暑い夏、七月がやって参りました。涼を求めて海や川、そして山に登るのも良いでしょう。体を動かす生活習慣を身につけることが健康維持にとても重要であると思っております。
最近、国会で日本人の「働きかた改革」と題しまして、検討されております。週休三日制とかプレミアムフライデイとか、いろんな提案がなされております。週休三日制の場合、給料が減るか、もしくは、同じ場合は一日の労働時間を十時間にするとかであります。
高度成長期(こうどせいちょうき)には日本人は働き過ぎというイメージがありました。しかし、昨今(さっこん)、世界の労働時間と比較すると第十五位です。実は働き過ぎではないということが分かって参りました。問題は生産性(せいさんせい)〔能率〕の低さにあると思うのです。今までの古い習慣が邪魔をしているのです。例えば、上司が帰らないと退社できない雰囲気とか、だらだらと長時間、仕事をしていると、仕事をしたという実感を持ってしまうのです。頭がそんなふうに勝手に理解してしまうのです。これらは生産性(せいさんせい)が上がらない本当の理由なのです。生産性を上げることが本来の「働きかた改革」に繋(つな)がってゆくと考えております。
平成二十九年教祖祭には多くの信者さまのご参詣を賜り有難う御座いました。景品抽選会も楽しい雰囲気のなか行われました。各賞を受賞された方々、本当におめでとうございます。八月には盆施餓鬼先祖大法要が執り行われます。どうか多くの信者の皆さまのお参りをお待ちいたします。
私がサラリーマンの時でした。静岡市のS総合病院の副院長のI先生に、とても懇意(こんい)にして頂きました。静岡県の糖尿病の患者さまが三千人強お見えで、県下の患者さまの二割〜三割が集中しておりました。当時の東海四県では患者数や売り上げはナンバーワンでした。そこで糖尿病教室(とうにょうびょうきょうしつ)が月に一回ほど開催されておりました。私は毎回参加させて頂き患者さまと一緒になり勉強させて頂きました。
当院では病院への訪問規制(ほうもんきせい)が厳しく毎週、火曜と木曜の昼一時間が訪問時間でした。その週二時間という大切な時間にI先生を私が独占(どくせん)して面会しておりました。他社(たしゃ)MR〔営業担当者〕には、殆(ほと)んど時間を与えませんでした。時々、仲の良いMRには譲(ゆず)ることもありましたが、先生の絶大な力により何のクレームも出ませんでした。
弊社ではインストラクターという制度がありました。注射器の使い方を専門に教えるプロです。幸いなことに私の部署に日本一と称されたインストラクターがおりました。Tさんといいまして、器具の使い方を分かりやすく説明できるのです。やがて、彼女はその注射器の説明ビデオに出演し全国で使われるようになりました。効率(こうりつ)よく患者さまに新製品への切り替えができました。しかし、現在ではそういう行為は、規則(きそく)で禁じられるようになりできなくなりました。
糖尿病(とうにょうびょう)のご専門の先生方は毎年開催される、「糖尿病学会」と「糖尿病学の進歩(しんぽ)」と全国的で大きな学会に参加をされます。昔の思い出ですが、I先生に随行した学会が山形県で開催されました。将棋の駒で有名な天童(てんどう)温泉に宿泊したのですが、初めての同部屋でしたのでとても緊張し、よく眠れなかった思い出があります。翌年は熊本県での開催でした。毎年、先生に随行させて頂き、大変お世話になり勉強もさせて頂きました。I先生は昭和三年生まれで、法公先生より二つ年上でした。私はI先生に誠心誠意(せいしんせいい)尽くさせて頂きました。
とかく静岡の人の性格はとても排他的(はいたてき)であり、なかなか本心がつかめないのが現状でしたが、コツコツと真面目(まじめ)に接しているうちに信頼(しんらい)を得たと思っております。
どんな仕事でも同じことが言えます。常に自分に正直に生きる。そして、素直な気持ちで接する。相手のことを思いやってあげる。そんな性格の人物が世の中では必要とされているのであります。そして、メリハリのあるアプローチ(接し方)が大切ではないでしょうか。決める時はズバリ直球勝負でないといけません。最後のクロージング〔商談締結(しょうだんていけつ)〕がとても大事なのであります。終わり良ければすべてよしであります。くじけずにがんばって仕事をするところに大きなチャンスがあるのではないでしょうか。
