三月と言えば、花見の季節となります。つくづく日本人に生まれて良かったと思います。優雅(ゆうが)に花見(はなみ)ができるのも、日本の文化伝統のお蔭であります。そういう風情(ふぜい)を味わうことが、こころを豊かにしてくれます。とても有難いと思い感謝しております。
寒い冬も峠を越し爽(さわ)やかな季節の到来(とうらい)となります。この時期は「三寒四温」と申しまして、寒い日が三日続くと今度は暖かい日が四日続きます。寒暖(かんだん)の差がありますので、風邪などひかないようにご自愛ください。
先般は節分厄除祈願祭にお参りを頂きありがとうございました。皆さまの厄をすべて追い払い今年一年が無病息災で過ごせますように、お祈りさせて頂きました。また、釈尊涅槃会(ねはんえ)にもお参りを頂きましたこと重ねて御礼申し上げます。
今月は春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆先生ご入滅三十回忌でございます。多くの信者の皆さまのお参りをお待ち致しております。
私がサラリーマンの時でした。四国で支店長をしていた頃のことです。人を評価(ひょうか)することの難しさを目(ま)の当たりにしました。営業のHさんは、素直で優しく人柄(ひとがら)の良い人でした。仕事も早く、やる気もあり好青年でした。私が赴任(ふにん)して二年目の評価でした。彼は私がC評価をつけたことを不服(ふふく)とし会社を辞(や)めることになりました。
人が人を評価することはとても難しいのであります。業績だけでなく、仕事に対する姿勢(しせい)やプロセス〔過程(かてい)〕や人間関係などいろんな状況が影響します。会社はS・A・B・C・Dの五段階評価でした。抜群に業績を上げ、更に人格的にも申し分ない人はS評価となります。全国でもほんの数名でした。また、D評価は会社を辞めてほしい人になります。
会社の評価は絶対評価(ぜったいひょうか)でありながら相対評価(そうたいひょうか)という手法(しゅほう)をとっておりました。全員がB評価なら簡単ですが、そんな会社は潰(つぶ)れてしまいます。当然、頑張(がんば)った人と、そうでない人を正しく評価しなければ、成長はあり得ません。
A評価が一人いると必ずC評価も一人を作らなければなりません。これが相対評価(そうたいひょうか)です。部下がやる気を出すためには、良い結果を出した人にはA評価を与えます。しかし、その分C評価の人には的確(てきかく)な理由と説明が必要となります。
Hさんの場合は、業績もまずまずで特に問題はなく、卒(そつ)なくできたと思いました。しかし、現在の成績は前任者の成果なのです。そこで、彼に最大顧客のN先生にどのような感激を与えましたかと尋ねると、ごく一般的な回答しか得られませんでした。なぜなのか考えてみると、彼は、他の誰よりも良い仕事をしていると思い込む自分に満足していたのです。要するに、彼が顧客(こきゃく)に与えた感動(かんどう)という側面(そくめん)から見れば不十分な部分があったということです。そういうところがC評価になった大きな要因(よういん)であることを説明しました。
人は皆、一生懸命働いております。それは事実です。しかし、「一生懸命やりました」と勘違(かんちが)いをする人は少なくありません。すべて自分の尺度(しゃくど)で見て、考えて判断(はんだん)するからです。
そして、何より大事なことは相手に感動を与えることを常に考えないと駄目(だめ)なのです。一つの感動がまた次の感動へと連鎖(れんさ)してゆきます。その結果、顧客との深い信頼関係ができるのです。人間が成長するためには、結論(けつろん)すれば、いかに相手に感動を与えることができるかどうかに尽(つ)きます。
お釈迦さまは、生きることは「苦(く)」であると説かれました。いわゆる、生老病死(しょうろうびょうし)です。生きることも、老いることも、病(やまい)に伏(ふ)せることも、死ぬことも「苦」であると説かれました。生きることはとても大変なように思えますが、そうではありません。人生を観ますと、人間が、お腹にいるその瞬間(しゅんかん)から、死ぬまで、いろいろな悩(なや)みや問題(もんだい)があります。いろいろ問題が出続(でつづ)けます。しかし、これを何とか解決(かいけつ)しようとすることが、「生きること」であるのです。
