爽(さわ)やかな季節がやって参りました。十一月は別名、霜月(しもつき)と呼ばれております。七・五・三の行事には子供さんの成長を祝い、そして長生きできるようにという願いが込められております。また、紅葉(こうよう)の季節でもあります。のんびりと紅葉(もみじ)狩(が)りにお出かけされても良いと思います。おもいっきり秋を満喫(まんきつ)して命の洗濯(せんたく)をしていただきたいと思っております。
先日は秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りを頂き誠に有難う御座います。今月は立教四十四年祭を開催いたします。多くの信者の皆さまのご参詣をお待ち申し上げております。
私がサラリーマンの時でした。私と同級生のTさんは「陰口(かげぐち)」「悪口(わるぐち)」の天才であります。そして、他人に厳(きび)しく、自分にやさしいという、誠に身勝手(みがって)な性格でした。会社で私の悪口を言いふらし悪い風評(ふうひょう)を作ったのであります。何故(なぜ)、そこまで敵対心(てきたいしん)をむき出しにしなければならないのか。生理的(せいりてき)に合わないのか。自分が優(すぐ)れているという慢心(まんしん)なのか。よく分かりませんが、あまり関(かか)わり合いたくない人物でした。
自分の成績が伸びないのは人のせいではないのです。自分に問題があるから悪い結果が出ているということを理解しないといけないのです。
ある日、私が本社に行った時、あまり話をしていない人とたまたま話をする機会(きかい)がありました。その時、私の人物像(じんぶつぞう)が大きくゆがめられていることが判明しました。とんでもないというイメージが本社のある部署(ぶしょ)では蔓延(まんえん)していたのであります。しかし、その方は、実際に「見る」と「聞く」では大違いであったと私に教えてくれました。悪口というのは勝手に一人歩(ひとりある)きをしてどんどん大きくなるものです。実際に本人と話をして初めて誤解(ごかい)が解けるということはよくあることです。
人の性格は変わるものではありません。人を侮(あなど)り謗(そし)る人間が、いったいどうなったのか。Tさんはそんなことばかりをして、成績(せいせき)を上げるのではなく、人の足を引っ張るところに全力投球(ぜんりょくとうきゅう)したために、成績が振るわず結果として責任を取らされ、支店長から課長に降格(こうかく)となりました。
部下から見れば、そんな上司は、いつ自分たちを裏切(うらぎ)るかわからないので疑心暗鬼(ぎしんあんき)になり信頼関係(しんらいかんけい)が崩(くず)れてしまったのです。要するに悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)って、どうしようもならなくなったということです。そして、あっという間に平社員まで落ちてしまったのです。結局、最後は会社を辞(や)めなければならない状況となったのです。人を侮(あなど)り謗(そし)る罪は百倍、千倍となって罰(ばつ)を受(う)けることになるのです。結局、自分の人生を駄目(だめ)にしてしまったのです。
私は、医者の世界も同様のケースがあると感じております。医者という最高の地位を得た人は、増上慢(ぞうじょうまん)という罠(わな)に陥(おちい)りやすいのです。最高の地位を手にして、しばらくは良いのですが、徐々に「上から目線」というふうに変貌(へんぼう)してしまう先生もおられます。そして、医者同士の権力争(けんりょくあらそ)いも頭脳(ずのう)では、もうこれ以上、差ができないため、いよいよ、敵対(てきたい)する相手に対し足を引っ張るという行動もあるように思われます。
逆に、人を助ける〔慈悲(じひ)〕人の人生は正反対です。Hさんは仕事がよくできる人間でした。例えるなら「一を聞いて十を知る」という賢い人間でした。どういうことをしたらよいのか即座に判断し、仕事もテキパキとこなしておりました。仕事に余裕があるから人の仕事を助けたり、アドバイスもしてくれました。
大事なのは自分の持つ力を隠すことなく普(あまね)く同僚(どうりょう)に伝授(でんじゅ)できることです。そういう、こころの器(うつわ)が大きい人間であるがゆえに人にも労力(ろうりょく)を惜(お)しまないのであります。そして、それが更(さら)なる成長への原動力(げんどうりょく)となるのです。その結果、彼は、出世街道(しゅっせかいどう)を着々と登りつめたのです。
人を助ける人間と侮(あなど)り謗(そし)る人間とは全く正反対の人生となってしまうのです。むやみに人を傷つけてはいけなのです。自分の欲(よく)〔執着(しゅうちゃく)〕から脱却(だっきゃく)し、人のためになる善(ぜん)を尽くすことが極めて重要であるのです。
