たちは、望むと、望まざるとに関係なく法華経に巡り逢えました。これは偶然ではなく必然なのであります。折角、尊い法華経に縁があったのですから、この教えが正しいことを信じて、信じて、信心して、信心しぬく心を持つことがとても大切であります。
それでは、嘱累品(ぞくるいほん)(第二十二章)に入りたいと思います。法華経は「霊鷲山(りょうじゅせん)」から「虚空会(こくうえ)」へ、また「霊鷲山」へと戻ります。二つの場所で三つの会座(えざ)ですから、「二処(しょ)三会(え)」ということであります。この二処三会には深い意義があります。それは、法華経全体の構成によって、「現実世界から『永遠の生命の世界』へ」(霊鷲山(りょうじゅせん)から虚空会(こくうえ)へ)、そしてまた「現実の世界へ」(虚空会(こくうえ)から霊鷲山(りょうじゅせん)へ)という、『人間革命のリズム』を示しております。「求道(きゅうどう)(上求菩提(じょうぐぼだい))」の方向と、「救済(きゅうさい)(下化衆生(げけしゅじょう))」の方向と、両方の往復のリズムなのです。妙法蓮華経に、「帰命(きみょう)する(南無(なむ)する)」というもの、妙法に「帰(き)する」方向と、妙法に「命(もとず)く」方向と両方を含んでおります。いわば、「自行(じぎょう)」と「化他(けた)」の両方向があって、初めて宇宙のリズムに合致して行くのです。
法華経は釈尊の遺言です。自分の死後に、誰が、どうやって人類を救っていくのか。それを指し示すために説かれました。具体的には法師品(ほっしほん)(第十章)から菩薩(ぼさつ)への呼びかけが始まり、続いて宝塔品(ほうとうほん)(第十一章)で、巨大な宝塔(ほうとう)が出現した。そして大衆を虚空会(こくうえ)に引き上げ、「大音声(だいおんじょう)」で呼びかけます。「誰か能(よ)く此(こ)の娑婆国土(しゃばこくど)に於いて、広く妙法蓮華経を説かん。今正(まさ)しく是(こ)れ時なり。如来(にょらい)は久しからずして、当(まさ)に涅槃(ねはん)に入るべし。仏は此(こ)の妙法蓮華経を以て、付属(ふぞく)して在(あ)ること有らしめんと欲(ほっ)す」とあります。そして、虚空会(こくうえ)でずっと儀式が続き、この嘱累品(ぞくるいほん)で、虚空会(こくうえ)の儀式が終わるのであります。
それでは、嘱累品(ぞくるいほん)のあらすじですが、神力品(じんりきほん)(第二十一章)で上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)への「付属(ふぞく)」が終わります。その後、釈尊は立ち上がって、大神力(だいじんりき)を示します。それは、無量(むりょう)の菩薩(ぼさつ)の頭を右の手でなでて、こう言うのです。「自分が久遠(くおん)の昔に修行(しゅぎょう)した、この得(え)がたき仏の悟りの法を、今、あなた方に託(たく)すから、この法を一心に流布(るふ)して、広く人々に利益(りやく)を与えてきなさい」。それを三回、繰り返します。本化(ほんげ)・迹化(しゃっけ)、両方含めた菩薩(ぼさつ)への「総付属(そうふぞく)」となるのであります。
嘱累品(ぞくるいほん)で「付属(ふぞく)の儀式(ぎしき)」の完結(かんけつ)です。「付属(ふぞく)」とは「後継(こうけい)」です。「後継(こうけい)」とは「師弟(してい)」であるのです。末法(まっぽう)に布教(ふきょう)してゆくための「広宣流布(こうせんるふ)の弟子(でし)」の品(ほん)です。嘱累(ぞくるい)の「嘱(ぞく)」とは「まかせる」「託(たく)す」という意味です。「累(るい)」は「面倒(めんどう)をかける」という意味ですから、「ご苦労掛(くろうか)けるが、私に代わって、正法(しょうほう)を人類に弘(ひろ)めてくれ」と弟子に託(たく)すことなのであります。
そこで、菩薩(ぼさつ)たちは、こう誓います。「世尊(せそん)の勅(みことのり)の如(ごと)く、当(まさ)に具(つぶさ)に奉行(ぶぎょう)すべし。唯(た)だ然(しかり)なり。世尊(せそん)よ。願(ねが)わくば慮(うらおも)いしたまうこと有らざれ」。訳しますと、「はい、私たちは、世尊(せそん)のご命令通りに実行します。どうか、世尊、ご安心ください。ご心配なさらないでください」。と、これを三回、繰り返します。さぞかし師匠(ししょう)もうれしかったことでしょう。
嘱累品(ぞくるいほん)に布教(ふきょう)の人は「諸仏(しょぶつ)の恩(おん)を報(ほう)ず」とあるように、仏の願い、師匠の願いは、ただ「広宣流布(こうせんるふ)」にあります。ゆえに法華経を布教することが、師匠への「報恩(ほうおん)」になるのです。恩を忘れて仏法はない。仏法は「人間の生き方」を教えたものです。ゆえに、仏法者は、誰よりも「報恩(ほうおん)の人」でなければならないのです。