お金がないことで苦しむ人は、お金があったら楽(らく)だと思う。お金を苦労(くろう)して手に入れたなら、お金がないという苦しみが当然(とうぜん)消(き)えます。しかし、今度はお金があることで新たな苦しみが生まれます。例えば、家が狭(せま)いと「苦(く)」を感じる人は広い家に引っ越(こ)しをします。広々とした楽な生活になります。しかし、広い家は狭かった家よりも苦しみをつくります。家の管理(かんり)が大変になり、家賃(やちん)も高くなります。ですから、新たな苦は必ず生まれて参ります。
生きることは「動(うご)く」ことであり、生きることは「知(し)る」ことです。その基盤(きばん)には必ず「生きることは苦である」という真理(しんり)があります。しかし、生きることは苦であるという意味は、なかなかピンときません。人生は「苦」であるということは、いったい何なのか。幸福(こうふく)の定義(ていぎ)とはその苦を乗り越えることで得(え)られる達成感(たっせいかん)なのです。
お釈迦さまは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を説かれました。「無常」とはいったいどういうことかと考えますと、すべてのものは現れては消えてゆきます。すべては「現れては消えてゆく」ことの連続(れんぞく)です。実体的(じったいてき)なものは何もないということを「無常(むじょう)」といいます。「空(くう)」「無我(むが)」も同じ意味(いみ)です。この世の中は蜃気楼(しんきろう)のようなものだということです。「空」とは「空っぽ」ではなく蜃気楼なのです。蜃気楼は、光の屈折(くっせつ)によって作られている現象(げんしょう)ですが、私たちの肉眼(にくがん)には、本当にそこに山や木や湖があるように見えます。しかも、「なんて綺麗(きれい)なんだ」と思うなど、私たちの感情(かんじょう)まで、実体(じったい)のない蜃気楼(しんきろう)によって変化します。ところが実際にそこに行ってみると何もありません。しかし、それは「本当に何もない〔虚空(こくう)〕」という意味ではありません。原因によって、一時的に現れている現象なのです。「自分」にしても、体が虚空(こくう)なわけではありません。しかし、だからといって実体的(じったいてき)な、永遠不滅(えいえんふめつ)な「これ」というものは何もないということです。それが「無我(むが)」ということです。
私たちには時間と止めることはできません。瞬間(しゅんかん)、瞬間で現象(げんしょう)が移り変わってゆくことを誰も止めることはできないのです。存在とは「動(どう)」であって、一瞬(いっしゅん)たりとも「停止(ていし)」しないのであります。
例えば、すべての存在(そんざい)を見た場合、噴水(ふんすい)や滝(たき)だと思ってください。噴水は止まったら噴水ではありません。滝が止まったらただの崖(がけ)です。従いまして、一切の現象は噴水や滝と同じです。現象(げんしょう)は停止(ていし)したら終わり、存在そのものがなくなってしまうのです。
自分の体も変化し続けているから「生きている」ことができるのです。体から細胞(さいぼう)が壊(こわ)れてゆくし、歳(とし)も重ねて参ります。壊(こわ)れては出来(でき)、壊れては出来、その繰(く)り返しが「生きている」ということになるのです。
人は「ある」と認識(にんしき)するだけで、「変化(へんか)」を認識しません。「花はある」と人は認識しますが、「花はずっと変わり続けている」とは認識しないものです。「自分」というものは、ずっと変化しているという「過程(かてい)」です。例えば、細胞(さいぼう)がどんどん壊(こわれ)れていって、絶(た)えず新しいものと入れ替(か)わっております。血液が流れて、体が新しく生まれ変わってゆきます。ものを見たり、聞いたり、学んだりして自分は常に変わって参ります。そのように「自分」というのは、瞬間(しゅんかん)、瞬間で変わってゆくものです。
世の中は、変化(へんか)するから面白(おもしろ)いのです。例えば、桜一つを取り上げても、見かたによっては変化を楽しむことができます。冬には桜は葉を散らします。しかし、春には花を咲かせ日本中で盛(も)り上がります。そして、一週間という短さで花を散らします。新緑(しんりょく)の季節(きせつ)にはうっそうと葉が茂(しげ)っております。どの角度から見ても桜の生命力の強さを感じます。人間も同じです。変化するから面白いのであります。しかし、精神的(せいしんてき)に弱い人は変化を拒(こば)みます。本来は変わらなければいけないのですが、変わらないことを期待(きたい)するようになってしまいます。
精神的(せいしんてき)な健康(けんこう)が衰(おとろ)えると、自分の知識(ちしき)をしっかりと守ろうとします。自分の知識に対する批判(ひはん)や改善(かいぜん)をしなくなります。だから、新しいことを拒(こば)んで、自分が知っていることにしがみついてしまいます。
