PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生48

一年があっという間に過ぎようとしております。今年を振り返りますと、大きな事柄が二つありました。一つは聖仏舎利宝塔の外壁塗装工事です。もう一つは事務所のリフォーム工事でした。信者の皆さまには、大変ご不便をお掛け致しました


 外壁の白色の塗装というのは、月日が経ちますと経年劣化してゆきます。定期的な補修が必要であります。そして、事務所は今までの畳の環境から、がらりと変わりました。


 四十数年の間、和机に小椅子といった中腰の姿勢であり、身体にはよくなかったと思います。そこで、思いきって事務所らしい事務所へと変身しました。机に椅子という健康面から見れば最高で最適となりました。人間は年を重ねれば、いつかは正座できなくなってしまうものです。寿命には環境との密接な関係があります。より良い快適空間で仕事をすれば、能率・効率が高まります。そして、その上で健康を維持してゆくことがとても大切ではないでしょうか。


 先般は立教四十三年祭にお参りを頂きまして有難う御座いました。二十五俵という沢山の餅のご寄付を頂戴しました。お蔭様をもちまして晴天に恵まれ、無事執り行うことができました。重ねて感謝申し上げます。そして、今月は開祖・榊原法公先生ご入滅六回忌でございます。多くの信者さまのご参詣をお待ち致しております。


 さて、仕事でお困りの人は多いと思います。しかし、解決できる問題ならいいのですが、解決できないことを、何時までも悩んでいたりすると、病気になってしまいます。所詮、人生は、なるようにしかならないのです。もっと気楽に考え、楽観的に物事を捉えることが時には必要であります。


 私がサラリーマンだった頃、どうしても気が合わない顧客(薬剤部長)がおられました。私は製薬メーカーでMR(医薬情報提供者)という仕事をしておりました。新製品が出ると新規採用をするために目標件数や数量のトレース(実績追求)が中心となり展開されます。


 そこで、ある病院の薬剤部長で、無理難題を言われる先生がおられました。新製品を採用するには病院の薬審(採用するかを審議する会議)で採用の可否が諮られます。この薬剤部長さんは、採用が決まった場合に全ての医者に必ず伝達して下さいと、大変な注文をされる先生でした。しかし、嘘も方便じゃないですが、全ての医者に伝達しましたと、回答したことも多々ありました。まともに、先生の話を聞いていたら仕事になりません。適当に処理するぐらいが丁度よいのであります。


 逆に、すごく気の合う顧客(薬剤部長)もいました。この場合は、どんなことをしてでも先生の応援をしたくなります。病院のため、患者さんのためになることを精一杯、支援してしまうのであります。


 社内にも、気の合う人、合わない人がおります。人間は嫌いになると、とことん嫌になってしまい、顔を見るのもうっとうしくなります。しかし、そういう人に必ず会わなければならないような運命的なものを感じます。自分が避ければ避けるほど近づいてくるのです。しかし、それは、仕方のないことと割り切れば、徐々に相手の良い所が見えてくるのです。


 対人関係は非常に難しいものです。しかし、嫌いな人や嫌な人を、今までとは別の角度で見ることで、本来その人の持っている良い部分が見えてくるのではないでしょうか。


 そして、相手を決めつけるような色眼鏡(いろめがね)で見ないことです。素直な気持ちで優しく対応すれば、その人の必ず良い部分に気が付きます。人間、何時でも何処でも「気づき」がとても大切であると思うのです。


 妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)(第二十四章)に入りたいと思います。法華経はどんな人にも、分けへだてなく「希望」を与える経典です。『太陽』の温かさ、明るさがあります。法華経のそのものが「美の価値」を体現(たいげん)しております。その「美」の根源(こんげん)とは何か。ありとあらゆる優れた「文化」のふるさととは何か。それは人間生命の躍動(やくどう)なのであります。


 辛くとも苦しくとも、耐えて耐え抜けば、最後には勝利するという宇宙本然(うちゅうほんねん)のリズムを、生命力を、汲(く)み上げ、湧(わ)きたたせてゆく戦いです。あらゆる一流の芸術には、この「生への希望」が脈打(みゃくう)っているのです。たとえ表面的には苦しみが描かれていようとも、「希望」という大生命力に、妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)の核心(かくしん)があるのではないでしょうか。


 妙音菩薩(みょうおんぼさつ)の体は非常に大きいですが「顔も端正(たんせい)で、百千万の月を合わせたよりも美しい」と説かれています。体は金色(こんじき)に輝き「無量百千の功徳(くどく)」と「威徳(いとく)」があふれている。そして、娑婆世界(しゃばせかい)にやってくる時、通り路(みち)の国は震動(しんどう)し、「七宝(しっぽう)の蓮華(れんげ)」を雨と降らし、「百千の天楽(てんがく)(天の音楽)」が鳴り響(ひび)きます。


