十一月に入りますと、少し寒さが気になりますが、観光やレジャーには最適なシーズンとなります。紅葉の名所もいくつか御座います。どうか足を運んで秋を満喫されてはいかがでしょうか。
この十一月を霜月(しもつき)とも読んでおります。読んで字の如く、霜が降りる月でありますが、最近は温暖化のせいか、あまり遭遇いたしません。また、七・五・三の行事もあります。子供さんや、お孫さんの成長を祝う行事であります。元気で健やかに育ってくれることが何より幸福なのであります。
さて、今月は法公会立教四十三年祭が開催されます。例年どおり餅投げも執り行わせて頂きます。どうか多くの信者様のお参りをお待ち申し上げます。引き続き十二月は開祖・榊原法公先生六回忌の開祖祭が執り行われます。重ねまして、宜しくお願い致します。
日本人はとても勤勉であります。仕事し対して一生懸命働く人は多いと思います。一生懸命働くから成果が出る人、そうでない人。適当に仕事をする人でも成果を出せる人、そうでない人と必ずしも行動と結果は一致しません。そして、結果を早く出せる人、そうでない人と人間は多種多様であります。能力には個人差があるのです。オリンピックでメダルを取る人、そうでない人。いろんなことが考えられます。しかし、人間が努力に努力を積み重ね、体得した力は決して嘘をつきません。必ず結果は、金・銀・銅メダルか若しくは、非メダル群に分かれます。当然ですが個人の目標をどこに置くかにより、結果は大きく変わってまいります。
人間は常に目標を持たなければ、生きる意味がありません。どんなに大きな夢(目標)でも、また逆にどんなに小さな夢(目標)でもいいのです。夢を持つことが、私たちの生きがいとなってゆくのです。そして、期限を設定しなければいけません。いつまでにやり遂げるのか。一つの夢が実現したら、また新たな別の夢に向かい、最後までやり遂げることが極めて重要であります。
仕事が成功するか、しないかは一概に言い切れるものではありません。勿論、目標や期限をもうけ実行しても、相手のあることであります。性格・雰囲気・環境等いろんな要素が絡んでまいります。そして、「運」という目に見えないものを、掴まなくてはなりません。その「運」とは、正直で誠実で謙虚であり、そして、素直な心にならないと掴み取ることができないと思います。しかし、果たして「運」だけあれば良いのかと考えてみれば、そうではないような気もします。従いまして、行動と内容と信頼と時期などの好条件すべてが合致するタイミングが『運を掴む』ことなのかも知れません。
それでは、薬王菩薩本事品(第二十三章)に入りたいと思います。妙法の「妙」には「開く」という意義があります。広々とした己心の宝の世界を開くための信心です。何があっても楽しんでいける境涯をつくることが大切です。釈尊の言葉に、こうあります。「悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう」。『悩み無く』というのは、煩悩をも即、菩提に、すなわち楽しみに変えていこう、充実に変えていこう、「悩みを乗り越える幸福感」に変えていこうということであります。「貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮らそう」。貪るから、苦しみが生まれるのです。「功徳」を楽しんで積んでいこうということです。
「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、涅槃は最上の楽しみである」とあります。生死即涅槃です、「不死の境地」と釈尊は常に言っているのが、それは、「仏界(ぶっかい)」ということであります。
たしかに釈尊が悟りを開いた後、梵天(ぼんてん)の要請(ようせい)に応えて、初めて発した言葉は「甘露(かんろ)(不死)の門は開かれた」であったとされております。釈尊が初めて人に対して法を説いた時も、五人の修行者に対して、「耳を傾けよ。不死(ふし)が得られた」と呼びかけたと伝えられております。「死苦(しく)」を乗り越える「法(ほう)」を得たのです。それが妙法(みょうほう)なのです。
薬王品(やくおうほん)(薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん))には、有名な言葉があります。「此(こ)の教(きょう)は則(すなわ)ち為(こ)れ閻浮提(えんぶだい)の人の病(やまい)の良薬(ろうやく)なり。若(も)し人病有らんに、是(こ)の経を聞くことを得ば、病は則(すはわ)ち消滅(しょうめつ)して、不老不死(ふろうふし)ならん」。法華経の功徳を「不老不死」と説いております。釈尊が悟った「不死の境地」が、法華経で明かされております。法華経が釈尊の出世の本懐(ほんかい)である、すなわち生涯(しょうがい)の教えの最終結論であるということが、ここにも表れております。
