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世界平和を
大樹
すばらしき人生68

近年、夏の暑さは厳(きび)しさを増し、三十五度を超すことも多く、地域によっては四十度を超す記録的(きろくてき)な暑さが報道されるようになりました。それに伴い熱中症(ねっちゅうしょう)が増加しております。熱中症を予防するためには、食生活がとても重要です。一日三食バランスのとれた食事と水分補給(すいぶんほきゅう)によって、健康維持(けんこういじ)に心がけましょう。


 先般の教祖祭には多くの信者の皆さまのお参りを頂きありがとうございます。お蔭さまで抽選会も盛り上がり当選された方々、本当におめでとうございます。教祖さま八十七回忌も無事務(つと)まり信者の皆さまには感謝申し上げます。


 八月はお盆という大切な行事がございます。ご先祖さまを偲(しの)んで、お墓参りや仏壇で手を合わせることが慣習(かんしゅう)となっております。


 今の自分があるのもご先祖さまのお蔭です。今まで守られてきたことに感謝をすることです。そして、これからも守って頂けるように仏前でお参りをすることがとても大事なのであります。


 私が、大学生だった時のことです。友達は多いに越したことはないのですが、「真(しん)の友達(ともだち)」をつくることが人生にとって大きなプラスになると信じておりました。私には、友人が四十、五十名はいましたが、真の友達はたったの三人です。Mさん、Yさん、MMさんです。


 真の友達とは、共通の考え方ができることが一番大事なところです。それぞれ、趣味(しゅみ)やスポーツは違うけれど、物事の考え方、捉(とら)え方が共通でないと真の友達にはなれません。


 大学時代にMさん、Yさんと私で、全国を旅しました。最初は北海道の道南(どうなん)二週間の旅でした。そして、南は九州や中国地方にも行きました。旅行は、いつも三人の会話から自然発生的(しぜんはっせいてき)に目的地が決まります。そして、立案(りつあん)するのは決まってYさんです。私とMさんは面倒(めんどう)なことは苦手で、いつもYさんに頼んでいたのです。


 旅行することで新しものを見る、聞く、知る、そして、感動(かんどう)するのです。気分が爽快(そうかい)になるため将来の夢とか平気で話せるのです。こころがオープンになることと、今まで以上に信頼関係(しんらいかんけい)ができるからなのです。


 しかし、長い旅になると、人間の本性(ほんしょう)が必ず出てきます。三人の意見が合わない時もありますが、結局、自然と仲直りをして旅行を楽しむことができたのです。


 「持つべきものは友」という言葉のように、真の友人は、困った時、行き詰まった時、必ず助けてくれるのです。悩(なや)みを共有(きょうゆう)することができれば、なんらかのアドバイスもできるし、一緒に考えることで智慧(ちえ)も出てきます。


 なにより、人に相談すれば悩みは確実に減ります。どんなことでも相談できるのが真の友達なのです。


 三人目のMMさんは、幼稚園時代からの同級生です。彼は、テストが近づくとなぜか私に期待(きたい)をするのです。私には大学で広いネットワークがありました。テストが近づくとテスト問題の傾向(けいこう)と対策(たいさく)を誰よりも多く持っていたのです。仲間が、私にテストの情報をくれるのです。そのことをMMさんは知っているので、「コピーくれ」、「コピーくれ」と情報収集(じょうほうしゅうしゅう)にやって来るのです。


 人それぞれですが、良い人と付き合えば自分も必ず良くなる。自分が成長すれば、友達も成長できる。お互いに、良い部分を伸ばすことにより、相乗効果があるのではないでしょうか。三人とは現在も交流(こうりゅう)があり、友達でいてくれることに大いに感謝したいと思っております。


 私たちは、日々の日常の中で、欲(よく)、怒(いか)り、嫉妬(しっと)など、さまざまな感情(かんじょう)が生まれます。それらを抑えることは難(むずか)しいのです。毎日、仕事や家庭や子供のことなどで、私たちはいつも忙(いそが)しいのであります。


 自分の行動は間違っているのかいないのか、判断する暇(ひま)がないのです。私たちの生き方を見ると、死ぬ思いで猛烈(もうれつ)に走っているような感じがします。今おかれている状況を、ありのままに見ることは、なかなかできないのです。私たちは、こころを見る暇(ひま)、こころを清(きよ)らかにする余裕(よゆう)はあまりないのです。


