新年明けましておめでとうございます。平成二十九年がスタートしました。新年を迎えるにあたり、法公会の今年のスローガンは『勇気(ゆうき)と希望(きぼう)』でございます。今年は如何なることがあろうとも、勇気と希望を以って、ことにあたりたいと思っている所存であります。本年、立教四十四周年になります。もうすぐ半世紀という歴史へ手が届くところにきました。今年一年、精一杯、頑張りたいと思っております。どうか、ご協力をお願い致します。
そして、信者の皆さまに置かれましては、くれぐれもご自愛下さいますようお願い申し上げます。
昨年十二月十一日には、開祖(かいそ)・榊原法公先生の六回忌の法要(ほうよう)を務(つと)めさせて頂きました。多くの信者さまの、お参りを頂き感謝申し上げます。先生が亡くなり、丸五年という歳月が経(た)ちました。法公先生は幸せ者です。信者の皆さまのお蔭で、こんなに立派な総本山が出来上がりました。そして、多くの信者の皆さまに親しまれ、愛され、本当に幸せであったと思っております。重ねて御礼申し上げます。
さて、私がサラリーマンの時でした。私の同級生で、入社は私より二年程早く入社されたTさんは、とても上昇志向が旺盛(おうせい)な人でした。ポジティブというよりも出世欲(しゅっせよく)が人一倍強い人でした。
私より二年早く支店長に抜擢(ばってき)されました。そして、その後任として私が支店長の職責(しょくせき)を果(は)たすこととなりました。私は前任者がやらなかったことを徹底的に実行しました。予(かね)てより、時の上司からは、前任者とは真逆(まぎゃく)の戦略(せんりゃく)が良い結果を出すことが多いとレクチャーを受けておりました。しかし、まったく逆をするのではなく、良い部分は残し、悪い部分を大胆に変革してゆくところがリーダーとしての力用(りきよう)の見せ所であると思っております。
そして、一年、二年と経過し実績を伸ばすことに成功しました。全国支店トップスリーまで引き上げることができたのです。ところが、Tさんはそんな私に嫉妬心(しっとしん)を抱き、私の欠点を見つけ悪口(わるぐち)をあちこちで言いふらすようになってしまいました。いろんな人からTさんが、こんなことを言ってた、あんなこと言ってたと教えて頂きました。彼が陰(かげ)で悪口(わるぐち)をいうという陰湿(いんしつ)な性格とは思いませんでした。きっとTさんはどこかでボタンのかけ違いがあって心が歪(ゆが)んでしまったのでしょう。
そして、こんなことを繰り返しているTさんは、自分の部下から逆襲(ぎゃくしゅう)を受けたのであります。絶対的権力(ぜったいてきけんりょく)にものをいわせ、力ずくで部下を抑(おさ)えて、ねじ伏(ふ)せても、必ずしっぺ返しがくるものです。そもそも信頼関係(しんらいかんけい)が崩れているから謀反(むほん)がおきたと思います。
私に対しても、そういう「悪口(わるぐち)」という風評(ふうひょう)により、人を陥(おとしい)れようとしたのです。そのような人間には必ず罰(ばち)が当たるものです。
その結果、Tさんはどうなったのか。結局、課長に降格(こうかく)されました。しかし、まだ自分が、なぜ降格(こうかく)になったのか理由を理解しておりませんでした。
それから二、三年が経ち、ついに平社員となってしまいました。そんな自分に愛想(あいそ)を尽(つ)かせたのか、最終的に会社を辞(や)めることとなりました。人生、落ちる所まで落ちたという感じです。法華経で云うなら「修羅界(しゅらかい)」の人間が、罪を重ねて「地獄界(じごくかい)」の人間になってしまったということだと思います。彼は自らの罪(つみ)で奈落(ならく)の底(そこ)に堕(お)ちたのです。
私たちは、仕事ができる人、できない人に拘(かか)わらず、全ての人に対し軽蔑(けいべつ)したり、見下(みくだ)したりしてはいけないのであります。そして、決して権力によって、人を支配してもいけません。上司だからという難(むずか)しい部分もありますが、その人『個人(こじん)』を尊重(そんちょう)したうえで、部下に指示を出すことが望ましいと思っております。
とにかく、悪いことをしてはいけません。ちゃんとお釈迦さまは、見ておられます。私たちは、常に八正道(はっしょうどう)の道に沿った生き方、考え方、行動が必要ではないでしょうか。