年配(ねんぱい)の方がよく「昔は良かった」と言われます。この言葉はよく耳にします。昔のことを懐(なつ)かしむのは、昔のことが変わらないからです。別に昔が実際に楽しかったということではないのです。その時は、その時で苦労があったはずです。要するに変化しないことを望んでいるのです。
つまり、私たちは精神的(せいしんてき)にも肉体的(にくたいてき)にも健康であるならば、「無常(むじょう)」を認(みと)めることです。素直に変化を認めなければならないのです。そして、こころの変化に気づくことです。仏教では普段(ふだん)気づかないことを、集中力(しゅうちゅうりょく)を育てて、変化を発見(はっけん)する能力(のうりょく)を高めます。こころの変化は物質(ぶっしつ)の変化より早いことに気づきます。こころの眼(め)で見ると、こころの無常も物質の無常も見えて参ります。見えるもの、聞こえるもの、現実にあるものはすべて皆、移り変わって参ります。例えば、今見ている風景(ふうけい)も、間もなく移り変わって参ります。それだけではなく、自分の視線(しせん)をあちこちに転(てん)じるだけで、眼に映るものは移り変わって参ります。
無常だからこそ、無我だからこそ、自己の改良・改善ができるのです。永遠不滅(えいえんふめつ)で、これが人間の自我(じが)だといえるような、絶対的(ぜったいてき)に変わらない、確固(かっこ)とした実体(じったい)などどこにもありません。だから、変わることができるのです。
「無常(むじょう)=存在(そんざい)」ということですが、なぜかすごく矛盾(むじゅん)した言葉を二つ書きました。しかし、大事なことは「変化」こそ「生きる」ということです。物質(ぶっしつ)があるということは、変化です。太陽があるということは太陽が変化しているということです。地球も公転(こうてん)と自転(じてん)しながら変化しております。私たち人間も常に変わり続けるのです。
「形あるものは、なんでも必ず壊(こわ)れる」と自信をもって言える人がいるとします。しかし、なぜ、その人はお父さんや、お母さん、愛する人が亡くなると、悩(なや)み悲(かな)しむのでしょうか。わかっていても、親に死んでほしくはないのです。だから、「無常(むじょう)がわかる」と世間の人は自信をもって言いますが、自分の周りに無常の現象(げんしょう)が起きるとそれを受け入れがたく、悩み苦しむのです。
事実(じじつ)を否定(ひてい)すると、苦しみが生まれます。事実をありのままに見ることがとても大切です。私たちに悩み、苦しみ、精神的(せいしんてき)な問題(もんだい)が生まれるのは、私たちが自然(しぜん)の法則(ほうそく)に逆らって生きるからです。最後はみんな必ず死ぬのです。消えるものは消えます。若さも毎日、刻々(こくこく)と失っていくのも現実です。ありのままにものごとを観(み)ることを「智慧(ちえ)」といい、智慧が現れたと同時に、こころの悪循環(あくじゅんかん)や渇愛状態(かつあいじょうたい)が無くなります。その状態に達した人は、空気のように、悩み苦しみに翻弄(ほんろう)されることなく生きてゆけるのです。
教祖・杉山辰子先生は貪(どん)〔欲〕・瞋(じん)〔怒り〕・痴(ち)〔愚痴(ぐち)〕 の三毒(さんどく)が基となって、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の三悪道(さんあくどう)に堕(お)ちてゆき、あらゆる苦悩(くのう)を受けなければならないと仰(おお)せです。私たちは教祖さまが仰せの『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事であります。法華経を信じて、信じて、信心して『妙法蓮華経』の五文字を唱(とな)える時に大きな功徳(くどく)があるのです。
人間には塵(ちり)のような悩み、苦しみ、悲しみがございます。『因果(いんが)の二法(にほう)』によって必ずいろんな結果が出ます。今現れている現象(げんしょう)を過去(かこ)からの因果(いんが)の「結果(けっか)」と見ることが『本果(ほんが)』の考え方です。しかし、すこし難しいですが、この瞬間(しゅんかん)の生命が未来の原因(げんいん)をつくる「結果(けっか)」と見ることがとても重要なのです。
私たちも教祖さまを見習い、今日一日、今日一日と三徳の実践をすることで、新しい未来に向け精進(しょうじん)を重ねることが『すばらしき人生』に通ずることになると思っております。
合 掌