人生の悩(なや)みというものは仏教で解決(かいけつ)することが望(のぞ)ましいと思います。美しいバラにはトゲがあります。そこで私たちは、「トゲがあって触(さわ)ることができない」と、ただ困(こま)っているのでなく、トゲで怪我(けが)をしないようにバラの扱(あつか)い方を学びます。トゲは消えてくれません。人生の悩みも、バラと同じことであります。
人間には悩(なや)みがあって当然であり、解決(かいけつ)すべきことですから、私たちは、必要以上に困(こま)ったりしないで、「悩みというものは、私たちを生かしてくれるよいものだ」くらいの感覚でいたほうが良いと思います。悩みがあるから考える。悩みがあるから智慧(ちえ)がつく。悩みがあるから人は成長(せいちょう)するのです。
私たちは、「死ぬまで生きるのだから別にいいじゃないか」というくらい気楽な気持ちで生きるなら良いですが、それでも人は不安になるものです。なぜかというと人間には、具体性(ぐたいせい)、客観性(きゃっかんせい)、真理(しんり)などの大事なものが無いからです。次の瞬間(しゅんかん)に自分が存在(そんざい)するかどうか分からないわけですから、今のこの瞬間(しゅんかん)しか生きていないという現実(げんじつ)があるだけです。
今現在の自分が「前向(まえむ)き」か「後向(うしろむ)き」かで人生は自(おの)ずと決まって参ります。今現在、後向きの人なら、人生は悩み苦しみでいっぱいになるでしょう。「後向き」ということは、今やるべきことをしていないのです。要するに「こころを育てる」という大切なことができていないから、悩み苦しむしかないのです。「前向き」の人は、慈(いつく)しみのこころを育て、怒(おこ)ることなく精進(しょうじん)に励(はげ)む人です。こころが豊かになれば、自然と悩みが減り幸せへとなってゆけるのです。
人間というのは健康な時には、悪い性格が表に出ないようにしていますが、病気になると本性(ほんしょう)が出るのです。わがまま、不満(ふまん)、不親切(ふしんせつ)になったり、人と仲良くできなくなり、雰囲気(ふんいき)を悪くしたり人に当(あた)るなどと、いろいろ嫌(いや)な性格(せいかく)が表面(ひょうめん)に出て参ります。その機会(きかい)をうまく捉(とら)えることがとても重要なのです。本来の自分の性格はこういうものであるということに気づくことが大事なのです。自分の悪い面を知ったらできるだけ早く改善(かいぜん)することが望ましいのであります。
よく聞く話ですが、結婚適齢期(けっこんてきれいき)なのに、相手が見つからないと悩む女性は、結婚願望(けっこんがんぼう)が強く、結婚したいとばかり考え、相手の外観(がいかん)ばかり追いかけて中身を見なかったり、自分の外観ばかりを磨(みが)いて中身を磨くことを怠(おこた)ると、良い結婚相手には巡り会えません。まずは、欲や怒(いか)りを抑(おさ)え冷静になることです。そうすれば、自分に自信がつき自然と相手が決まるものです。
全ての人間は「幸福(こうふく)」を目指して生きております。つくづく、人間関係は難しいものであると思います。人が嫌(いや)がらせを言っている時は、その人は怒(おこ)っているのです。あるいは嫉妬(しっと)しているのです。無知のために、落ち着きがなくなって声を出しているのです。その人が自分自身のストレスを、自分自身のこころの中にある苦しみを、言葉として発散(はっさん)しているのです。怒りは厳禁(げんきん)です。怒りは破滅(はめつ)です。怒ることにより自分の徳(とく)が大きく減り「幸福」から遠ざかってしまいます。堪忍(かんにん)はとても大事なことであるということを肝(きも)に銘(めい)じ、生きることが望ましいのです。
「私は好かれるようになりたい」というふうに思うことは良くないと思います。そんなふうに思っていると嫌(きら)われてしまいます。「希望(きぼう)すると必ず反対になる」と、お釈迦さまがおっしゃっておられます。何故かというと、そもそも希望する、そのこころがおかしいのです。「好かれたい」と勝手に思うのではなく、自然体(しぜんたい)が一番良いのです。そして、こころが何もない、『空(くう)』の状態が最も良いということなのです。