それでは観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)(第二十五章)に入りたいと思います。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の観世音(かんぜおん)とは「世音(せおん)を観(かん)ずる」という意味です。世の中のありとあらゆる音声(おんじょう)を、悩みの声を、大きな慈愛(じあい)で受けとめ、抱きとって、その声にこたえてあげる。一人ひとりの切実な思いを「聞いてあげる」「分かってあげる」その「限りない優しさ」が、観音(かんのん)菩薩ではないでしょうか。
漢音(かんのん)菩薩の魅力は、やはり「優(やさ)しさ」でしょうか。優しさほど、強い力はない。優しさほど、人の心を征服(せいふく)するものはない。優しさほど、強く、明るく、永遠性の光はない。人の心に希望の光を与え、胸に明かりを灯す光明(こうみょう)なのです。また、「優しさ」の裏には「強さ」がある。強くなければ、人に優しくなんかできない。観音(かんのん)菩薩の優美(ゆうび)さの裏には、妙法を求めに求め、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)で弘めてゆく、強い心を感じとることができます。
実は、観音(かんのん)菩薩とは、寿量品(じゅりょうほん)(第十六章)で示された久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)の生命の一分(いちぶん)なのであります。宇宙と一体の本仏の「限りない慈愛(じあい)」を象徴的に表したのが観音です。だから久遠の本仏を離(はな)れては、観音(かんのん)菩薩の生命はない。魂(たましい)の抜けがらのようなものです。久遠(くおん)の生命の本仏、いわゆる御本尊(ごほんぞん)のなかに、観音(かんのん)菩薩も含まれるということです。従いまして、妙法(みょうほう)の功徳(くどく)の、ごく一分(いちぶん)が観音(かんのん)菩薩の働(はたら)きなのです。そして、妙法を釈尊滅後に弘めてゆきなさいというのが法華経の「流通分(るつうぶん)」であり、観音品(かんのんほん)もその一つであります。観音(かんのん)菩薩も妙法の寿量品文底(じゅりょうほんもんてい)の「南無妙法蓮華経」によって、人を救うという「力」を得たのです。
では、観世音菩薩品(かんぜおんぼさつほん)の概要(がいよう)ですが、前章の妙音菩薩(みょうおんぼさつ)が「東方(とうほう)」にいたのに対し、古来、観音(かんのん)菩薩は「西方(さいほう)」にいるとされております。また妙音(みょうおん)が「声を発する」のに対し、観音(かんのん)は「声を聞く」ほうです。両方でセットになっております。迹門(しゃくもん)は「光(ひかり)」で本門(ほんもん)は「音(おと)」を強調しております。「光(ひかり)」は諸法実相(しょほうじっそう)「真理(しんり)」を表す。「不変真如(ふへんしんにょ)(真理)の理(り)」であり「音声(おんじょう)」は久遠本仏(くおんほんぶつ)の使いとしての「行動(こうどう)」を表す「随縁真如(ずいえんしんにょ)(真理)の智(ち)」であるのです。
妙音菩薩(みょうおんぼさつ)は三十四身(しん)でしたが、この観世音菩薩は三十三身(しん)をもって、世を救ってゆくと説かれております。耳で聴くだけでなく、生命全体の智慧(ちえ)で見てゆくことが大切です。観音品には「慈眼(じげん)もて衆生(しゅじょう)を視(み)る」とあります。「慈眼(じげん)」で観(み)るとは、たんなる憐(あわ)れみではない。「この人が実は仏なのだ。それを自分で知らずに苦しんでいる」と観(み)る眼(め)です。人は常に苦しむ。「もう、だめだ」「おしまいだ」「自分は最低だ」「生きていても、しかたがない」と、苦しんでいる。
苦しんでいるのは幸福を求めているからです。「幸せに生きたい」というのは万人の本源(ほんげん)の叫(さけ)びです。その声を無視したり、差別しては、いけないのであります。
観世音(かんぜおん)とは、たとえば、商売で挫折(ざせつ)しそうになって苦しんでいる時、救いを求める必死の「世音(せおん)」に応(こた)えてくれる。助けてくれる。そうすることで、より深い絶対的幸福の仏界(ぶっかい)へと導(みちび)き入れてくれる。そういう久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)の慈悲(じひ)を表しているのです。
先ず、無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が立ち上がって、釈尊(しゃくそん)に質問します。「観音(かんのん)さまは、どうして『観世音(かんぜおん)』という名前なのですか」と。釈尊は答えます「いかなる衆生であれ、どんな苦悩(くのう)であれ、この観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の名前を聞いて、その名を一心(いっしん)に唱(とな)えれば、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は即座(そくざ)にその音声(おんじょう)を観(かん)じて、すべての苦しみから解放(かいほう)するであろう」と。観世音菩薩(かんぜおん)の名前を唱(とな)えただけで救(すく)われるのです。
もちろん、文底(もんてい)から見るならば「観音(かんのん)の名を唱(とな)える」とは、観音(かんのん)の力の根源(こんげん)である久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)「南無妙法蓮華経」という、お題目(だいもく)を唱(とな)えることであります。お題目を「一心(いっしん)」に唱(とな)えることがとても重要となります。
観音品(かんのんほん)では、先ず「七難(しちなん)」から救われる功徳を説きます。七難(しちなん)とは火難(かなん)・水難(すいなん)・羅刹難(らせつなん)・王難(おうなん)・鬼難(きなん)・枷鎖難(かさなん)・怨賊難(おんぞくなん)の七つです。「大火(たいか)に入っても焼けない」(火難(かなん))。「大水に漂流(ひょうりゅう)しても溺(おぼ)れないで助かる」(水難(すいなん))。「宝を求めて大海(たいかい)に入り、暴風(ぼうふう)のため船が食人鬼(しょくじんき)の国に流されても、船に乗った一人でも観音(かんのん)の名を唱(とな)えたら、他の人々も無事に助かる」(羅刹難(らせつなん))。「刀や棒(ぼう)で危害(きがい)を加(くわ)えられそうになっても、刀や棒が折れて助かる」(王難(おうなん))。「悪鬼(あっき)が害(がい)を加(くわ)えようとしても加えられない」(鬼難(きなん))。「罪(つみ)があるにせよ、ないにせよ、足かせで縛(しば)られたり、鎖(くさり)でつながれるときに、これらから解放される」(枷鎖難(かさなん))。「商人の行列(ぎょうれつ)が、宝物(ほうもつ)を持って危険な路(みち)を通過しようとしたときも、宝を狙(ねら)う盗賊(とうぞく)から逃(のが)れられる」(怨賊難(おんぞくなん))と、説きます。
観音品(かんのんほん)が「息災延命(そくさいえんめい)の品(ほん)」と呼ばれているのは、すべて「無事安穏(ぶじあんのん)」の功徳(くどく)です。七難(しちなん)から逃(のが)れられる功徳(くどく)は「世音(せおん)を観(かん)ずる」ことであります。これらはすべて「現世利益(げんぜりやく)」の文証(もんしょう)です。妙法(みょうほう)を行(ぎょう)じてゆけば、必ずそうなるという御本仏(ごほんぶつ)のお約束(やくそく)です。ただし、これは「顕益(けんやく)」です。いざという時に、ぱっと現(あらわ)れる功徳(くどく)です。これに対し末法(まっぽう)は「顕益(けんやく)」はもちろんあるが、「冥益(みょうやく)」が中心となります。種子(しゅし)が一年、二年、三年と、歳月(さいげつ)とともに大樹(だいじゅ)になるように、だんだん、だんだん福徳(ふくとく)の枝(えだ)が繁(しげ)り、花を咲かせ、実(み)をならせるのが「冥益(みょうやく)」です。そうやって生命の大地に根の張った福徳(ふくとく)の大樹(だいじゅ)を育てるのです。