さらに深く見るならば、「三回、頭をなでる」ということは、師匠の「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」そのままを、弟子が実行してゆけという意味です。師の教えを「身(み)」で行(ぎょう)じ、「口(くち)」で行(ぎょう)じ、「意(こころ)」で行(ぎょう)じてゆく、すなわち自分の仏界(ぶっかい)を無量(むりょう)に開(ひら)いてゆくことなのであります。要するに布教(ふきょう)、広宣流布(こうせんるふ)に邁進(まいしん)してゆくことです。広宣流布に連(つら)なった「身(しん)」「口(く)」「意(い)」の三業(さんごう)は、全部、大功徳(だいくどく)に変わるのです。
法華経全体が「師弟(してい)の儀式(ぎしき)」なのであります。「三回、頭をなでる」ことの本義(ほんぎ)も、弟子の頭に「南無妙法蓮華経」の「明殊(みょうしゅ)」を与えることです。安楽行品(あんらくぎょうほん)(第十四章)の「髻中(けいちゅう)の明殊(みょうしゅ)」の譬(たと)えですが、『髻(もとどり)(髪(かみ)を頭の頂(いただ)きに集めたもの。「たぶさ」)の中に大切にしまってある一番大切な宝殊(ほうしゅ)のこと。このように法華経こそ、仏が与える無上(むじょう)の宝殊(ほうしゅ)にあたるのです』。要するに、御本尊(ごほんぞん)のことです。御本尊を弘めてゆきなさいというのが、嘱累品(ぞくるいほん)の本意であります。
上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)への付属(ふぞく)は「本尊付属」あるいは「法体(ほったい)付属」等と呼ばれております。法華経の付属には二通りあります。一つは「教巻付属(きょうかんふぞく)」です。迹化のために、この二十八品を付属しました。一方、本化地涌(ほんげじゆ)の菩薩(ぼさつ)のためには、寿量品(じゅりょうぼん)の文底(もんてい)にあって、一切諸仏(いっさいしょぶつ)がそれを「本尊(ほんぞん)」として修行した法体(ほったい)、すなわち、久遠元初(くおんがんじょ)の南無妙法蓮華経を付属(ふぞく)したのであります。この、付属(ふぞく)の儀式(ぎしき)を通して、末法に、この御本尊を所持(しょじ)している「人」を指し示し、最大に賞讃(しょうさん)したのであります。
釈尊は信頼する弟子には何も隠さなかった。「如我等無異(にょがとうむい)(我(わ)が如(ごと)く等(ひと)しくて異(こと)なること無(な)からしめん)」と言って、皆に、最高の「秘宝(ひほう)」すなわち「妙法(みょうほう)」を教えたのです。釈尊は大施主(だいせしゅ)なのです。「如来(にょらい)は大慈悲(だいじひ)有って諸(もろもろ)の慳悋(けんりん)無(な)く、亦(ま)た畏(おそ)るる所無くして、能(よ)く衆生に仏の智慧(ちえ)・如来(にょらい)の智慧(ちえ)・自然(じねん)の智恵(ちえ)を与う。如来(にょらい)は是(こ)れ一切衆生(いっさいしゅじょう)の大施主(だいせしゅ)なり」とあります。妙法(みょうほう)は、「如意宝殊(にょいほうしゅ)」(心のままに宝を得られる宝殊(ほうしゅ))です。この「宝の中の宝」を包(つつ)み隠(かく)さず全部、あげるというのですから、こんなに素晴らしいことはありません。「如来(にょらい)の秘密(ひみつ)」をすべて開示(かいじ)するという、「如来秘密・神通之力(じんつうしりき)」を全部、示したということです。この寿量品(じゅりょうほん)の文(もん)が「本門(ほんもん)の極理(ごくり)」といわれております。その実体(じったい)は「文底(もんてい)の南無妙法蓮華経」なのです。
過去・現在・未来の、全宇宙の全ての仏を成仏させて「根源(こんげん)の種子(しゅし)」を、そのまま弘める訳です。まさに「如来(にょらい)の秘密(ひみつ)」そのものであるのです。
最後に弟子たちの『ご安心ください』という返事を聞いた釈尊は、十方(じゅっぽう)から集まっていた諸仏(しょぶつ)を「本土(ほんど)にお帰りください」と言って帰し、「宝塔(ほうとう)も元通(もとどお)りにしてください」と言って、虚空会(こくうえ)の儀式(ぎしき)が終わるのであります。
法華経全体が、壮大(そうだい)な「師弟(してい)の儀式(ぎしき)」なのです。師弟(してい)を離れて、法華経は分からない。この教えを永遠に弘めてゆくこと、そして、菩薩行(ぼさつぎょう)に邁進(まいしん)してゆくことを次世代(じせだい)に伝えることがとても重要なのであります。
教祖・杉山辰子先生は常日頃よりお題目を唱えることが重要であると仰せです。『南無妙法蓮華経』と唱えることと、『法華経広宣流布(ほけきょうこうせんるふ)に邁進する』ことであります。そして、三徳(さんとく)の実践こそ私たちの生きる目標であります。『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』を日常生活の中で実践することであります。
お釈迦さまは『全ての人が幸せになれるように』と、この教えを説かれました。有難いことに私たちは法華経に巡り合うという運命があったのです。そして、仏のこころを生きることにより自分の魂を磨き『すばらしい人生』という最高の境地を掴むのです。
合 掌