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世界平和を
大樹
すばらしき人生64

新年度の始まりです。新入社員、新入生、新学期と新しいこと尽(づ)くしであります。こころを引き締(し)めて迎えたいと思っております。人生においてスタートが肝心(かんじん)です。成長するためにも最初の第一歩がとても重要となります。


 四月を旧暦で卯月(うづき)と申します。卯月の由来は、卯(う)の花(はな)が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものというのが説となっております。また、花見や行楽など活動的な季節となります。家族で観光に出られ、良い思い出をたくさんつくって頂きたいと思っております。


 この時期は花粉症(かふんしょう)で悩んでおられる方も多いようです。自然の法則(ほうそく)であるために、仕方ないことと思います。そもそも、樹木(じゅもく)が生長するから花粉も飛散(ひさん)するわけで、人間を始め全ての生きとし生けるものが生かされて生きていることを強く感じております。


 先般は、春季彼岸先祖法要会並びに師祖・柴垣法隆先生ご入滅三十回忌にお参りを頂きありがとうございました。多くの信者の皆さまのご参詣をこころより感謝しております。四月八日(日)は釈尊降誕祭(こうたんさい)を開催いたします。信者の皆さまと盛大に「花まつり」を開催したいと思っております。どうか宜しくお願い致します。


 私が、学生の時でした。大学時代にいつも考えていたことは、いったい自分には何人、親友(しんゆう)がいるだろうか。こころを許(ゆる)せる友が何人いるのだろうか、と真剣(しんけん)に考えた時期がありました。仲の良い友人という意味では幅(はば)があり、いったいどこまでが親友でどこからが友達という明確(めいかく)な指標(しひょう)は個人差もあり線引(せんび)きできないのも事実です。どこまでしたら怒(おこ)るのか、どこまでだったら許されるのか。という基準を自分でつくればいいだけのことなのです。


 人間は常に孤独(こどく)なものです。会社で考えるなら、平社員の時が一番友達は多いのです。役職(やくしょく)が上がれば上がるほどどんどんと孤独になってゆくのです。従いまして、相談する相手の数が減り、最後、社長になったとすると、「裸(はだか)の王様(おうさま)」と言われるように孤独になってしまうのです。相談できる友すらいないのであります。


 一人の人間の力は非常に小さいものです。しかし、大勢の人が集まればものすごく大きな力になることは皆さまもよくご存知の通りです。


 私は人とのふれあいや、会話を通して自分と共通項(きょうつうこう)がある人を求めていたのかもしれません。そこには、弱い自分があり、親友をたくさんつくることで、それを納得(なっとく)させようと思ったのでしょう。


 しかし、考え方によっては自分自身に自分なりの美学(びがく)を追求(ついきゅう)していたのかもしれません。親友をたくさんつくることが、ある種(しゅ)のステータスと思っていた時期もありました。また、友達が多いと、前向きにいろんなスポーツやイベントなどの活動に参加する機会(きかい)も増えます。要するに、行動範囲(こうどうはんい)が広くなるわけです。行動範囲が広がれば世間という視野(しや)も広がってきます。そうすることで充実(じゅうじつ)した日々を過ごしたいという願望(がんぼう)があったのでしょう。


 今、こうして振(ふ)り返(かえ)ると家族や親友や友達が多いほど幸せというものを実感(じっかん)できるのではないかと思います。しかし、実際、学生時代には百名ぐらいの友達ができ苦楽(くらく)を共にしたのですが、還暦(かんれき)も過ぎますと親友(しんゆう)に会うことは結構(けっこう)めんどうなものです。それで、今でもお付き合いができる本当の親友は学生時代の五、六名だけです。従いまして、私には家族も親友もいるという、この現実(げんじつ)を大いに喜び感謝に生きようと思っております。


 さて、お釈迦さまは、こうおっしゃいます。瞬間(しゅんかん)、瞬間、変化する感覚の流れの中で「私」「自分」「自己(じこ)」「エゴ」という幻覚(げんかく)が生まれ、「私」が合成(ごうせい)し、捏造(ねつぞう)した認識(にんしき)が生まれます。つまり、「変わらない私」「一定の私」などというものは、どこにもありません。すべて、こころがつくり出した幻覚(げんかく)なのです。


 「私」「私がいる」とは言いますが、それらはあくまで都合がいいからです。現実(げんじつ)に「これが私です」といえる固定(こてい)された実体(じったい)はありません。常に、変化をしているからです。私たちは呼吸(こきゅう)によって自分が変わる。見ることによって自分が変わる。いる場所によって自分が変わる。時間によって自分が変わるのであります。


 「変わらない自分がいる」という自我意識(じがいしき)は明らかな誤解(ごかい)です。「自分」とは認識(にんしき)の流れですから、常に変化しているのです。ただ、絶(た)え間(ま)なく刺激(しげき)があり、絶え間なく認識が生まれるので「自分はずっと変わらずにいる」という錯覚(さっかく)に陥(おちい)っているにすぎないのです。


