六月を水無月(みなづき)と申しまして、「水の月」という意味だそうです。すべての生きものは雨が降らないと生きてゆけません。雨はとても大切なものであります。
これから梅雨(つゆ)の季節となり、いよいよ夏の到来(とうらい)になります。最近の梅雨はダラダラと雨が降るのではなく、まとめてドカンと降る傾向(けいこう)にあります。一度に大量の雨が降ると土砂災害(どしゃさいがい)や河川(かせん)の氾濫(はんらん)など心配です。本当は適当に降ってもらうのが一番良いのでありますが、地球温暖化(ちきゅうおんだんか)の影響(えいきょう)もあり、いろんな面で激(はげ)しさを増しているのが現状です。
今月は教祖祭並びに教祖さま八十七回忌の法要を執(と)り行います。たくさんの景品もご用意させて頂きました。信者の方やご家族の皆さまのご参詣をお待ちしております。
そして、七月には盆施餓鬼先祖大法要会を開催いたします。今の自分が元気で生かされているのも、ご先祖さま、ご両親のお蔭であります。毎日、感謝(かんしゃ)の気持ちを持つことが大切であります。
私がサラリーマンの時でした。子どもが生まれてまだ二歳の時に、思い切って転職(てんしょく)をしました。現在の仕事で満足(まんぞく)をしていた訳ではありませんでした。また、転職しないと生活が厳しい状況でもあり、最終的に勇気(ゆうき)のいる決断(けつだん)となりました。
私は、新しい会社で静岡県の約七割を担当させて頂きました。そして、静岡市のS総合病院I先生(副院長)を担当させて頂き、三〜四ヶ月ほど経過(けいか)しました。このままでは実績は伸びないし、転職した意味も無いと思い、『なるようにしかならん』という気持ちになれたこと、要するに「開(ひら)き直(なお)り」が良い結果に繋(つな)がったことと思っております。
私は、先生にこう言いました。「先生、私を男にして下さい」「お役に立てることは何でもします」と。すると、先生は、「君の誠意(せいい)はよく解(わ)かった」と、ご返事を頂きました。
それから破竹(はちく)の勢いで売り上げが増えました。また、部下も毎年一人ぐらいのペースで増え転勤する時には十名のチームとなりました。I先生には今でも感謝しても感謝しきれない気持ちで一杯です。
人生、ここぞというタイミングで「開(ひら)き直(なお)る」ことがとても大事であると思いました。人生には成功の数より失敗の方が多いものです。失敗を恐れて行動しないことよりも、失敗しても良いから行動を起こすことの方が後悔しないものです。『失敗は成功のもと』というように開き直って挑戦(ちょうせん)することがとても大事であります。
さて、静岡市のS病院のI先生は地域の人々や患者(かんじゃ)さんと勉強会(べんきょうかい)を定期的に開催(かいさい)されておられました。タイトルは「命(いのち)を守(まも)る会(かい)」と申しまして、三ヶ月に一度のペースで「病気や上手な生き方」などをテーマに講義(こうぎ)をされておられました。私も会合には必ずお手伝いで参加させて頂きました。
先生は糖尿病(とうにょうびょう)がご専門のため、生活習慣(せいかつしゅうかん)の改善が主な内容でした。今では四十歳以上の五人に一人が罹(かか)る国民的病気であります。糖尿病は痛くもかゆくもなく自覚症状(じかくしょうじょう)もあまりない状況なので意外と放置(ほうち)されることが多いようです。そして、血糖値(けっとうち)が高い状態が長く続くと知らないうちに合併症(がっぺいしょう)を引き起こしてしまう厄介(やっかい)な病気(びょうき)なのです。
先生の講義(こうぎ)は面白(おもしろ)い内容で話も上手で素人(しろうと)にも解かりやすく説明して頂けるので、参加者も先生に感謝されておりました。自分の日常の生活を振り返り改善(かいぜん)できるような内容の講義(こうぎ)が中心でした。しかし、毎日の生活習慣を変えることは、なかなか難(むずか)しいですが、根気(こんき)よくやればできることばかりであります。
そして、寿命(じゅみょう)を延(の)ばすことは大事ですが、同時に健康寿命を延ばすためにも生活習慣の改善がとても重要となって参ります。一年でも健康で長生きしたいのは、誰もが願うことであります。とにかく人間にとって健康で長生きすることが一番の幸せなのであります。
お釈迦さまは「執着(しゅうちゃく)」から離(はな)れ平穏(へいおん)なこころで生きることを説いておられます。人間はものに対する執着心(しゅうちゃくしん)を断ち切ることは難しいのであります。そこで、ものに対する思いを考えてみると、不思議(ふしぎ)なことが解(わ)かって参ります。
本来なら人間はこころを育てることがとても重要なのですが、残念ながら実際はこころより身体(からだ)を中心に考えているのです。
人間の身体は、とても大事なものです。私たちは生まれた時から、この大事な身体が無病息災(むびょうそくさい)であるようにと日々、努力しております。そして、すべての生きものが「自然の法則(ほうそく)」によって守られております。