 この華麗(かれい)なる「光と音の菩薩」ということです。この壮麗(そうれい)な姿を娑婆世界(しゃばせかい)の人々に「見せる」こと自体が、妙音(みょうおん)がやってくる目的の一つなのです。法華経の経文は、大宇宙の根源で『渦(うず)』を巻き、『波(なみ)』を打っている大生命力のリズムなのです。妙音(みょうおん)はまさに、この「大生命力のリズム」を象徴(しょうちょう)しております。


 なぜ妙音菩薩(みょうおんぼさつ)が、娑婆世界(しゃばせかい)にやってきたのか、あらましですが、釈尊が眉間(みけん)から光を放(はな)って東方を照らします。すると無限(むげん)の仏国土(ぶつこくど)の一つに「浄光荘厳(じょうこうそうごん)」という世界があり、その国に「浄華宿王智如来(じょうけしゅくおうちにょらい)」という仏がいます。この国に妙音菩薩(みょうおんぼさつ)は住んでいるわけです。


 無量(むりょう)の諸仏(しょぶつ)に「親近(しんごん)」し、供養(くよう)して、「法華三昧(ほっけさんまい)」をはじめ、もろもろの大三昧(だいさんまい)の境涯(きょうがい)を得たとされています。「親近(しんごん)」とは「親しみ、近づく」ことであります。たゆまず御本尊(ごほんぞん)を拝(はい)することが大事であります。広宣流布(こうせんるふ)を行(ぎょう)じてゆく中に、自分自身の生命力が増し、境涯(きょうがい)を広げていけるのです。


 法華三昧(ほっけさんまい)とは、「心を統一した境涯(きょうがい)」のことであり、「解一切衆生語言三昧(げいっさいしゅじょうごごんさんまい)(一切衆生(いっさいしゅじょう)の語る言葉がわかる三昧(さんまい))」とか「慧炬三昧(えこさんまい)(智慧の松明(たいまつ)を燃やす三昧(さんまい))」とか、さまざまに説かれております。


 あふれ出る「智慧(ちえ)」の境涯(きょうがい)であり、「心の平和」の境涯です。何が起ころうとも揺るがない大盤石(だいばんじゃく)の境涯(きょうがい)です。


 釈尊の光が妙音菩薩(みょうおんぼさつ)を照らすと、妙音(みょうおん)は浄華宿王智如来(じょうけしゅくおうちにょらい)に申し出ます。「娑婆世界(しゃばせかい)に行って、釈尊を礼拝(れいはい)し、親近(しんごん)し、供養(くよう)し、さまざまな菩薩(ぼさつ)がたにも、お目にかかりたい」と。如来(にょらい)は答えます。「それはいいが、娑婆世界(しゃばせかい)を軽(かろ)んじてはいけない。そこに高低(こうてい)があって平(たい)らかでなく、泥や石や山が多く、よごれている。仏の身も、菩薩の身も小さいし、見劣りがする」。


 それでも「娑婆世界(しゃばせかい)の仏と菩薩を尊敬しなさい」と。「いちばん大変なところで法を説き、法を弘めている方々を絶対に軽(かろ)んじてはならない。見かけで判断してはならない。最高に尊敬していきなさい」。いちばん大変な国土で、泥まみれになって戦っている人が、いちばん尊(とうと)いのです。


 妙音菩薩(みょうおんぼさつ)は「如来(にょらい)の力」によって、少しも動くことなく、遠く離れた霊鷲山(りょうじゅせん)に美しい「蓮華(れんげ)」を八万四千本、出現させます。その蓮華(れんげ)は「黄金(おうごん)の茎(くき)」をもち、「銀の葉」をもち、おしべはダイヤモンド、「台(うてな)(花托(かたく))」もルビーのような赤い宝石です。釈尊が説法している場所のそばに、それらが現れました。『精神(せいしん)の宝石』です。生命の『福徳(ふくとく)の宝石』であり、『智慧(ちえ)の宝石』です。これこそ三世永遠(さんぜえいえん)の宝石(ほうせき)なのです。


 霊鷲山(りょうじゅせん)の人々は驚(おどろ)き、蓮華(れんげ)が出現したわけを文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が代表して、釈尊に聞きます。釈尊が「この蓮華(れんげ)は妙音菩薩(みょうおんぼさつ)がやってくる瑞相(ずいそう)である」と答えると、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が妙音(みょうおん)に会いたがります。会って、学びたいという求道心(きゅうどうしん)です。そこで多宝如来(たほうにょらい)の『来(き)たれ』という合図で、妙音(みょうおん)が八万四千の菩薩(ぼさつ)とともに、「七宝(しっぽう)の台(うてな)」に乗って、やって来るのです。


 だれもが息を飲むような、そういう壮麗(そうれい)な姿と音楽で、妙音(みょうおん)は「法華経の功徳(くどく)は、こんなにすばらしいのですよ」と皆に示しているのです。自分が獲得(かくとく)した「見えない境涯(きょうがい)」を、だれにでも分かるように「目で見え」「耳で聞こえる」ように表現しているのです。信心(しんじん)で得た「境涯(きょうがい)」も、何らかの「表現(ひょうげん)」によって、初めて人々のもとに光は届(とど)くのです。