 通常どんな人間でも、自分はとても忙(いそが)しいと思っています。たまに、やることがないという方もいますが、その人々に余裕(よゆう)があるかと思えば、そうではない場合もあります。そういう人たちは、暇(ひま)だから悩んでいる。何か自分を忙しくしてくれるものを探(さが)し求めております。結局そういうことで精神的に忙しくなり、自己観察(じこかんさつ)をしなくなってしまうのです。


 はたして本当に私たちは忙しいのでしょうか。普通、仕事を上手(じょうず)に手早(てばや)くできる人は、忙しいと焦(あせ)らないと思います。料理がすごく上手な人なら、テキパキ要領(ようりょう)よくできます。なんであれ「上手(じょうず)」といえる人は、どんな仕事でも焦(あせ)ることなく余裕(よゆう)をもってできるのです。人間には暇がないのではなく、精神的(せいしんてき)に落(お)ち着(つ)いていないだけなのです。お釈迦さまは、何事についても「巧(たく)みな人」になりなさいというお言葉がございます。


 愚(おろ)かな人間にならないようにするためには、どういう点を改善(かいぜん)したら良いのかを考えることがとても重要となります。まず「生命(せいめい)」とはどういうものかという定義(ていぎ)が必要です。


 仏教で語る真理(しんり)は、人間だけじゃなく、すべての生き物に対しての真理であります。従って、経典では人間だけに関わる問題を語る時「人間」という言葉を使います。人間に限らず、ありとあらゆる生き物をさす時は「一切衆生(いっさいしゅじょう)」という言葉を使います。


 衆生(しゅじょう)というと、人間が考えている神々(かみがみ)のような高次元(こうじげん)の生命と、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)のようなところに生きている低次元(ていじげん)な生命のすべてが入ります。


 さて、人間だけじゃなく、すべての生命に標準(ひょうじゅん)を合わせて考えてみても、生命というものは周囲(しゅうい)のさまざまな影響(えいきょう)に左右(さゆう)されやすいということがいえます。もっと厳密(げんみつ)に言えば、影響を受けることによって生命(せいめい)は存在(そんざい)しているわけです。影響があるから私たち人間は成長(せいちょう)するのです。


 仏教の立場から見れば、人間だけではなく人間より高次元の生命も、あるいは低次元の生命も、生命それ自体が互いに影響し合って、互いに生き続けているということです。


 一切衆生と考えると、非常に難しく理解できないため、人間のことについて考えてみましょう。生まれたばかりの赤ちゃんは、そのまま放っておけば成長(せいちょう)するどころか、生きてゆくこともできません。


 人間として成長して生きられるのは、周(まわ)りから得(え)られる限(かぎ)りない援助(えんじょ)のお蔭です。赤ちゃんは生まれる前〔胎児(たいじ)〕からすでに母親の身体(からだ)や精神(せいしん)、また周りの環境(かんきょう)からも影響(えいきょう)を受けて育つという事実(じじつ)は、よく知られていることです。


 ですから人間にとって、成長する過程(かてい)で周りからの影響というのは、無視(むし)できないとても重要(じゅうよう)なことです。私たちの人格形成(じんかくけいせい)、生き方、成長など周りからの影響によって成り立つものであると理解(りかい)したほうがよいのです。


 自分がこのような人間であると、自分のことを意識(いしき)する自分の姿(すがた)は、自分の意志でそうなったのではなく、周りの環境からそのように形成(けいせい)されたと理解するべきです。


 動物たちの世界では特に教えられなくても、生きるために必要な能力(のうりょく)は本能(ほんのう)として身につけております。不思議(ふしぎ)なもので動物の中でも人間に近いほ乳類(にゅうるい)は、赤ちゃんの時から動物園で人間に育てられた場合、大きくなって自分が子供を産んでも育てる方法がわからず、飼育員(しいくいん)が困ってしまうケースがよく見られるそうです。


 このような現象(げんしょう)が起こるのは、脳(のう)の発達(はったつ)している動物の場合です。従って、脳が発達すると、本能の役割が減ってしまうのです。高等(こうとう)な動物は本能だけで生きてはいられないのです。親や周りからの教育を受けなくてはならないのです。人間になるとこのような現象がもっと極端(きょくたん)になります。