人間には他の動物などと違い「知識(ちしき)」というものを具(そな)えています。だから、地上の支配者になったのです。人間がその知識を使って作り出したすべてのもの、科学、文化、社会、政治、経済などは「身体」を守るためへの努力(どりょく)の結果(けっか)なのです。そのお蔭(かげ)で私たちは、とても楽(らく)に生活することができるのです。
人間はやらなければならないことが、日々たくさんあります。どうすれば、ほっと一息(ひといき)ついて安らぐことができるのか解からないほど、忙しく暮らさなければならないようになっています。この精神的(せいしんてき)な苦しみは忙(いそが)しく働(はたら)くことを美徳(びとく)として賞賛(しょうさん)することで、紛(まぎ)らわされているのであります。
この人間社会でどれほど大事な仕事をしていても、どんなに社会的地位(しゃかいてきちい)を得(え)ていても、結局それは、「自分の身体(からだ)を守る」ためにやっているということに、変わりはりません。
身体を守ろうとする本能によって、やむを得ず作り出された社会的システムの悪い側面(そくめん)が、生きてゆけないほどの精神的(せいしんてき)な苦しみを生み出す結果となるのです。
まず、「身体(からだ)」という概念(がいねん)ですが、私たちの身体というのは、もろく弱いものです。ふつう、私たちはそういうことを認めたくはないのですが、無意識(むいしき)の意識、あるいは本能(ほんのう)として理解しております。生まれた時から死ぬまで、人間はいったい何をしているのでしょうか。一生この身体を守ることのために、ただ必死になって努力しているのではないでしょうか。
子どもの頃から勉強や運動をしたり、やがて成人すると、仕事をしたり、結婚(けっこん)したり、社会生活をいろいろ営(いとな)むことは、すべて身体を守るためなのです。結局、身体を守る以外のことは、私たちにはできないのです。政治も経済も娯楽(ごらく)でも、同じことがいえるのです。身体を守る以外のことをする余分な時間はないのです。
たまに人間は、こころについて考えることもあります。その時には、精神(せいしん)や道徳(どうとく)やこころの健康といったことを考えますが、それも実は、社会的に失敗した時や、社会生活にうまく適応(てきおう)できなくなって初めて考えようとするのです。結局はすべて身体をうまく守ってゆくことができなくなった時に出てくる問題(もんだい)なのです。
いずれにせよ、人間というものは常に年をとってゆく、誰でも病気になる。そして、徐々(じょじょ)に衰(おとろ)えてゆくものなのです。解(わ)かっていながら、私たちが身体を守る努力をし続けるということは、何と空(むな)しいことでしょう。必ず負けてしまう「生きる戦い」を続けなければならないことは、本当に苦しいことです。
なぜか、生きていることで幸福感(こうふくかん)を味(あじ)わうことより、失望感(しつぼうかん)を味わうことやトラブルを起(お)こすことの方が多いのであります。こころの落ち着きが消え、精神的(せいしんてき)にも悩(なや)むことが多くあるし、また逆にそのような精神的なトラブルのせいで、新たな失敗や悩みが生まれ、悪循環(あくじゅんかん)におちいります。
この悪循環を破(やぶ)って平安(へいあん)なこころをつくることは、人間にとって進むべき正しい道ではないかと思います。そして、それは神や仏にすがったりお願いしたりすることで解決(かいけつ)する問題ではありません。
答えは事実をありのまま認(みと)めることです。身体を守る戦(たたか)いは必ず負ける戦いです。老(お)いることや病気や死、それらを乗り越えた人は誰一人としていません。それをよく理解した上で生きると、不思議(ふしぎ)なくらいストレスや悩(なや)みが生まれることも無くなるのです。こころは自由になり、何ものにもとらわれない、揺(ゆ)るぎない強い力を持つようになれるのです。
お釈迦さまは、身体(からだ)は「泡(あわ)」のようなものであるので、よく観察(かんさつ)しなさいとおっしゃっておられます。身体は瞬間瞬間(しゅんかんしゅんかん)、泡(あわ)がはじけるような感じで変化してゆきます。実体(じったい)として考えて、身体を守ろうと考えますが、身体は常に変化し泡(あわ)のように消えてしまう。つかもうとしてもつかめるものではないのです。身体は、幻(まぼろし)のように実体(じったい)のないものであると理解(りかい)することが大事なのです。
