いよいよ夏本番です。七月を旧暦で文月(ふみづき)と呼びます。短冊(たんざく)に歌や文字を書いて書道の上達を祈った七夕の行事に由来していると言われております。これから日本中で七夕祭りの行事が開催され、厳しい夏の暑さが吹っ飛んでいくといいですね。
七月に入ると今年一年の折り返しでございます。この半年間で出来たこと、出来なかったことを思い出し、反省して再度チャレンジすることが望ましいと思います。一秒、一秒の積み重ねが一日であり、一ヶ月であり一年です。私たちには一日、一日を無駄(むだ)に生きるという暇(ひま)は無いのです。毎日を尊(とうと)く生きるように頑張(がんば)りましょう。
先般の教祖祭〔杉山辰子先生八十七回忌〕には多くの信者の皆様のお参りを頂き誠にありがとうございました。抽選会(ちゅうせんかい)もドキドキしながら楽しい雰囲気(ふんいき)で開催することができ、こころより感謝申し上げます。
今月は盆施餓鬼先祖大法要会を開催いたします。私たちはご先祖さまのお蔭で今日(こんにち)があります。常にご先祖さまへの感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。どうか、多くの信者さまのご参詣をお待ち申し上げております。
私がサラリーマンで四国の支店長をしていた時のことです。U副本部長からどうしてもK課長の後任にA課長を使ってくれないかとの依頼がありました。私はK課長を評価(ひょうか)しておりませんでした。おそらくK課長は副本部長に私と合わないから転勤(てんきん)させて欲しいと頼(たの)んでいたのかもしれません。そんなこともあり、副本部長よりKさんは単身赴任(たんしんふにん)が長く、そろそろ地元へ返してやりたいということでした。
K課長は正直で明るいけれども人情的で情けに流されるという弱い部分がありました。また、A課長は見るからに暗いという印象(いんしょう)がマイナスでした。
私は、しぶしぶA課長を受け入れることとなりました。とても管理職(かんりしょく)ができるような人格(じんかく)ではありませんでした。彼は人のぬくもりみたいなものが感じられないというか、クールというか、身勝手(みがって)な人物でした。ですから、一緒に食事に行くとか、飲みに行くとか、そういう気持ちになれませんでした。
人間とは不思議(ふしぎ)なものです。第一印象で、ほぼ性格は読み取れるものです。そして、好(す)きか嫌(きら)いか、瞬時(しゅんじ)にして判断(はんだん)を下してしまいます。
私は考えました。このA課長に任せる仕事は無いなと思い、部下のMR(営業職)に直接指示(しじ)を出していたのです。このような課長はいてもいなくても体制(たいせい)に影響(えいきょう)はないのです。
本来、MR(営業職)は課長の仕事を課長は支店長の仕事を支店長は本部長の仕事と一つ上の仕事をしないといけないのです。とにかく部下を教育できない管理職が世の中には沢山いるものだなと感じた次第です。
良い仕事をするためには、相手(あいて)に感動(かんどう)を与えなければいけません。人と違う何かが無いと駄目(だめ)なのです。まず、仕事の質(しつ)が高いこと、迅速(じんそく)であること、丁寧(ていねい)であること、誠実(せいじつ)であることがクリアできれば結果は必ず後からついてきます。真面目(まじめ)にコツコツ行なうことも大事ですが、時にはポイントを絞(しぼ)り大胆(だいたん)に攻めることも重要なのです。自分を信じてその潜在能力(せんざいのうりょく)をひき出せば、不可能は必ず可能となるでしょう。仕事における成功者とは自分の力が信じられるか、そうでないかで決まるのであります。
仏教を信仰するこころがあるから救われます。私たちは、生まれた時から死ぬまで、いつも必死(ひっし)で生きております。小さい時は勉強やスポーツと頭と体を鍛(きた)えるために毎日を過ごしてきました。それは大人になってから社会人として生きるための準備なのです。未来のための教育ですから、計画通りにいけば幸いですが、うまくいかない場合もあります。
子供の時から努力は未来のためであると性格の中に摺(す)り込(こ)まれていますから、大人の社会でも、何か目的を持ったり夢を持ったりして頑張(がんば)ることは、美徳(びとく)とされてきました。
考えてみれば、みんな死ぬまで明日のために準備(じゅんび)することだけで生きていると言えるのではないでしょうか。結局、「生きる」ということは「準備する」ということだけになってしまいます。
人間は「生きる」ということが当たり前と考えてしまうため、「生きる」ということを深く考えることはないのです。そして、今の生き方が無意味(むいみ)で面白(おもしろ)くないと感じると、人生の目的などを探(さが)そうとするのです。
