旧暦で九月を長月(ながつき)と申します。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が有力です。九月に入っても、まだまだ暑い日が続きます。熱中症(ねっちゅうしょう)には十分な対策が必要であります。皆さまの健康がなによりの幸せであり、私たちの励みとなります。どうかご自愛下さいますようお願い致します。
現在、問題となっている少子高齢化(しょうしこうれいか)でありますが、子育て支援(しえん)や高校無償化(こうこうむしょうか)など手当が施されております。東京都の小池都知事も待機児童(たいきじどう)ゼロを政権公約(せいけんこうやく)とされました。将来的には待機児童はゼロになるでしょう。しかし、根本的な問題は働き方改革や手当ではないと思います。女性の方が子供さんを産んで、自由に仕事ができる環境が整えば子供さんが増えるかといったら、どうもそうではないようです。日本人が豊かになったかといえば、働く世代では二極化(にきょくか)が大きく進み、多くの労働者は低賃金で働いているのが現状です。それでは高齢者はどうかと考えた時、昔の医療保険で高齢者は老人医療制度(いりょうせいど)があり医療費はゼロでした。現在では後期高齢者(こうきこうれいしゃ)医療制度となり、一割、三割と負担があり年金生活では、非常に厳しい状況と思います。
日本は戦争に負けました。その悔しさをバネに高度成長(こうどせいちょう)へと向かい日本人は豊かさを得ることができました。しかし、日本人は皆、本当に幸せになったかというと、そうではないように思えます。
人間というのは「物」で幸せを得ることはできないのです。これからの日本が変わらなければいけないと思います。現状からの脱却(だっきゃく)が大きなテーマであると思います。私たちが日本人で良かったと思えるような、そんな魅力(みりょく)と将来への夢や希望がある国づくりを目指さないといけないと思っております。
先般は法公会水子地蔵尊(みずこじぞうそん)供養会にお参りを頂きまして誠にありがとうございます。今月は秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭(ばんれいくようとういれいさい)が執り行われます。多くの信者さまのお参りをお待ち申し上げます。お彼岸にはお墓参りやご先祖さまの供養をする大切な行事であります。普段よりご先祖さまへの感謝はされていると思いますが、特に、お彼岸には感謝と供養が必要であります。
私がサラリーマンの時でした。静岡のS総合病院(そうごうびょういん)を担当しておりました。私たちは小児科で治療される「成長(せいちょう)ホルモン」の処方促進(しょほうそくしん)活動をしておりました。先発メーカーは三社と後発メーカー三社でした。概(おおむ)ね先発メーカー三社の製品で県下四百〜五百例の患者さまのフォローをさせていただきました。
一度、処方(しょほう)されると殆(ほと)んどメーカーの変更はありません。従いまして新規患者(しんきかんじゃ)さんを多く獲得(かくとく)しなければならないのです。その中でもS病院は例外でした。私は他社の製品より数十例ほど切り替えていただきました。勿論、新規患者さんも全て獲得させていただきました。弊社(へいしゃ)の製品は液(えき)の量(りょう)が少なく高濃度(こうのうど)でしたので注射時の痛みの軽減(けいげん)につながり好評(こうひょう)でした。
ある切り替えの患者さんお年齢はもう中学一年ということで、あと四〜五年程しか治療(ちりょう)ができません。偶然(ぐうぜん)なのか解(わ)かりませんが製品が変わると意外(いがい)と背が伸びる場合もあります。まさに、その著効例(ちょこうれい)として治療効果(ちりょうこうか)が出たのであります。
五年ほど前に私は製品の使用説明を患者さんとお母さんにさせていただきビデオも提供させていただきました。その少年はサッカー選手になるのが夢だそうでした。
週五日の注射で効果も出始めて、終了時には身長が167センチまで伸びました。思った以上に効果があったため本人もやる気になって治療に専念(せんねん)できたと思います。
再び診察室(しんさつしつ)の待合室(まちあいしつ)でお話をする機会(きかい)がありました。私はお母さんに長い間お疲れさまでした。○○君もよく頑張(がんば)ったね。と、ねぎらいの言葉を掛(か)けました。すると、お母さんは号泣(ごうきゅう)され私にこう言われました。「お蔭さまで目標の身長まで伸びることができました」「子供もサッカー部に入ることができました」「夢が叶いました。本当に有難うございました」と。こころからの感謝(かんしゃ)の言葉をいただき私も胸(むね)が熱くなりました。
仕事でこんなに感謝されたのは経験上初めてでした。人間は人から感謝されるのはとても嬉(うれ)しいことであります。少しでも社会に貢献(こうけん)できたという実感をもった瞬間でした。
仕事とは、どんな仕事でも必ず人の役に立っております。その自覚(じかく)とプライドがますます、仕事を楽しくしてくれるのです。仕事が楽しくなれば効率(こうりつ)が上がり生産性(せいさんせい)も上がる。そうすれば実績も上がり、その対価(たいか)として給料や役職も上がります。そして、さらに仕事が楽しくなります。大いに感謝して働くことがとても重要であると思っております。
法華経(ほけきょう)では貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)この三毒(さんどく)をなくすことがとても重要であると説かれております。人間には欲(よく)があります。そして、怒(いか)りもあります。また、愚痴(ぐち)もあります。この三毒という煩悩(ぼんのう)をよい方向、すなわち悪(あく)のエネルギーを善(ぜん)に方向づける智慧(ちえ)を教えております。法華経は煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を説きました。人間には理性(りせい)があっても煩悩に支配され、勝手に「己(おのれ)のこころ」で判断し行動をおこします。すべては「こころ」の状態で自分の運命(うんめい)が変わってしまうのです。
「欲(よく)」はコントロールしなくてはいけません。まずは「欲しい」と「必要」を区別しなければいけません。欲しい物を欲しいだけ買ったとしても、こころは満足しません。美味しいものを、お腹いっぱい食べても、こころは満足しません。人間の幸福というものは自分自身の内にあるものです。要するに、人間は物やお金では満足できないのであります。「必要」なものは無ければ生きられないから必要なのです。しかし、「欲しい」ものは無くても生きられます。そこを正しく理解すると、やがて「欲」をコントロールできるようになってまいります。
怒(いか)りの原因となる「悪口(わるぐち)こそ不幸になるメカニズム」があるのです。悪口は、平和を壊(こわ)す言葉であります。怒りのこころなのです。自分にとって気に入らない他人をあれこれ並べたてます。しかし、人間というのはどうでしょうか。欠点のない人は、この世に存在しないのであります。欠点は誰にでもあって当たり前です。本当は優しく教えてあげることが大切なのですが、自分の好みで言(い)いきったり、相手を傷(きず)つけたりします。自分のこころに怒りを燃え上がらせ、そして、自分が不幸になってしまうのです。
そこで、怒りを確認(かくにん)することが重要となります。私たちが怒(おこ)った場合は、特に「怒り」というものを確認しないのです。人間の感情(かんじょう)というものは次から次へと同じものを生み出します。人間が本当に怒った場合の次の瞬間(しゅんかん)の感情は必ず「怒(いか)り」から始まります。結局、「怒り」という感情が、また、再び「怒り」を生んでしまうのです。ですから、これは「怒りである」と別なところで「確認(かくにん)」してしまえば、次の結果は自分が確認した結果であって、怒りが生んだものではなくなります。
要するに、「怒り」の感情がまた次の「怒り」を生んでしまうという悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)ってしまってはいけないのです。そこで、自分は「怒ってしまった」と冷静に認識すれば、怒りの連鎖(れんさ)を止めることができるのであります。
もし、あなたが怒鳴(どな)られたとします。そこでもし自分が、それに対し「怒り」を覚え、反対に怒鳴り返したとします。それは怒鳴り返した自分の責任となります。これは、自分が自分を敵に回したということなのです。怒鳴(どな)った自分の責任です。ぜひ、「己(おのれ)の敵(てき)は己である」ということを認識して下さい。「私が私の敵である」ことを忘れないで下さい。そうしてこの言葉を、自分を守る武器(ぶき)にしていただきたいと思います。
人間は「人様(ひとさま)の迷惑(めいわく)にならないよう生きよう」と誰しも願っていると思います。みんな自分なりに「これくれいなら迷惑じゃないだろう」と思って生きております。迷惑をかけないようにしようと思いながら、実は迷惑をかけてしまっているのです。相手のわがままが通れば私に迷惑。私のわがままが通れば相手に迷惑ですから、お互いさまなのです。
お釈迦さまは、中道(ちゅうどう)を行きなさいと説いておられます。中間を取って迷惑(めいわく)の量を減らすしかありません。まったく迷惑をかけずに生きるということは、人間の間では成り立ちません。相手に対して慈愛(じあい)の心で接することで、相手の気持ちを充分理解(りかい)してあげる。そんなふうに他人に対して優(やさ)しく接(せっ)するように心がけることがとても大切です。