 妙音(みょうおん)には「音楽」「芸術」「文化」といろんな意味が込められております。妙音菩薩(みょうおんぼさつ)がやってきた時、あまりの素晴らしさに、「いったい、どんな善根を植えて、こうなったのですか」と華徳菩薩(けとくぼさつ)が聞きました。そこで、釈尊は妙音(みょうおん)の過去世(かこせ)を明かします。


 昔、雲雷音王仏(うんらいおんのうぶつ)の時に、仏に十万種(しゅ)の伎楽(ぎがく)(舞踊(ぶよう)と音楽(おんがく))、そして、八万四千もの七宝(しっぽう)の鉢(はち)を供養した。その功徳で、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)として生まれ、さまざまな神通力(じんつうりき)や福徳(ふくとく)を具(そな)えることができた、と。


 これはまさに八万四千の塵労(じんろう)のことであります。ありとあらゆる苦労(くろう)のことです。人生は無数の塵(ちり)のように、きりのない苦労の連続です。その苦労が、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)を唱える時に、全部「八万四千の法門(ほうもん)」になるのです。苦労した分だけ、全部、教訓(きょうくん)となり、智慧(ちえ)となり、指導力(しどうりょく)に変わるのです。


 文底(もんてい)から見るならば、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)も苦しみと戦い、戦い、また戦って、題目(だいもく)を唱(とな)え、人間革命(かくめい)したのです。それが「八万四千の七宝(しっぽう)の鉢(はち)」を仏に供養(くよう)したことに通じるのです。私たちも同様に、辛いことがあっても、前へ、前へと前進することが大切です。


 広宣流布(こうせんるふ)に生き抜けば、必ず、最後に「良い人生の流れ」に入ってゆける。「幸福の川」 「宝の川」の流れに入ってゆける。凡夫の目には見えないが、宇宙には「道」があり、「生命の流れ」があるのです。そのなかでも妙法(みょうほう)の黄金(おうごん)の流(なが)れに入ってゆけるのです。「広宣流布」という最高の流れに入ることがとても重要です。


 妙音菩薩(みょうおんぼさつ)も、苦(くる)しい宿命(しゅくめい)と戦いながら、最後に「勝利(しょうり)の歌(うた)」を歌ったのでしょう。悩みと戦いながら、周囲の人々には、勇気(ゆうき)の調(しら)べを奏(かな)でている。友を励ます「真心の声」。人の心を揺(ゆ)さぶる「確信(かくしん)の言葉」。悪を退治する「正義の叫(さけ)び」。それが「妙音(みょうおん)」なのです。


 妙音菩薩(みょうおんぼさつ)の三十四身(しん)のことを釈尊が教えると、聞いていた人々も「現一切色身三昧(げんいっさいしきしんさんまい)」を得(え)ます。そして、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)は仏にあいさつをして、本国へ帰ります。帰りもまた、通り路(みち)を震動(しんどう)させ、宝の蓮華(れんげ)を降らし、百千万億の種々の伎楽(ぎがく)を奏(かな)でてゆきます。こうして妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)は終わります。


 大宇宙を「音楽」で満たして往復した物語です。宇宙(うちゅう)に懸(か)かった「音楽の橋(はし)」です。これによって霊鷲山(りょうじゅせん)の人々の境涯(きょうがい)も、大宇宙へと開(ひら)かれていったのです。妙音菩薩(みょうおんぼさつ)とともに来た八万四千の菩薩(ぼさつ)たちも、「現一切色身三昧(げんいっさいしきしんさんまい)」という大境涯(だいきょうがい)を得たのであります。有限(ゆうげん)の身が無限(むげん)へと開かれていく。宇宙に包まれている自分が、宇宙を包み返していく。それが妙音(みょうおん)の「唱題(しょうだい)」へと通ずるのではないでしょうか。


 教祖・杉山辰子先生は『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事と仰(おお)せであります。そして、困っている人を助けることが、法華経の本意(ほんい)であるように、全ての人が幸せになることを願っておられます。そういう意味で私たちも三徳(さんとく)の実践(じっせん)が毎日実行できるよう心掛けないといけないと思います。


 そして、重要なのは『仏の永遠の生命を知る功徳(くどく)』を理解することであります。私たちは三世(さんぜ)を生きているということの実感(じっかん)を持たなければいけません。自分の過去世(かこせ)での宿業(しゅくごう)を今世(こんぜ)で罪障消滅(ざいいしょうしょうめつ)しなければならないのであります。今まさに私たちが人間改革を行ない妙法(みょうほう)の仏智(ぶっち)を開いてゆくことが『すばらしき人生』へと高めてくれることだと思っております。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス