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世界平和を
大樹
すばらしき人生52

四月といえば、寒さも遠(とお)のき、過(す)ごしやすい日々がやって参ります。また、新年度(しんねんど)、新学期、新入社員と新しい門出(かどで)の時期でもあります。ここで思いきって自分を変えるという丁度、良い機会(きかい)でもあります。世の中に変化がある時こそチャンスがあるのです。自分が変われば、物事(ものごと)の見方も変わり、感(かん)じ方も変わります。そして、考え方や行動も変わって参ります。自分という一個(いっこ)の人間を更(さら)なる研鑽(けんさん)により『高めてゆく』ことがとても重要であると思っております。


 先般は法公会春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆(しばがきほうりゅう)先生二十九回忌にお参りを頂きありがとうございました。この法公会が誕生したのも柴垣先生のお蔭であります。心より感謝しております。また、四月八日はお釈迦さま降誕祭(こうたんさい)(花まつり)を開催いたします。どうか多くの信者の皆さまのお参りをお待ち申し上げております。


 私がサラリーマンの時でした。転職(てんしょく)して最初の赴任地(ふにんち)が静岡県でした。私はひとりで東部・中部(大井川以東)を担当することになりました。縦(たて)に細長(ほそなが)い地形(ちけい)でありましたので、訪問効率(ほうもんこうりつ)を上げるために、患者さんの多い施設を中心に点(てん)で仕事をしておりました。そして、苦労の甲斐(かい)があり、部下が一人増え二人増え、やがて、十名となりました。お蔭さまで私は三年で課長に昇格することができました。


 部下は、それぞれ性格が異(こと)なるため、共通(きょうつう)のビジョン(目標(もくひょう))を持たせないと良い結果を出すことができません。同じ目標に一丸となって進まなければ結果は厳(きび)しいのであります。


 人には、その人にあった教育が必要なのです。どのように褒(ほ)めるのか。どのように叱(しか)るのか。指導(しどう)に対してのスタンダード(標準(ひょうじゅん))はないのであります。一番難しいのは、自分より年配(ねんぱい)の方が部下になった時は非常にやりにくいのですが、心を鬼(おに)にして指導したものでした。


 そんな中で私が一番大切に考えていたことは、物事(ものごと)に対する『拘(こだわ)り』を持つことでありました。仏教で云う執着とは少し意味合いが違いますが、自分の目標(もくひょう)があって努力(どりょく)の成果(せいか)として結果がついてきます。そのプロセス(過程(かてい))のどの部分に『拘(こだわ)り』を持って実行したかが重要になってきます。その確認を面談の中で一人ひとり個別におこないました。何が何でも自分のこの部分だけは絶対に負けたくないという『拘(こだわ)り』を持つことの大切さを指導してきたのであります。


 そして、失敗(しっぱい)を恐(おそ)れないでダメ元(もと)で頑張(がんば)りなさいと背中を押したものでした。失敗があるがゆえに成長(せいちょう)がある。失敗があるがゆえに同じ過(あやま)ちを繰(く)り返さなくなる。失敗があるからこそ成功した時の喜びも大きいのであります。


 まさに『七転(ころ)び八起(お)き』であります。たとえ、どんなことがってもポジティブ(前向(まえむ)き)な気持ちと、不屈(ふくつ)の強い精神(せいしん)と、やり遂(と)げるという魂(たましい)を植(う)え付けることが極(きわ)めて重要なのであります。


 普賢菩薩観発品(ふげんぼさつかんぼつほん)(第二十八章)に入りたいと思います。いよいよ法華経の最後の章(しょう)になります。冒頭(ぼうとう)、いきなり「普賢菩薩(ふげんぼさつ)が、東方(とうほう)の別世界から霊鷲山(りょうじゅせん)に駆(か)けつけてくる」シーンから始まります。しかし、普賢菩薩(ふげんぼさつ)は霊鷲山(りょうじゅせん)の説法が全部、終わろうかというころに駆(か)けつけてきたのであります。


 東方の「宝威徳上王仏(ほういとくじょうおうぶつ)の国」にいたところ、娑婆世界(しゃばせかい)で釈尊が法華経を説いておられるのを知って「無量無辺百千万億(むりょうむへんひゃくせんまんおく)の諸(もろもろ)の菩薩衆(ぼさつしゅう)」とともに、やってきたのです。


 「普賢(ふげん)」とは、「普(あまね)く」「賢(かしこ)くする」すなわち「一切(いっさい)の人を」「智慧(ちえ)を開(ひら)かせ、幸福にする」という意味です。自分が接する一切の人を幸福にしよう。その気迫が「普賢(ふげん)」の心なのであります。


 そして、普賢菩薩(ふげんぼさつ)は釈尊に嘆願(たんがん)します。「どうか教えて下さい。どうすれば、仏様の亡くなった後、この法華経を体得(たいとく)できるでしょうか」と。普賢(ふげん)はとても大事な質問をしました。薬王品(やくおうほん)(第二十三章)以後、妙音本(みょうおうほん)(第二十四章)、観世音(かんぜおん)(第二十五章)、陀羅尼品(だらにほん)(第二十六章)、妙荘厳王品(みょうそうごんのうほん)(第二十七章)と、一貫(いっかん)して「滅後(めつご)の法華経実践(じっせん)」について説かれてきたのであります。そのうえで、普賢菩薩(ふげんぼさつ)のこの質問によって、釈尊が法華経実践(じっせん)の「ポイント」を述べるわけです。普賢品(ふげんほん)のことを「再演法華(さいえんほっけ)〔再び法華を述べる〕」と云われております。


 釈尊はまず「四つの条件(四法)」を説きます。「四法を成就(じょうじゅ)せば、如来(にょらい)の滅後(めつご)に於(お)いて、当(まさ)に是(こ)の法華経を得(う)べし」と法華経には説かれております。四つとは「一には諸仏(しょぶつ)に護念(ごねん)せられ、二には諸(もろもろ)の徳本(とくほん)を殖(う)え、三には正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、四には一切衆生(いっさいしゅじょう)を救(すく)わんとの心を発(おこ)す」です。


 端的(たんてき)に云えば、①「諸仏に護念(ごねん)される」とは、三世(さんぜ)の諸仏を生んだ根源(こんげん)であられる御本尊(ごほんぞん)を受持(じゅじ)することによって、御本尊に護(まも)られることです。②「諸(もろもろ)の徳本(とくほん)を殖(う)える」とは、御本尊を信じ、自行化他(じぎょうけた)にわたって、題目(だいもく)を唱(とな)えることです。そこに一切の善根(ぜんこん)は含(ふく)まれる。③「正定聚(しょうじょうじゅ)〔成仏(じょうぶつ)することが定(さだ)まった人々〕に入る」とは、不退転(ふたいてん)の決意で「前進また前進」する人々の一員になることです。④「一切衆生(いっさいしゅじょう)を救わんとの心を発(おこ)す」とは、常に広宣流布(こうせんるふ)に邁進(まいしん)することなのであります。


 法華経広宣流布(こうせんるふ)の苦労(くろう)に、無駄(むだ)はない。全部、大福徳(だいふくとく)に変わります。全部、生かされていくのです。御本尊(ごほんぞん)中心の活動であれば、矛盾(むじゅん)や行き詰(づ)まりがあるわけがない。御本尊は事(じ)の一念三千(いちねんさんぜん)のご当体(とうたい)です。十界の衆生(しゅじょう)が、すべて妙法に照(て)らされて、仏の働(はたら)きをするのが、御本尊中心の世界であるということです。


 それで、「四つの条件」を聞いた普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、「悪世(あくせ)で法華経の行者(ぎょうじゃ)を死守(ししゅ)します」と誓(ちか)いを立てます。「その人が苦しんでいたら、必ず苦しみを取(と)り除(のぞ)きます」「魔(ま)や悪鬼(あっき)がつけ入らないように、この人を護(まも)ります」「その人を守護(しゅご)し、心を慰(なぐさ)め、もしその人が法華経の一句一偈(いっくいちげ)でも忘(わす)れたら、教えてあげて一緒に読誦(どくじゅ)します」「その人が命を終えた時は、千仏(せんぶつ)の手を授(さず)けて(千仏授手(せんぶつじゅしゅ))、恐(おそ)れさせず、悪道(あくどう)に堕(お)ちないように、いたします」「世尊(せそん)よ、こうして世尊の滅後(めつご)に、私は法華経を守護し、全世界に広宣流布(こうせんるふ)させて、断絶(だんぜつ)がないようにします」と。


 この誓(ちか)いを聞いた人は、どれほどの「勇気と希望」を得たことでしょうか。普賢菩薩(ふげんぼさつ)は遠くから駆(か)けつけて、「私が護(まも)るから、頑張(がんば)れ、負けるな」と励(はげ)ましてくれるのです。それが普賢菩薩観発品(かんぼつほん)の「観発(かんぼつ)」なのです。最終章は「普賢菩薩の励まし」の章なのです。如来滅後(にょらいめつご)の世界は悪世(あくせ)であります。悪世とは、「正しい者が少なく、悪人が多い世」です。悪人が多いのだから、当然、少ない善人(ぜんにん)が迫害(はくがい)を受けます。そこへ普賢菩薩(ふげんぼさつ)の激励(げきれい)と法華経行者(ぎょうじゃ)の強い団結力(だんけつりょく)により、前へ前へと前進できるのであります。


 普賢菩薩(ふげんぼさつ)を象徴(しょうちょう)しているのは「行(ぎょう)」であります。これは序品(じょほん)(第一章)で、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が登場し、「智(ち)」を象徴(しょうちょう)しているのと対応しています。文殊(もんじゅ)の「智(ち)」は、あの有名な『三人寄れば、文殊の智慧(ちえ)』というくらい有名です。「智」を表す文殊から始まった法華経は、最後を「行(ぎょう)」の普賢(ふげん)が飾(かざ)るのです。法華経に説(と)かれた「妙法」を、これから世界に弘めてゆくのは「行」です。これが「普賢行(ふげんぎょう)」なのです。「最高にすばらしい実践(じっせん)」のことであり、これが利他行(りたぎょう)なのです。


 文殊(もんじゅ)と普賢(ふげん)と言えば、大乗仏教を代表する菩薩です。その二人が「法華経を守護(しゅご)」しているのです。じつは文底(もんてい)の妙法を弘める「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)を守護」しているということです。この二菩薩とも大乗仏教のヒーローであり、釈尊が説いた「普賢(ふげん)よ。若(も)し是(こ)の経典を受持(じゅじ)せん者を見ば、当(まさ)に起(た)って遠く迎(むか)うべきこと、当(まさ)に仏を敬(うやま)うが如(ごと)くすべし」との一文(いちもん)です。


 法華経は強い信心(しんじん)の心を教えております。深く、深く信じてゆく時に人間は目覚めるのです。信心は「心」です。形式ではありません。時間の長さでもありません。法を求める「心」に「功徳(くどく)」があるのです。そして、妙法を恋慕(れんぼ)する信心(しんじん)が必要です。この「観発(かんぼつ)」には妙法のすばらしさを恋慕(れんぼ)し、渇仰(かつごう)しているがゆえに、人にも勧(すす)められるという思いになるのです。


 最後に普賢品(ふげんぼん)では、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が「末法(まっぽう)の行者(ぎょうじゃ)を護(まも)ります」と誓(ちか)いを述(の)べた後、今度は釈尊が、普賢菩薩を讃(たた)えます。自分も、滅後(めつご)の行者を護るから、「普賢菩薩よ、その人を仏の如(ごと)く敬(うやま)え」と、説法(せっぽう)がなされます。そして、「未来に現れる法華経の行者を『仏の如(ごと)くに』敬(うやま)いなさい」ということです。「仏の如く」というのは「仏として」という意味です。末法の法華経の行者(ぎょうじゃ)は「仏」だというのが真意(しんい)であります。この一点こそ、法華経全体の「魂(たましい)」なのであります。


 そこまでで、法華経二十八品の実質の説法は終わります。その後、霊鷲山(りょうじゅせん)の大衆(たいしゅう)は、皆、大いに歓喜(かんき)し、仏の言葉を抱きしめて、仏に礼をして去(さ)ります。これで、締(し)めくくりとなります。


 この最後の一句(いっく)が「作礼而去(さらいにこ)〔礼を作(な)して去りにき〕」です。普賢品(ふげんほん)で忘れてはならないことは、その「最後の一字」です。「去」の一字です。これは「死」を意味します。そして、序品(じょほん)の最初の一字が「如是我聞(にょぜがもん)」です。「如(にょ)」の字は「生」を表します。従いまして、法華経の一番大事なテーマの『生死(しょうじ)』の二法のことなのです。釈尊は常に「不老不死(ふろうふし)」を説(と)いておられます。じつは、それは「仏界(ぶっかい)」のことであります。


 人間は一人で生まれて、必ず一人で死んでゆく。「死」を真正面(ましょうめん)から受け止めて、そして、生死(しょうじ)即涅槃(ねはん)を私たちに教えているのです。この法華経を深く理解して信心(しんじん)して菩薩行(ぼさつぎょう)へと自分を高め、広宣流布(こうせんるふ)に邁進(まいしん)することが極(きわ)めて重要なのです。そして、この法華経の尊さを「断絶(だんぜつ)」させずに次世代(じせだい)に伝えることが、一番大切なことだと思っております。


 教祖・杉山辰子先生は六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行(しゅぎょう)が大事と仰(おお)せです。要約しますと「布施(ふせ)」とは、人のために惜(お)しみなく何か善(よ)いことをする。「持戒(じかい)」とは、本分(ほんぶん)を忘れずにルールを守った生き方で、人間らしく生活することです。「忍辱(にんにく)」とは、耐(た)え忍(しの)ぶことです。要するに堪忍(かんにん)です。「精進(しょうじん)」とは、まずは最善(さいぜん)をつくして努力すること。良い結果が得られても、それにおごらず、さらに向上心を持って継続(けいぞく)することです。「禅定(ぜんじょう)」とは、意志(いし)を強固(きょうこ)にして、みだりに動かされぬようにすること。「智慧(ちえ)」とは、真理(しんり)を見きわめ、真実(しんじつ)の認識力(にんしきりょく)を得(え)ること。人は誰でも生まれながらにして仏様と同様の心を持っています。欲望(よくぼう)が強くなると、単なる知識(ちしき)だけで物事を考えるようになります。知識ではなく智慧(ちえ)の心で以(もっ)て考えることです。この六つを常に行えば、必ず仏智見(ぶっちけん)を開くことができる。そして、常に妙法蓮華経を唱えることで、必ず大難(だいなん)が小難(しょうなん)となり、小難が無難(ぶなん)となり、ついに等正覚(とうしょうかく)を得ることができるのであります。


 私たちも教祖さまを目標に日々精進することがとても大切です。そして、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践(じっせん)がもっとも重要であります。三徳(さんとく)の実践こそ『すばらしい人生』への架け橋となるでしょう。


合 掌


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