ものごと感情的(かんじょうてき)になると良い結果は得られません。感情的にならないよう注意が必要です。感情で生きていると「これはちょっとまずいからやめておこう」などという調整(ちょうせい)ができないのであります。感情的になっている時は、理性(りせい)が機能(きのう)しません。ですから夫婦の間でも、恋人同士でも、お互いのタブーを破(やぶ)ってしまうのです。言ってはいけないことを言ってしまったり、やってはいけないことをやったり、いろいろトラブルが起きます。感情というのは何か一定の、安定した力を持ちません。従いまして、常に平常心(へいじょうしん)でいて周囲に配慮(はいりょ)できるという感性(かんせい)を磨(みがく)くことが大切であります。
人生には「悩(なや)み」「苦(くる)しみ」「悲(かな)しみ」はつきものであります。「悩み」と「反省(はんせい)」の区別がつかない方がおられます。「反省」を悩むための自分自身への言い訳にして、自分は悩んでなんかいない、反省しているのだと言ってさらに悩むということです。
反省というのは「原因(げんいん)」「結果(けっか)」を再評価(さいひょうか)することです。お釈迦さまが説かれた「因果(いんが)の二法(にほう)」です。なぜこんな結果になってしまったのか考え、反省し失敗から、学ぶことであります。どんな結果にも必ず原因があります。その原因を仏智(ぶっち)でもって解決できるのが、この有難い「法華経」なのです。
ここで、法華経の説かれた意義(いぎ)について触れたいと思います。「法華経は誰のために説かれたのか」というテーマに入りたいと思います。法華経が「民衆(みんしゅう)のための経典(きょうてん)」であることを、浮(う)き彫(ぼ)りにしたいと思います。これは、法華経の本質(ほんしつ)を知る上でとても重要なテーマです。
法華経で釈尊が法を説いている直接の相手は、たとえば前半〔迹門(しゃくもん)〕の中心的部分である方便品〔第二章〕では声聞の舎利佛であり、後半〔本門(ほんもん)〕の中心的部分である寿量品(じゅりょうぼん)〔第十六章〕では弥勒菩薩(みろくぼさつ)です。しかし、重要なのは、そのような声聞や菩薩に対して説かれた法華経の教えが、全体として、いったい誰のために説かれたのかということです。
法華経では『一切衆生(いっさいしゅじょう)の成仏(じょうぶつ)』が仏の一大事因縁(いちだいじいんねん)、すなわち、仏がこの世に出現した、最大(さいだい)で究極(きゅうきょく)の目的であると説かれております。「釈尊滅後の衆生のため」「末法(まっぽう)の衆生のため」。ここに「一切衆生のため」という法華経の慈悲(じひ)がこめられています。滅後(めつご)の衆生、特に末法という濁世(じょくせ)の衆生を救わなければ、その理想(りそう)は叶(かな)えられないのです。そのための慈悲の経典(きょうてん)が法華経なのです。私たちのために、この尊い法華経を残して下さったことに大いに感謝したいと思います。
教祖・杉山辰子先生は慶応(けいおう)四年(明治元年)に岐阜県笠松(かさまつ)で産声(うぶごえ)を上げられました。明治・大正・昭和と激動(げきどう)の時代を生き抜かれました。そして昭和七年ご入滅(にゅうめつ)されました。
先生は法華経を深く信心(しんじん)することの大切さと、いついかなる時も妙法(みょうほう)の五文字を唱えることの重要さを説いておられます。
私たちが妙法蓮華経と唱えることが大事と仰(おお)せです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬが)れることができると説法されております。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できると説かれました。
『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が何よりも大事と仰せです。日々の生活の中で三徳を実践することが推奨(すいしょう)されております。まず、八正道(はっしょうどう)を根本とし、正しい目で見ることが基本(きほん)です。最初の見立(みた)てが狂(くる)うとすべて誤(あやま)った方向に行ってしまいます。
冷静で穏(おだ)やかなこころになって、初めて仏智(ぶっち)は開かれるのであります。三世(さんぜ)〔過去世・現世・未来世〕を生きることへの実感と、今世の努力精進(どりょくしょうじん)により魂(たましい)が磨(みが)かれる。積徳の人生を生きれば『すばらしき人生』へと階段を昇ることができるのであります。
合 掌