無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が、身につけていた宝の頸飾(くびかざ)りを観音(かんのん)菩薩に供養(くよう)します。しかし、観音(かんのん)は受け取りません。そこで釈尊がとりなして観音(かんのん)に供養を受けるよう勧(すす)めます。観音(かんのん)は受け取った頸飾(くびかざ)りを二つに分けて、「釈尊(しゃくそん)」と「多宝(たほう)の宝塔(ほうとう)」に供養(くよう)したと記(しる)してあります。『釈尊と宝塔』というのは、その元意(がんい)は文底(もんてい)の妙法(みょうほう)であり御本尊(ごほんぞん)です。法華経そのものが、「観音(かんのん)ではなく、妙法(みょうほう)を根本(こんぽん)にせよ」ということを強調(きょうちょう)しております。
「解脱(げだつ)」とは、悩(なや)みの鎖(くさり)を吹き飛ばす大生命力のことです。大生命力のなかには「慈悲(じひ)」も「智慧(ちえ)」も「福徳(ふくとく)」も含まれている。「限りない明るさ」と「限りない優しさ」の人格で。汲(く)めども尽(つ)きぬ智慧(ちえ)の生活です。生命力が全身にあふれていれば、この苦しい娑婆世界(しゃばせかい)が、明るく楽しい世界に変わるのです。
観音品(かんのんほん)には、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の由来(ゆらい)について述べた中に「弘誓(こうせい)の深(ふか)きこと海(うみ)の如(ごと)し」とあります。これは、広宣流布(こうせんるふ)しようという誓(ちか)いは海のように深(ふか)いということです。そして、その結果、観音(かんのん)は「福聚(ふくじゅ)の海は無量(むりょう)なり」。これは、無量(むりょう)の福(ふく)が聚(あつ)まった海のごとき境涯という大境涯(だいぎょうがい)を得たのです。
人間には「智者(ちしゃ)タイプ」の人と、「福者(ふくしゃ)タイプ」の人がいます。それはそれで個性なのですが、智慧(ちえ)があっても福運(ふくうん)がなければ、努力は実(みの)らず、幸福な人生は創(つく)れない。福運(ふくうん)があっても、智慧(ちえ)がなければ、多くの人に信頼(しんらい)されることは難(むずか)しい、多くの人々を救ってゆくこともできない。両方、兼(か)ね備(そな)えた人生が最高なのです。広宣流布(こうせんるふ)という人間性の真髄(しんずい)の軌道(きどう)を生きる時に、そういう「無上道(むじょうどう)の人生(じんせい)」へと高めてくれるのであります。
教祖・杉山辰子先生は困っている人に、いろんな施(ほどこ)しをされました。衣・食・住はもとより、ハンセン病で差別(さべつ)を受け苦しんでおられる方とともに食事や入浴をされ、心のケアをされたと聞いております。誰にでもできることではありません。当時の医学の知識はハンセン病は人に伝染(でんせん)すると云われておりました。しかし、教祖さまは、何にも畏(おそ)れることなく、ともに生活をされました。とても、尊敬(そんけい)に値(あたい)する活動であります。
この法華経を信心(しんじん)すれば、乗り越えられない苦難(くなん)は無いと信じておられたからなのであります。私たちも教祖さまを見習い、施(ほどこ)しをするという習慣をつけ、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても大事であります。そして、常に妙法法華経のお題目(だいもく)を唱(とな)えることが重要です。私たちは、いつ天変(てんぺん)・地変(ちへん)・災難(さいなん)が襲(おそ)うかもしれません。頑張ってお題目を唱えるようにしましょう。
そして、『如来(にょらい)の永遠の生命』を知ることがとても大切です。お釈迦さまは五百塵点劫(じんてんこう)という遙(はる)か昔に「久遠実成(くおんじつじょう)」されました。そして、これから五百塵点劫(じんてんこう)に倍(ばい)して生きるだろう。要するに『仏の永遠の生命を知る功徳(くどく)』があるのです。そして、三世(さんぜ)を生きているという実感を持つことが、私たちを『すばらしき人生』へと導(みちび)いてくれる鍵(かぎ)となるでしょう。
合 掌