すべての生命は自分のことしか考えておりません。良いとか悪いとかということでなく、自分のことしか知らないのです。自分の主観(しゅかん)で物事(ものごと)を見ているのです。自分の主観、自分の判断で行動すると、他人に迷惑(めいわく)をかけることが多々あります。他人に迷惑をかけると人間関係が壊(こわ)れ、結局は自分のためにはなりません。自分の判断で、人のためにしたこと、親切のつもりでしたことが、相手にとって、とても気分の悪いことだったということはよくあることです。自分の主観(しゅかん)で物事を見る癖(くせ)を修正しなければ、結果は確実に悪くなるものです。冷静(れいせい)に客観的(きゃっかんてき)に物事(ものごと)を捉(とら)えることと、「わがまま」なこころを「慈悲(じひ)」のこころへと直してゆくことが大事であります。
慈(いつく)しみは魔法(まほう)の鍵(かぎ)となるでしょう。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、これを念(ねん)じることが大事であります。忘れないように、呪文(じゅもん)のように繰(く)り返(かえ)し、繰り返し唱(とな)えます。声に出してもいいですが、こころの中で繰り返しても良いのです。「呪文のように」と言いましたが、この言葉は実際には呪文ではなく、これを繰り返し念(ねん)じてゆくと、理論的(りろんてき)には効果があると思います。「自分だけでなく、すべての生命も生きることを望んでいる」という気持ちに、こころが変化(へんか)するのです。そうすると争(あらそ)いや喧嘩(けんか)などが減って参ります。慈(いつく)しみがいかに大事であるか、ご理解いただけたでしょうか。
人は「どこから」、そして「どこへ」「何のために」この問いに答えることこそ、人間としての、一切(いっさい)の営(いとな)みの出発点(しゅっぱつてん)となるのです。この「生きる意味」を教えてくれるのが『法華経』なのです。
仏智(ぶっち)という大事な「智慧(ちえ)」を体得(たいとく)することなのです。「知識がありながら智慧がないよりも、知識は無くとも智慧があるほうが良い」。それはちょうど、鉱山(こうざん)をもちながら富(とみ)がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうが良いのと同じことです。智慧(ちえ)も知識(ちしき)も両方あるほうが理想(りそう)的ですが、根本は智慧なのです。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」になれないからです。そして、知識は伝達(でんたつ)できても、智慧は伝達できない。自分が体得(たいとく)するしか方法はありません。
方便品(ほうべんぼん)の諸法実相(しょほうじっそう)がとても大事なところです。十如是(じゅうにょぜ)〔十如実相(じゅうにょじっそう)〕とは現象(げんしょう)を通(とお)して本質(ほんしつ)を知ることであります。具体的(ぐたいてき)な現実(げんじつ)〔諸法(しょほう)〕から絶対(ぜったい)に離(はな)れず、あくまで、この具体的な現実〔諸法〕の真実(しんじつ)の姿(すがた)〔実相(じっそう)〕に英知(えいち)を集中(しゅうちゅう)させている。物事(ものごと)の本質(ほんしつ)を見極(みきわ)める智慧(ちえ)〔仏智(ぶっち)〕を得ることが、とても大事なのです。
この法華経を信じて、信じて、信心(しんじん)してゆくなかで自分のこころが洗(あら)われ、清浄(せいじょう)なこころになってゆくのです。そして、教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)「妙法蓮華経」の五文字を唱えることが大事と仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬが)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)にと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)してゆけるのです。そして、この三世(さんせ)〔過去・現在・未来〕を生きているということが私たちを高めてくれるのです。
法華経は、お釈迦さまの説かれた経(きょう)の集大成(しゅうたいせい)であります。寿量品(じゅりょうぼん)〔十六章〕で『久遠実成(くおんじつじょう)の仏(ほとけ)』が明かされました。そして、『仏の永遠(えいえん)の生命(せいめい)』を知る功徳が説かれました。この法華経を深く信受(しんじゅ)した上で、『南無妙法蓮華経』と唱える時に一切(いっさい)が開(ひら)けてゆくのです。
私たちは、自分の運命を良くするためにも、日々、精進(しょうじん)することです。『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳を実践(じっせん)することで、『すばらしき人生』という大きな目標に到達(とうたつ)することを願っております。
合 掌