色心(しきしん)ともに「健康」です。色心ともにはつらつとして、「今世(こんぜ)の使命」のために、全精魂(ぜんせいこん)を込めて生き抜くのです。たとえ病に伏しても、生ある限り、妙法を唱え、妙法を語ってゆく。生死(しょうじ)を超えて、使命に生きてゆく。その「信心(しんじん)」こそが「不老不死」の境地なのであります。それを薬王品(やくおうほん)は教えている。さらにいえば、薬王菩薩(ぼさつ)が身をもって、教えているのです。
それでは、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)の概要ですが、ここからの六品(ほん)は、二処(しょ)三会(え)でいえば、六品は(「前半の霊鷲山(りょうじゅせん)」「虚空会(こくうえ)」に続く)「後霊鷲山会(ごりょうじゅせんえ)」であり、虚空会(こくうえ)で明かされた「永遠の妙法」を胸に、現実世界へ打って出るという重要な意義を持っている。寿量品(じゅりょうほん)(第十六章)の文底(もんてい)の南無妙法蓮華経を信受(しんじゅ)した上で、それぞれの舞台で妙法を「実証(じっしょう)」する。「実験証明(じっけんしょうめい)」して「流通(るつう)」してゆくのです。だから、この六品(ほん)に登場する菩薩は、非常に多彩な姿になっている。薬王(やくおう)、妙音(みょうおん)、観音(かんのん)、勇施(ゆぜ)、薬上(やくじょう)、普賢(ふげん)などの顔ぶれです。
このように、後霊鷲山会(ごりょうじゅせんえ)での迹化(しゃっけ)の菩薩(ぼさつ)は、仏界(ぶっかい)という光を胸中に灯しながら、それぞれの使命の姿を彩り豊かに表しております。釈尊滅後(しゃくそんめつご)の広宣流布(こうせんるふ)の「主役」は、あくまでも本化地涌菩薩(ほんげじゆぼさつ)であります。迹化(しゃっけ)の菩薩(ぼさつ)は「脇役(わきやく)」というか、主役を助ける立場です。この「地涌(じゆ)の使命を助ける」働きを明かしたのが、後霊鷲山会(ごりょうじゅせんえ)の六品(ほん)と考えられます。
薬王品(やくおうほん)のストーリーですが、一口に言って、薬王(やくおう)菩薩の「師匠(ししょう)への報恩(ほうおん)」の物語です。宿王華菩薩(しゅくおうけぼさつ)が釈尊に質問します。「薬王(やくおう)菩薩は、なにゆえに娑婆(しゃば)世界で難行苦行(なんぎょうくぎょう)しているのですか。皆、聞きたがっています」と。それに釈尊が答えます。「過去に日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)という仏が法華経を説いた時、一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)という菩薩がいた。彼は法華経を聞き、一心に仏を求めて修行し、一万二千年後に『現一切色心三昧(げんいっさいしきしんざんまい)』という境涯を得た」。『十界(じゅっかい)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の姿を自在に現せる』境涯(きょうがい)です。彼が、この境涯を得られたのは法華経のおかげであり、仏のおかげであると知っているゆえに、「よし、師匠と法華経を供養しよう」と報恩(ほうおん)の誓(ちか)いを立てます。そして最高の供養は、自分自身の生命を捧げる供養だと考え、さまざまな香(こう)や香油(こうゆ)を飲んだ後、香油を身に塗って、自分の身を燃やし、その光明(こうみょう)を供養しました。
その灯明は千二百年にわたって燃え続け、世界を照らしました。諸仏は、この供養は「第一の布施(ふせ)」であり、「法の供養」であると讃(たた)えます。報恩(ほうおん)に徹(てっ)した真心が世界を照らしたのです。一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)の「報恩(ほうおん)」の思いは千二百年、我が身を燃やしても尽きません。やがて、燃え尽きて命を終えた後、また同じ日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)の国に生まれ、浄徳王(じょうとくおう)の家に誕生します。そして、ふたたび日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)のもとへ行って、報恩の供養を捧げようとするのです。
生死を超えた報恩の一念です。「死後もまた師匠のもとに生まれて、戦うのだ」と決めていた。「現一切色心三昧(げんいっさいしきしんざんまい)」を得ていたのだから、どこに生まれるかも自在です。妙法(みょうほう)の信心(しんじん)に徹(てっ)すれば自在であります。
