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世界平和を
大樹
すばらしき人生58

暑い日々も終わり涼しい秋がやって参りました。読書の秋、運動の秋、食欲の秋と申しまして、ありがたい季節となります。この時期には美味(おい)しいものが沢山あり体重を気にしながら過ごしております。


 以前、サラリーマンの時に遠方への出張が多くありました。それで、移動時間に推理小説を読み、その面白さに没頭しておりました。海外ではダン・ブラウンを始め国内では東野圭吾(ひがしのけいご)〔元デンソーマン〕や海堂尊(かいどうたける)〔現医者〕など大好きでした。学生時代は本を読むことは、さほど好きではありませんでした。しかし、環境が変われば人間というものは変われるものであると思ったのであります。


 先般、法公会秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りを頂きありがとうございました。来月には法公会立教四十四年祭が執り行われます。昨年同様に餅投げを開催致します。毎年、恒例ではありますがお餅のご寄付を受け付けております。どうか宜しくお願い致します。当日は多くの信者の皆さまのご参詣をお待ち申し上げます。


 私がサラリーマンの時でした。『正直(しょうじき)に生きる』ことがとても大切であると実感しました。私が転職(てんしょく)して二年目の時でした。静岡県の大井川(おおいがわ)以東という広大なエリアを担当しておりました。私は、なかなか実績をあげることができずにもがき苦しんでいた時、静岡県東部地域のN薬品という卸(おろし)さんで成長(せいちょう)ホルモンの製品説明会を行ないました。そして、使用先を絞(しぼ)り込(こ)むためローラー作戦をしました。ローラーとは該当地域で全ての小児科が調査の対象となります。そこで三島市のH小児科クリニックが他社製品を使用していることが分かりました。私は、早速、面会をさせて頂き自社の製品の特長を説明しました。


 そして、N薬品さんに見積(みつ)もりを出して頂きました。私は、そんなに無理をせず儲(もう)けが出る、ぎりぎりの所でお願いしますと依頼しました。要するに損してまで売らなくてもいいですよ、ということです。見積もりの結果、S製薬(せいいやく)の製品より切り替えて頂けることとなりました。後日、お礼の意味もあり訪問をしました。先生はS製薬に対しとてもご立腹(りっぷく)でした。同じ薬価(やっか)〔公定価格(こうていかかく)〕なのですが、今まで、とても高い価格で購入させられていたと激(はげ)しい口調で言われました。


 私は、卸さんにも利益が出る価格で応札(おうさつ)して頂きましたが、S製薬に対し先生が、それほど激怒(げきど)するということは、よほど高い価格であったということが伺えます。私たちとしては適正(てきせい)価格で正直(しょうじき)に対応(たいおう)した結果、大きな成果となったのであります。


 また、静岡市のS総合病院の糖尿病(とうにょうびょう)内科のE先生は易しくて正直な方でした。素朴(そぼく)というか素直(すなお)というか、とにかく真面目(まじめ)な先生でした。当然、私もそういう先生の「こころ」を大切にしなければ信頼(しんらい)はできません。


 ある日、私と家族と先生の家族とで静岡市の安倍川(あべかわ)でバーベキューをすることとなりました。私は、食材とコンロや鉄板(てっぱん)など必要なものを準備しました。私は部下一人を助(すけ)っ人(と)として連れてゆき、バーベキューを満喫(まんきつ)しました。先生がそういう性格なので、こちらも真面目で正直であることを相手に伝えることで、人間関係の第一歩を踏み出すことができるのです。お互い人間の共通項(きょうつうこう)を求めることにより、初めて人間関係(にんげんかんけい)が構築(こうちく)できるのであると思います。何事も信頼なくして成功は有り得ないのであります。


 いずれにせよ、法華経的に云えば「誠(まこと)」を尽くすということが、正直に真面目に、そして、真剣に相手のことを思うことができるのであります。『正直(しょうじき)に生きる』ことが全て好循環(こうじゅんかん)となって結果に繋(つな)がります。日頃より自分を高める努力を惜(お)しまぬように切磋琢磨(せっさたくま)することが極(きわ)めて重要ではないでしょうか。