人間というのは「こころのあり様(よう)」によって「人生(じんせい)」が大きく変わって参ります。自分のこころを分析(ぶんせき)することが、とても重要であると思います。人のこころは見えないものであり、分からないものです。そして、時々自分のこころも見えていない人がおられます。重要なのは自分のこころがどういう状態なのかを把握(はあく)する必要があるのです
法華経は、その人の「こころのあり様(よう)」を説いております。普段からわがままで自分勝手な生き方の人は、絶対、周りの人に迷惑(めいわく)をかけているのです。自分には分からないけれど、そういう人は多かれ少なかれ自己中心的な考え方です。
例えば、社会での生き方というものは、「必要だからやります」というものでなければいけません。「もう嫌(いや)だ、この仕事はやらない」と思ってしまうのは、人間が出来ていない証拠です。思考がおかしいのです。本当の世界を知らない、わがままな人だということです。
そういう人は自分のことしか興味がありません。自分のことしか興味がないということは、不親切(ふしんせつ)で優(やさ)しさのかけらもないという生き方です。そういう人は、必ず、周りにすごく迷惑をかけます。そうすると、自分のわがままが通(とお)らなくなるのです。つまり、わがままを言った時点で、自分のわがままを通らなくしたということであります。
「穏(おだ)やかなこころ」には、より良い判断(はんだん)が現れます。穏やかなこころでどうなっているのか、と見れば判断は自然に現れてまいります。こころが穏やかということは、平常心(へいじょうしん)で冷静(れいせい)に判断(はんだん)できるということであります。自分の生き方の中で、いかに冷静に生きてゆけるかどうかが大きな鍵(かぎ)となるでしょう。
「感謝のこころも大事」であります。皆さん誰でも「今を生きている」のです。当然、人生には、悩(なや)み、失敗、落(お)ち込(こ)み、苦しみなどが充満(じゅうまん)しております。なぜなのでしょうか。人間は将来とか過去に囚(とら)われているから悩みが生ずるのです。仏法は過去に悩(なや)むなかれ。そして、まだ生まれてもいない将来に期待(きたい)するなかれと言います。お釈迦さまは「今をせつに生きよ」と説かれました。この現世(げんせ)を一生懸命、生きなさいと説いておられます。そして、すべての恵みに対し感謝(かんしゃ)することの尊(とうと)さを説かれました。
「慈悲(じひ)のこころ」もとても大事であります。慈眼(じげん)でもって相手を慈(いつく)しみの眼(まなこ)で見ることです。決して憐(あわれ)みで見るのではありません。とにかく困っている人がいたら慈悲(じひ)の手を差(さ)し伸(の)べることです。こころからその人のためになることを願い慈悲(じひ)を尽(つ)くすところに大きな功徳(くどく)があるのです。功徳には顕益(けんやく)と冥益(みょうやく)の二通りあります。顕益(けんやく)とは徳を積んだその功徳で、パッと、すぐ現れるご利益(りやく)のことです。また、冥益(みょうやく)は種子(しゅし)が一年、二年、三年と、歳月とともに大樹(だいじゅ)となるように、だんだん、だんだん、福徳の枝が繁(しげ)り、花を咲かせ実(み)をならせる。積(つ)んだ徳(とく)が徐々(じょじょ)に現(あらわ)れる功徳(くどく)のことを言います。功徳の中では「慈悲(じひ)」の功徳がとても大きいのであります。人を幸せにしたら、その分、自分も必ず幸せを頂けるというのが法華経の考え方です。
こころが清浄(せいじょう)になるということは、その人のこころが六根清浄(ろっこんしょうじょう)されるということでありります。まさに法華経法師功徳品(ほっしくどくほん)(第十九章)にある広宣流布(こうせんるふ)をする法師(ほっし)の功徳(くどく)が絶大(ぜつだい)であると説いておられます。人間としての根本(こんぽん)は「こころ」にありと申しまして、心が清浄(せいじょう)でないと、すべて誤(あやま)った方向に行ってしまいます。これは基本中の基本であります。従いまして、素直で、優しく、思いやりのある「こころ」を育成するところに宗教の本懐(ほんかい)があると思います。
さて、人間というのは、とかく欲(よく)に支配(しはい)されがちであります。欲を制(せい)することは非常に難しいです。欲に対する道徳(どうとく)が大事であります。仏教では「欲に対する道徳を守りましょう」と教えます。食欲(しょくよく)についてでは「食べるなかれ」ではないのです。食べ過ぎはよくない、偏食(へんしょく)もよくない。人のものまで奪(うば)って食べてはよくない。そういう、ご飯食べる上でやってはいけないことや道徳を守ることが大切です。
欲から解放されるためには、欠かせないもの、必要(ひつよう)なものと、欲(ほ)しいものを区別しなければいけません。例えば、ご飯は必要だが、デザートは食べなくても影響はありません。この二つを正しく理解することで欲(よく)から解放(かいほう)されます。
人間は身勝手(みがって)なもので、あれも欲(ほ)しい、これも欲しいと「まだ足(た)りない、まだ足りない」と思われる方もおられるでしょう。本当はいらないものでも、手に入れたくなるのは人間の欲であります。そこで、必要なものと欲しいものを区別しないと、いつまでたっても満足できずに苦しむのです。法華経は「足るを知る」ということを教えております。欲に満ちた人生から、本当に必要なものだけを手に入れることに気づかなければいけません。
法華経以前の仏法は「煩悩(ぼんのう)を滅(めっ)する」ことの重要性を説いてきました。ところが法華経は『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』を説きました。煩悩(ぼんのう)という悪いエネルギーを善い方向に向けてゆく智慧(ちえ)を教えているのです。人間から煩悩(ぼんのう)を取ったら、それは人間ではなくなってしまうということです。だから、煩悩(ぼんのう)を滅(めっ)するのでなく、その大きなエネルギーを善へと向ける智慧(ちえ)がとても重要であるのです。
法華経二十八品(ほん)の大事なところですが、従地涌出品(じゅうちゆじゅつほん)(第十五章)では、無数(むすう)の地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)が大地(だいち)から涌出(ゆじゅつ)してきた時に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が「是(こ)れ何所従(いずこよ)り来(きた)れる 何(なん)の因縁(いんねん)を以(もっ)て集(あつま)れる」と釈尊に質問します。その場にいた人々の疑問(ぎもん)を代表した質問ですが、地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)は「どこから」「何ゆえに」集(あつ)まってきたのか、と聞いたのです。その問いについて、釈尊は『よくぞ、そのような「大事(だいじ)」を問(と)うた』と弥勒(みろく)をたたえております。
そして、この問いへの答えとして、如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)(第十六章)という法華経の最重要(さいじゅうよう)の法門(ほうもん)が説(と)かれたのであります。この章(しょう)では人間は「どこから」「どこへ」、そして「何のために」ということを問いかけているのです。この問いに答えることが、人間としての、一切の営(いとな)みの出発点(しゅっぱつてん)になるのです。
教祖(きょうそ)・杉山辰子(たつこ)先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いついかなる時も、妙法蓮華経を唱えることが大事と仰せです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬが)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)になってゆく。
そして、妙法(みょうほう)を信じて、信じて、信心(しんじん)する心がとても大事であります。信心とは宗教に入る第一歩です。仏の力を信じ、これに帰依(きえ)することです。信心(しんじん)が大きい人は生命力が膨(ふく)らんで前向きになり少々のことでは左右(さゆう)されません。逆に信心が弱いと小さいことに左右(さゆう)され、やがて行(ゆ)き詰(づ)まってしまうのです。いかに信心する心が大切かということです。
教祖さまは『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)を説かれました。三徳の実践により私たちの徳が増えることが、魂(たましい)の浄化(じょうか)となるでしょう。これからも一生懸命、努力・精進(しょうじん)し、自分の魂(たましい)を磨(みが)いてゆく、そのことが私たちの『すばらしき人生』への礎(いしずえ)となるでしょう。
合 掌