 例えば、これは、「川がある」という言葉と同じです。川が絶(た)えず流れているのであって、ひと所に存在(そんざい)しているわけではありません。ずっと流れ続けて、その流れがとまらないので「ある」と表現(ひょうげん)しているのです。


 自分というものは、あらゆる感情(かんじょう)が混(ま)じり合って生きています。怒(いか)りもあれば、欲(よく)もある、人を助ける気持ちもある。わがままもありますが、同時に他人の心配もします。混じり合っているのが自分なのです。理解して欲しいのは、条件によって自分のこころが変わることです。自分はどんなとき怒り、どんなとき欲張(よくば)りになり、どんなとき怠(なま)けるのか。常に変化(へんか)をするのがこころであり、それを理解(りかい)することが本当の自分に出合うということです。


 夫婦げんかをするのも「私(わたし)」という意識(いしき)があるからです。こちらに「私」がいて、向こうにも「私」がいるのです。親が亡くなった場面(ばめん)を考えても同じです。なぜ、親が死んだら悲(かな)しくなるかというと、「私」の親が亡くなったからなのです。悲しむからといって「『私』は優(やさ)しい人間だ」というわけではありません。世の中では親はたくさん亡くなられておられます。しかし、「私」の親が亡くなった時だけ悲しいのです。


 だから、あらゆる怒(いか)り、嫉妬(しっと)、憎(にく)しみと、ありとあらゆる争(あらそ)いというのは、「私」という一言が生み出しているのです。では、「私」という実体があるのか、というとそうではないのです。


 何かを感じるたびに「私(わたし)」「私」という幻覚(げんかく)が出てきて、その幻覚にすごく執着(しゅうちゃく)します。「私」こそ何よりも大切だ、と思います。「尊(とうと)い魂(たましい)がある」「かけがえのない自分」などと聞くと、とても嬉(うれ)しくなります。これらは、私たちの弱みから来ているものです。私たちは、生きている中で、ものごとが自分の意のままにならないことを、いやと言うほど知っています。失敗したり、不安になったり、病気になったりする弱さを否定(ひてい)したいのです。だから、自分にはすばらしいものがあると思いたいのです。


 人間には、自分のこと、「私のもの」に関することで、悩(なや)みや苦(くる)しみが生まれてくるものです。私のお父さんとお母さんは、「私の」両親(りょうしん)ですし、私が買ったブランドのカバンは「私の」カバンです。「私の」ということは消せませんから、「『私(わたし)の』という、その『私』とはいったい何なのかを客観的(きゃっかんてき)に調(しら)べて下さい」とお釈迦さまは、おっしゃいます。「調べれば『私』というのは幻覚(げんかく)だということが見えてくるのだよ。それでこころが落(お)ち着(つ)いて究極(きゅうきょく)な幸福になりますよ」と説かれております。


 究極のポイントですが、「私(わたし)の」、この一つの言葉(ことば)で、ものすごい苦(くる)しみが生まれてきます。それをお釈迦さまは、全部まとめてこのようにおっしゃったのです。「すべての苦しみが、たった一つの言葉(ことば)『私(わたし)の』というところから生まれるのだ」と。


 海はものすごく大きいかもしれませんが、一滴(いってき)、一滴で海ができております。「私」と思う自分は、その一滴のような存在(そんざい)なのです。たくさんの生命がいる中で、たった一つの生命として生きる「私」を海にたとえると、「一滴の海水として、海の中で生活をしている」状態です。その時、「私」という一滴の海水が海としているなら、なんら問題(もんだい)はありません。


 しかし、自分だけ、一滴(いってき)の水だけが出しゃばって、威張(いば)って、「私が偉(えら)いぞ、特別(とくべつ)だぞ、唯一(ゆいいつ)の存在(そんざい)だぞ」と思うとしたら、どうでしょうか。一滴の海水である「私」が、どんなに威張っても、大海に対して何の影響(えいきょう)もありません。話にならない無知(むち)な思考(しこう)です。威張(いば)るだけではなく、「私は、こんなほかの海水と一緒(いっしょ)にいたくない」といって飛(と)び上がってしまったら、たちまち蒸発(じょうはつ)してしまいます。