 幸(しあわ)せに生きるとは、「こころを育(そだ)てる」ことなのです。生きていれば当然、歳(とし)もとるし病気(びょうき)にもなります。人間は、いつかは必ず死ななければなりません。それまでのあいだに幸せになるためにはどう生きればいいか。充実(じゅうじつ)した日々(ひび)を送るにはどうしたらよいのかと考えることが重要なのです。


 それには、こころを管理(かんり)して悪循環(あくじゅんかん)を断(た)ち切ることです。不幸な出来事(できごと)に出合っても落(お)ち込まないこと、幸福の出来事に出合っても舞(ま)い上がらないことなのです。


 云うのは簡単ですが、我々(われわれ)人間はそう簡単(かんたん)に、こころの自己管理(じこかんり)はできません。叱(しか)られたりすると、すぐに嫌(いや)な気分になって、暗くなります。逆に褒(ほ)められたりすると、明るく楽しくなって、舞(ま)い上がってしまいます。そうなると、他人に支配(しはい)されたり騙(だま)されたりすることもあります。


 こころは、情報(じょうほう)が入り次第(しだい)変化(へんか)をします。外部の世界から入る情報にあっという間に左右(さゆう)され、自己管理することができなくなります。このようなことをまとめますと「こころが弱い」といいます。


 こころを育てるということは、こころがいろいろな情報(じょうほう)に左右されないように鍛(きた)えるということです。強く揺(ゆ)るぎ無(な)いこころを持てば、「不幸(ふこう)な出来事(できごと)」に出合ってもこころ乱(みだ)されることなく、安らかな、幸せな気持ちを保つことができるのであります。


 人間は弱いものだといいますが、弱いのは実は自分のこころなのです。誰でもすごくおびえて、震(ふる)えている。ものすごく弱いこころを持っているのです。ですから、何とかしてこころを強くしなくてはなりません。


 会社の面接試験(めんせつしけん)で「面接が心配で仕方ありません。どうしたらいいでしょうか」と困っている人もおられます。実際に面接するのは自分自身であり、自分の気持ちの持ちようなのです。自分を信じてどんなことも乗り越えられるという「強いこころ」を養(やしな)うことがとても大切です。


 わがままなこころでする行動は信頼(しんらい)できません。人間は結局、死ぬまでずっと「あれが好き」「あれが欲しい」と、ただそれだけです。その希望を叶えることだけ考えて、他のことには見向きもしません。理屈(りくつ)も合理性(ごうりせい)もぜんぶ捨(す)てて、目的だけをめがけて走っていきます。


 それを得るためには、「一番近い道はどれか」ということしか考えません。選んだ道が正しいか間違っているかをまったく考えないのです。結局、「自分の行動は、まったく信頼できない」のです。わがままで智慧(ちえ)のないこころの命令(めいれい)に逆(さか)らうことができないのであります。だから自分のこころの弱点(じゃくてん)を知ることがとても大切になってまいります。


 人間は怒(おこ)るのはたやすい。怒らない方が難(むずか)しいのです。欲張(よくば)るは簡単(かんたん)。欲張らないのは難しい。悪いことはいくらでもできるのですが、善いことへの「精進(しょうじん)」は難しいのです。悪い方向に育(そだ)てる「精進」を善い方向へ育てられるように切り替えなければいけません。


 私たちは普段、自分にとってマイナスであるものを嫌(きら)って、嫉妬(しっと)したり、憎(にく)んだり、恨(うら)んだりします。世の中の論理(ろんり)は善い人には優(やさ)しいですが、「悪人は排除(はいじょ)」されます。しかし、お釈迦さまは善人(ぜんにん)でも悪人(あくにん)でも命の尊(とうと)さは同じであると説(と)かれました。そして、すべての生命に対して限りなく優しさをもつことを説かれたのであります。


 いくら相手にひどいことをされても、「私は嫌(きら)わない、私に怒(いか)りはない」と落ち着いていられれば素晴(すば)らしいことなのです。誰かを嫌いになったら、その人のことを考えるたびに自分が暗くなって、こころが汚(よご)れてしまいます。怒りは猛毒(もうどく)です。どのような場合でも怒りを正当化(せいとうか)してはいけません。相手がどうであろうと、あっけらかんとして、何を言われても綺麗(きれい)なこころでニコニコしている人こそ、『人生(じんせい)の勝者(しょうしゃ)』です。幸せになりたければ、そういうしっかりとした人間になることなのです。