今の瞬間(しゅんかん)、精一杯(せいいっぱい)生きて充実感(じゅうじつかん)を感じられれば人生に対する問題は生まれませんが、そう簡単(かんたん)にはいかないのが人間です。先のことを考えない、計画を立てない、特別に生きる目的がないというような生き方では、いろいろな不満(ふまん)や混乱(こんらん)を生じさせます。やはり人生には生きる目的が無いと駄目(だめ)なのです。
普通の人間は、家族のため、お金のため、知識(ちしき)、名誉(めいよ)、権力(けんりょく)等々のためというような生き方をしますが、少しでも自分を高めようとする感性(かんせい)を持っておられる方なら、そのような生き方はしないものです。
一般的には、財産(ざいさん)、地位、名誉、権力があり、社会的地位が高いことと、知識人であることが、人生の目的として当然のように考えられてきました。そういうことも、決して否定(ひてい)すべきものではないのですが、ただそれだけを生きる目的にするのは、あまりにも空(むな)しいことです。そのようなものはたとえ獲得(かくとく)できたとしても、自分から確実(かくじつ)に離(はな)れてゆきます。いずれ財産、知識、社会的地位や名誉もなくなります。最後には、自分自身には何もなくなってしまうものなのです。
お釈迦さまの教えから考えると、何か自分と一体(いったい)になるものを得(え)たほうが良いということです。そういうものは自分と一緒ですから、なくなりません。では、自分から離(はな)れないものとは、いったい何かというと、それは、自分の『人格(じんかく)』ということになります。まずはそのような意味から、人格(じんかく)の完成(かんせい)をめざして努力することは、生きる目的となるべきものであると思います。
私たちは何かをするにしても、その、「する」ことによって、自分の人格がよい方向へ変わるか変わらないかを考慮しながら生きれば、一生(いっしょう) 力強(ちからづよ)く、しっかりと生きてゆけると思います。
私にとって何か「得(とく)」がありますかと考えるのではありません。いつも、自分の短所(たんしょ)を減らし、長所(ちょうしょ)が増えるように努力することです。人間は気ままに行動するので、他人に害を与えたり迷惑をかけたりします。つい怒(いか)りにとらわれてしまうものです。嘘(うそ)をついたり嫉妬(しっと)したり、また自分の失敗や悩みをお酒などに逃(に)げたりします。このようなものを断ち切る努力をしなければいけません。そして、良い人格をつくるために努力することは生きる目的としては、とても重要なことだと思います。
生きる目的は何だろうと思い悩(なや)むよりも、人格を完成の方向へ持っていくために生きているのだと思ったほうが良いのではないでしょうか。私たちの性格では、直さなくてはならないものはいくらでもあります。次から次へと欠点を見つけると、それを直すために励(はげ)まなくてはいけないというエネルギーも生まれてきます。そうすると、死ぬまで元気で生きられるはずです。これからどうしたらよいのかという疑問(ぎもん)も生まれません。その人は死ぬ時は確実(かくじつ)にすばらしい人間として天寿(てんじゅ)を全(まっと)うされます。「ああ生きてきてよかった」という人生へと高められるのです。
道徳的(どうとくてき)な生き方により人格を完成させることを生きる目的とすることがとても重要なのです。道徳的な面を気づきながら生きることは、なかなか大変なことです。瞬間的(しゅんかんてき)に生まれる感情(かんじょう)が生きる衝動(しょうどう)になっていることが、ごく普通のことなのです。生きていく上で、社会的(しゃかいてき)にも精神的(せいしんてき)にもさまざまな問題が現れるのは、私たちが感情(かんじょう)に支配(しはい)されているからです。感情的に生きる道を人格完成(じんかくかんせい)の道に変えることは大変なことです。それを実行するには、常に自分というものに気づくことが大事であります。
例えば、具体的には、まず私たちは、世の中のことも自分の生命のことも良く知らないということを自覚(じかく)することです。私たちはどう生きるべきか、将来どうすべきか、何のために生きているのかなどということも、解(わ)かっていないのだということを、正直に認めることです。その上で、物事を、正しい、正しくないと判断(はんだん)する気持ちを抑(おさ)えることです。この世の中は、結局何が正しいのか、正しくないのか、判断が難(むずか)しくなっております。世間が今日正しいと認めるものが明日になって正しくないということも、たびたびあります。世の中の価値観(かちかん)はよく変わるものです。それに左右されると苦労(くろう)が絶(た)えません。