 「私というのは、一切(いっさい)の生命の中で、たった一個の生命だ」と思えば、生きることは、ものすごく楽になります。


 欲(よく)の感情(かんじょう)・怒(いか)りの感情・愚痴(ぐち)の感情は最終的(さいしゅうてき)に似(に)ているのです。その感情で私たちは「自分がある」と錯覚(さっかく)してしまうのです。それからまた、「自己愛(じこあい)」、「生存欲(せいぞんよく)〔死にたくないと思う気持ち〕」も、人を支配(しはい)しております。自己愛や生存欲に関わる感情が、すべての顔(かお)・すべての性格(せいかく)に入っているのです。私たちはどんな顔を見せるにせよ、常に自己愛というものがあります。自己愛があるから怒(おこ)り、自己愛があるから笑(わら)うのです。すべて自分のため、それが自己愛(じこあい)です。それから、生存欲(せいぞんよく)は「死にたくない」という気持ちですが、これも、エゴ・自我(じが)の実態(じったい)です。エゴや自我というのは、この貪(どん)〔欲〕・瞋(じん)〔怒り〕・痴(ち)〔愚痴(ぐち)〕、自己愛、生存欲によって表れる幻想(げんそう)です。これらは一切の苦しみのもとになる幻覚(げんかく)なのです。


 「自分がいる」という仕組(しく)みを分解(ぶんかい)してみると、それは一つの概念(がいねん)であって、別に実体(じったい)はありません。そのように仏教では説明します。普通の会話上は、「自分」という言葉を使ってもかまいませんが、それには決して哲学的(てつがくてき)な、あるいは心理的(しんりてき)な中身(なかみ)はありません。蜃気楼(しんきろう)と同じなのです。いろいろな原因で光が屈折(くっせつ)して蜃気楼のような幻覚(げんかく)がうまれるだけです。ぜんぶ自我意識(じがいしき)から出てきた問題(もんだい)です。


 自我(しが)の仕組(しく)みを理解(りかい)すると、ものの見方(みかた)が変わってくるはずです。誰もがみんなわがままであるのは当たり前のことだと解(わ)かります。そして、不満(ふまん)に思っていた周囲(しゅうい)に対しても、「みんなわがままなはずなのに、いろいろ私に協力してくれるものだな」と思えるはずです。つまり、自我が錯覚(さっかく)だと、頭の中だけでも理解(りかい)すれば、人間は怒(おこ)る必要も威張(いば)る必要もないと理解できるようになると思います。


 例えば、奥さんにだって、自我(じが)はあります。本当はわがままで料理を作りたくなくても、旦那さんに合わせたくなくても、いろいろ作ってくれるはずです。それが解かれば「感謝」が出てきます。旦那さんは休みの日に朝寝坊(あさねぼう)するのに、奥さんは前の晩(ばん)が遅(おそ)くでも、ちゃんと早起きしてご飯を作ってくれるのであれば、感謝しないといけません。自我を抑えて、家族のために対応してくれるのですから、感謝を態度に表すか、感謝を言葉にするべきでしょう。


 何もしないで、何も考えないで、捏造(ねつぞう)しないで、ただ、見て、感じてみましょう。そうすると「ものごとは変化(へんか)してゆくのだ。それだけじゃない、自分という感覚(かんかく)も変化しているのだ。何のことはない」と理解(りかい)します。そこで、もう怒(おこ)る必要はなくなります。すべては変わって消えてしまうものだから、何に怒るというのでしょう。怒る必要はありません。


 また、すべては変わって消えてしまうものですから、執着に値しないのだということも発見します。正確には、執着(しゅうちゃく)に値(あたい)しないのではなく、はじめから執着できないものだと発見し、悟(さと)りの境地(きょうち)に達(たっ)します。よく「執着(しゅうちゃく)を捨てろ」と言いますが、捨てる必要はありません。はじめからものごとには執着できないのです。執着という勘違(かんちがい)いがあるだけです。「あ、そうか。執着という勘違いがあるだけなのだ」と解かったら、こころは悟(さと)りに達するでしょう。


 教祖・杉山辰子先生は『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事と仰(おお)せです。慈悲とは、自分よりも人のことを思い慈(いつく)しみのこころで、慈悲を尽くすことです。人が喜んでくれれば必ずその功徳(くどく)で自分が幸福になってゆけるのです。口で云うのは簡単ですが、本気で自分のこころに誓(ちか)うことができれば、必ずなし遂(と)げることができるでしょう。


 教祖さまの辞世(じせい)の句(く)に『慈悲深(じひぶか)く 堪忍強(かんにんつよ)く守(まも)りなば 誠(まこと)の道(みち)も ひとり渡(わた)れむ』とあるように、慈悲と堪忍を実践すれば必ず誠という人生の軌道(きどう)に入ってゆけるということです。


 そして、常に客観的(きゃっかんてき)に自分を観(み)るということがとても大切です。とかく、人間は主観的(しゅかんてき)になってしまう。主観的になると自分が正しくて、周りが間違っているという錯覚(さっかく)に陥(おちい)ってしまいます。そのようにならないように謙虚(けんきょ)に生きることが望ましいのであります。私たちも教祖さまの歩まれた道に追従(ついじゅう)することで『すばらしき人生』の道へと入ってゆけるのであります。


合 掌


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