 人間のこころには「違(ちが)ったものを受け入れない、認(みと)めたくない」という気持ちが隠(かく)れています。だから差別(さべつ)やいじめは、なかなかなくなりません。他人の生き方や習慣(しゅうかん)などを「変だ」と思ったり、逆に「すごいな」と思ったりしますが、どちらも差別意識(さべついしき)の元です。そうではなく、「人間は多様(たよう)であり、生き方も習慣もいろいろだ」とありのままに受け入れる人格的(じんかくてき)な柔軟性(じゅうなんせい)こそが、仏教的な器(うつわ)なのです。


 強いこころを養成(ようせい)するためには集中力(しゅうちゅうりょく)を磨(みが)くことです。「より善(よ)い人間になろう」と思い続けること。そして、知識(ちしき)や智慧(ちえ)の開発(かいはつ)に努(つと)めるために頭を使うこと。この二つだけをとってみても、実現(じつげん)するためには「集中力」が必要となります。


 逆に、きちんと「集中力」を身につけて、この二つを心掛(こころが)けて生きれば、幸せになります。それまでは出来ないと思っていたことも、いつの間にかできるようになるのです。何かを実行(じっこう)した時に、期待通(きたいどお)りか、それ以上のよい結果が出るようになります。


 俗世間(ぞくせけん)では「自信(じしん)が無い」という人を「自信を持ちなさい」「大丈夫(だいじょうぶ)だから」と励(はげ)まします。実はそんなカウンセリングをしても効果(こうか)はありません。人間は常に不安(ふあん)を抱(かか)えて生きております。そして、未来の結果がどうなるのか誰にも分かるものではありません。くよくよ考えずに、目の前の仕事をするしかないのです。不安はずっとあるものですから、ほうっておくしかありません。皆、先のことは分からないものですから、不安を消すことはできません。自信(じしん)なんてなくてよいのです。お釈迦さまは、「なるようにしかならん」と説(と)かれました。


 結果は、因果法則(いんがほうそく)に基(もと)づいているのです。皆、自信(じしん)が無いからこそ頑張(がんば)ることが大切なのです。そして、「前へ、前へ」と常に前進(ぜんしん)することなのです。


 人間には「こころの法則(ほうそく)」があります。人は体で生きているのではなく、こころで生きているのです。人の幸不幸(こうふこう)、成功失敗(せいこうしっぱい)などは、肉体がもたらうものではありません。こころがすべての創造者(そうぞうしゃ)なのです。従いまして、あれこれと無数(むすう)のことを欲張(よくば)って挑戦(ちょうせん)するよりは、自分のこころを綺麗(きれい)にするようにと挑戦することがとても重要なのです。いわゆる、六根清浄(ろっこんしょうじょう)です。六根(ろっこん)を清浄(せいじょう)にしてゆく生き方が「こころを育てる」良い方法なのであります。


 教祖・杉山辰子先生は『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事であると仰(おお)せです。そして、この法華経を信(しん)じて、信じて、信心(しんじん)することが幸せに通ずると仰せです。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時でも『妙法蓮華経』の五文字(ごもじ)を唱(とな)えることで、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から身を守ることができます。そして、「功徳の力」により大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)にと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できるのであります。


 お釈迦さまは、寿量品(じゅりょうぼん)〔第十六章〕にある『仏の永遠(えいえん)の生命(せいめい)』を知る功徳(くどく)を説(と)かれました。私たちは、仏の実在(じつざい)を信じ一心(いっしん)に『妙法蓮華経』を唱(とな)える時に大きな功徳(くどく)が生まれるのです。そして、妙法(みょうほう)を根本(こんぽん)とすれば乗り越えられない苦難(くなん)は無(な)いと仰(おお)せです。一つ、ひとつと宿業(しゅくごう)を乗り越(こ)えることにより悪業因縁(あくごういんねん)を断(た)ち切ることができるのです。私たちは、これからも三徳(さんとく)の実践(じっせん)と努力精進(どりょくしょうじん)により『すばらしき人生』となる布石(ふせき)を打つことが大事なのであります。


合 掌


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