人が悩みにぶつかるのは、やりたくないことをやる時ばかりではありません。自分のやりたいことをやっている時も問題は発生します。やりたいことばかりやっている時には、自分のやるべきことを忘れたり、自分勝手な人間になってしまうこともあります。
自分の人生についても、世の中のことについても、結局判断はしにくいと解かった人は、人生においても、あれをやりたい、これはやりたくないという考え方から解放(かいほう)され、精神的に楽になれるのです。その時その時、やらなくてはいけないことを、しっかりと実行することです。
しかし、ただそれだけでは、人格完成は得られません。何をしても、その「する」ことから、人格を高める何かを学ばないといけません。何をしたかより、何を学んだかが重要なのです。
感情的(かんじょうてき)な生き方では、欲(よく)、怒(いか)り、嫉妬(しっと)、高慢(こうまん)、わがままが生まれます。こころの狭(せま)い人間になる。協調性(きょうちょうせい)を失う。人間として堕落(だらく)する。そして、その結果不幸になり生きることが無意味(むいみ)となってしまうのです。
「学ぶ」というのは、嫉妬(しっと)、怒(いか)りなどの代わりに慈(いつく)しみの精神、欲(よく)の代わりに無執着(むしゅうちゃく)のこころを持つこと。そして、大らかな人間になり、よく物事を理解できるようになる。何が起ころうとも冷静に判断できる精神力が生まれます。そのように徐々(じょじょ)に人格を向上させてゆくことです。つまり、何をしても生きることそのものを成長への道(みち)とすることです。
では何のために人格を完成させるのでしょうか。感情的(かんじょうてき)に生きる生命は、存在(そんざい)の真理(しんり)は何一つ知らない暗闇(くらやみ)の中で、ああではないか、こうではないかとただ手さぐりをしているだけです。苦しみは嫌(いや)と言いながらも、苦しみを乗(の)り越(こ)えることもできない。しかし、人格を完成すればこの暗闇に智慧(ちえ)の光を照らすことができるのであります。生命が束縛(そくばく)されているこの生きるという現象(げんしょう)は、無意味(むいみ)で空(むな)しいものであり無常(むじょう)であり、幻想(げんそう)であるという智慧が現れるのです。
私たちは、無常(むじょう)なるものに執着(しゅうちゃく)してとらわれて、いくら苦しみを味わっても無意味であることを理解しております。法華経を深く理解し真理に生きるという生命に目覚め、それによってこころの一切(いっさい)の束縛(そくばく)、煩悩(ぼんのう)が消え、「慈悲(じひ)のこころ」をもつという境涯(きょうがい)に到達(とうたつ)できるのであります。
教祖・杉山辰子先生は慶応(けいおう)四年に岐阜県の笠松でご生誕(せいたん)され、昭和七年六月二十八日に六十五歳で生涯の幕(まく)を閉(と)じられました。先生の生涯(しょうがい)は、いつでも、どこでも『世のため、人のため』の人生であったと思います。
法華経を深く信じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)『妙法蓮華経』の五文字を唱(とな)える時に大きな功徳(くどく)があると仰(おお)せです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰せです。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)となり、守られることを常におっしゃっておられます。
私たちも教祖さまが仰せの『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても大事であります。妙法を唱え三徳の実践をすることが自分を磨(みが)くことをなります。そして、お釈迦さまが説かれた『因果(いんが)の二法(にほう)』を理解することです。人生には山(やま)あり、谷(たに)ありと言いまして、生きていれば塵(ちり)のような無数(むすう)の苦労や悲しみや辛(つら)いことの連続です。しかし、『因果の二法』を理解するならば、自分にはいろんな悪業(あくごう)、因縁(いんねん)があることに気がつきます。その一つひとつの罪障(ざいしょう)を乗り越えることで罪障を消滅(しょうめつ)できるのです。努力は嘘(うそ)をつきません。どうか、日々ご精進(しょうじん)されることで、ご自分の人格(じんかく)を高め『すばらしき人生』への軌道に入って頂きたいと思っております。
合 掌