ふたたび師匠にまみえた一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)に対して、師は自身の入滅(にゅうめつ)の時が来たことを告げ、法を彼に付嘱(ふぞく)します。また、仏の一切の弟子、一切の宝をすべて彼に託(たく)したのです。
一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)は、日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)の舎利(しゃり)(遺骨)を八万四千の塔(とう)を造って供養します。しかし、師を恋慕(れんぼ)する彼の心は、それでも満足しません。そこで彼は八万四千の塔の前で、自分の臂(ひじ)(腕)を燃やして供養します。それが七万二千年、続きます。この時、人々は師匠である一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)の臂(ひじ)が失われたことを悲しみますが、菩薩は「私は両方の臂(ひじ)を失ったが、必ず仏の金色(こんじき)の身を得るだろう。それが嘘でない証拠として、私の臂(ひじ)は元通りになるだろう」と言います。
すると、この言葉通り、臂(ひじ)は元通りになります。このように大確信をもっての供養は、必ず、それ以上の福徳(ふくとく)となって返ってきます。真の供養をするためにも「心こそ大切」なのであります。こういう過去を釈尊は語り、この一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)こそ、現在の薬王菩薩(やくおうぼさつ)であると説くのです。
薬王(やくおう)は別名「医王(いおう)」ともいいます。「生死の苦しみの病」を治す名医ということです。薬王という名前は、仏に近い高位(こうい)の菩薩(ぼさつ)であることを示唆(しさ)しております。
法華経の「己心(こしん)の薬王菩薩(やくおうぼさつ)」とは、一体なにか。法華経はすべて「己心(こしん)の儀式(ぎしき)」であります。経文(きょうもん)を向こう側においては、肝心なことは分からない。我が生命の薬王菩薩(やくおうぼさつ)とは、名前の通り、心身(しんしん)の病気を治(なお)し、生命を「健康」にする力用(りきよう)といってよいと思います。その本体は「妙法(みょうほう)」であり「仏界(ぶっかい)」です。仏界の大生命力が生命の苦しみ癒(いや)す働きを「薬王(やくおう)」というのです。ゆえに御本尊に向かって唱題する時、己心(こしん)の薬王(やくおう)が働くのです。
この妙法を信心する人間の福徳(ふくとく)は、苦悩の火に焼(や)き滅(ほろ)ぼされることはない。そして、不幸の荒波(あらなみ)に押し流されることも絶対にないのであります。薬王品(やくおうほん)が教えているのは「正法のために身を捧げる」信心(しんじん)です。そして、魔(ま)に、つけ入る「すき」を与えないことです。妙法広宣流布を断絶(だんぜつ)してはならない。師から弟子へ、世代から世代へと我が身を灯台(とうだい)として燃やしてゆく『布教(ふきょう)』のリレーを未来永劫(みらいえいごう)に続けてゆきなさいということだと思っております。
教祖・杉山辰子さまは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、南無妙法蓮華経と唱えることが、とても大事と仰せでございます。何時(いつ)も、如何(いか)なる時も、お題目(だいもく)を唱えることが大事であると仰せでございます。そして、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(せんじょう)・仏智(ぶっち)の六波羅蜜(ろくはらみつ)の修養(しゅうよう)をし、功徳(くどく)を積むことが大切であります。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故や災難、病気から逃れることができると、おっしゃっておられます。
私たちは、三徳『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践により、自分自身の徳を積むことが大切であります。そして、積徳(せきとく)の人生がどれほど素晴らしいか体現することが重要であります。
お釈迦さまの教えが如何(いか)に現実にかなっているかを知らなくてはなりません。その上で、自分自身を切磋琢磨(せっさたくま)してゆく中に『すばらしき人生』を掴むことができるのであります。
合 掌