人間のこころは不思議(ふしぎ)なものです。いろんな物事(ものごと)を、自分中心に主観的(しゅかんてき)に考える考え方というのは、その個人の固定観念(こていかんねん)に基(もと)づくものです。従いまして、いつでも正しく判断(はんだん)ができる訳ではありません。ある人が良いと言うことを他人が悪いと思うのは、その人の個人的な判断によるものです。それが客観的(きゃっかんてき)に良いのか悪いのかと決めることは非常に難(むずか)しいことなのです。みんな互いに違う固定観念(こていかんねん)や概念(がいねん)を持って、自己中心に自分だけの世界をつくります。言い換えれば私たちは、自分だけの殻(から)を作(つく)ってその中に入り込んでいるのです。本当は分かっていても自分の殻(から)に閉(と)じこもってしまうのです。
人は他人が違(ちが)う意見(いけん)や判断(はんだん)をすることを知っていても、それが自分の意見や判断に合わない場合は認(みと)めようとしません。その代わりに、自分の殻の中で出来上がった「型(かた)」の中に相手を強引(ごういん)にあてはめようとします。相手側も、自分の概念(がいねん)の型(かた)にこちらをはめようとしますから、当然(とうぜん)、対立(たいりつ)が生まれます。
しかし、こころとは本当は互いに理解し対立なく平和で幸福に生きたいと思っているのです。幸福で平安な生き方をするためには、こころの中の問題を解決(かいけつ)するしか方法がありません。こころの殻(から)を破(やぶ)ることです。自我(じが)というとても小さな枠(わく)の中で働(はたら)いているこころを、枠を破って制限(せいげん)なく働けるようにすべきなのです。
では、こころが苦しみを生むことをどのように直(なお)すことができるのか。それは自分を観(み)ることから始まります。殻(から)の中に閉じこもっている人は、客観的(きゃっかんてき)に周りの世界を観ることができないとしても、自分のこころの殻(から)の中は観ることができます。でも人間は、こころの中の状態を観ようとはしません。それは自分のこころの自我(じが)の殻(から)を作(つく)る構造(こうぞう)が正しいと誤解(ごかい)しているからです。
私たちは周りの世界を正しく認識(にんしき)していない。しかも自我(じが)という殻(から)がある限りそれは不可能なことなのです。もし客観的(きゃっかんてき)に何かをありのままに知りたいと思うならば、それは自分のこころ自体を観(み)るより他に方法は無いのであります。自分の心の中を見れば客観的に徐々に理解してゆけるのです。
ただ自分のこころの状態を観て、これを徐々に清(きよ)らかにすれば良いのです。自分のこころの中に生まれる欲(よく)、怒(いか)り、嫉妬(しっと)、怠惰(たいだ)などを観ながら、それらを取り除くことです。自分の行動について良いか悪いかと見分けることです。それを継続(けいぞく)してゆくと、徐々に自分で自分のこころを正直に、ありのままを観られるようになり、自我(じが)という殻(から)を破(やぶ)ることができるのです。それによってこころの自由とすべての苦しみを乗り越(こ)えることができるのであります。
お釈迦さまは、私たちに「我(が)」を捨(す)てる勇気(ゆうき)を説(と)いておられます。我があるから物事に執着(しゅうちゃく)が起こります。それによって苦しみ、愚痴(ぐち)、不足(ふそく)が生まれるのです。素直(すなお)にありのままの自分を発見することで輝(かがや)かしい未来へと高めて頂きたいと思っております。
教祖・杉山辰子先生は辞世の句に「慈悲深(じひぶか)く 堪忍強(かんにんつよ)く守(まも)りならば 誠(まこと)の道(みち)も ひとり渡(わた)れむ」とあります。『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても大事と仰(おお)せです。そして、三毒(さんどく)の貪(どん)〔欲(よく)〕・瞋(じん)〔怒(いか)り〕・痴(ち)〔愚痴(ぐち)〕は三悪道(さんあくどう)〔地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)〕への基(もと)になっているため、この悪道(あくどう)に堕(お)ちるとあらゆる苦悩(くのう)を受けなければならなくなると仰せです。私たちはそうならないように一生懸命精進(しょうじん)しなくてはなりません。
教祖さまは、この教えを一心に信心(しんじん)して『妙法蓮華経』の五文字を唱える時に大きな功徳(くどく)があると仰せです。「一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ) 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)」のこころで信心することがとても大事なことなのです。
法華経には『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』が説かれております。煩悩(ぼんのう)という悪(わる)いエネルギーを良い方向に向けてゆく『お釈迦さまの智慧(ちえ)』を教えております。これからも更なるご精進により自分を高めることによって『すばらしき人生』へと進んでゆかれますことをご祈念致します。
合 掌