 人間には、食べること・しゃべること・歩くこと・自分の周辺のことをすることを、何でもかんでも教(おし)えてあげなくてはなりません。どんな動物であろうとも自分の餌(えさ)をちゃんと食べることを知っております。人間だけが自分の食べ物を知らないというのは、とても不思議な現象です。これは食べてもよく、これは食べてはいけないと教えてもらわなくてはならないのです。結論(けつろん)から言いますと、人間の人生はすべてが教えられて、育てられなければならないものであるということです。


 私たちの人生が、成功するか失敗するか、幸福になるか不幸になるか、知識(ちしき)や経験豊(けいけんゆた)かな人になるかならないか、性格が優(やさ)しくなるかならないか、などのすべては、周りから受ける影響(えいきょう)で変わります。周りの影響というものは人生にとってとても大きな影響があります。従いまして、私たちは、自分への影響というものを真剣に考えないといけないのです。


 健康な人間として、また立派な社会人として、生きてゆくために必要な影響や教育は、家族・教育制度(きょういくせいど)・社会から充分受けております。しかし、仏教が目指すところは、ただ生きて死ぬのではありません。生きている間は、こころ清(きよ)らかにして人格を向上させ、無知(むち)を破(やぶ)って智慧(ちえ)を得(え)、真理(しんり)を体験(たいけん)して生きる苦(くる)しみを乗り越えるということです。それに必要な影響や教育を、仏教は人間に与えているのです。


 私たちは、どこにいても空気に触れ、空気の影響を受けることが避(さ)けられないように、人間が精神的(せいしんてき)にも肉体的(にくたいてき)にも、周りから影響を受けないようにすることはできません。ふさわしくない環境(かんきょう)の中にいて、周りから悪い影響を受けないようにしようと思っても、それは無理(むり)なことです。影響というのは良(よ)きにしろ悪(あ)しきにしろ、生命を維持(いじ)するための栄養素(えいようそ)でもあります。


 立派な人間になりたい、性格を良くしたい、こころの未熟(みじゅく)なところを直したい、こころの汚れを落としたい、清らかなこころをつくりたいという仏教的な目的があった場合でも、影響という栄養素に頼(たよ)るしかないのです。ということは、それなりの影響を受けなければならないのです。


 しかし、他の生命と比べて人間が恵まれている点がひとつあります。それは自分で自分の周りの環境(かんきょう)を選(えら)ぶことができます。それはとても素晴(すば)らしいことです。親は選べませんが、どのような教育を受けるか、どういう仲間をつくるか、どのような場所に住むか、どんな仕事に就(つ)くかといったようなことは、多かれ少なかれ選ぶことができます。


 人間が環境を選べるということは、大変恵(めぐ)まれていることです。ただ流されて生きているより、しっかりと環境を選んで生きることができるのであれば、自分の幸福のためになるのは確実(かくじつ)です。


 その中でも、人からうける影響(えいきょう)が一番大きいのです。従いまして、常に自分より優(すぐ)れた人と付き合ったほうが自分は確実に成長できるのであります。そのような立派な人がいない時は、性格的に自分に似ている仲間をつくれば、大きな成長は見込めないかもしれないが、堕落(だらく)するようなことはありません。不注意で性格の悪い人々と付き合うと、必ず自分が気付かないうちに、自分の性格も悪くなってゆくことは避(さ)けられません。


 自分が成長し人格者(じんかくしゃ)になるためには、良い環境(かんきょう)を自ら選択(せんたく)し、すべてをありのままに見るこころを持つこと、そして、お釈迦さまの智慧(ちえ)で問題を解決(かいけつ)できるように、常に自分を高める努力がとても大事ではないでしょうか。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信心(しんじん)してゆくことが大事と仰(おお)せであります。そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)『妙法蓮華経』の五文字を唱(とな)えると、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)させることができると仰せです。


 お釈迦さまが説かれた法華経を広宣流布(こうせんるふ)することがとても大事であります。教祖さまは、全国に布教(ふきょう)させるのだという強い意志(いし)で専念(せんねん)されました。そして、教祖さまが私たちにお示し下さったことは、自分が変わるには『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』三徳(さんとく)の実践(じっせん)をすることです。そういう積徳(せきとく)の人生を私たちにお示し頂いたのであります。


 私たちは親から子、孫へと法華経の偉大さを伝えなくてはなりません。一人でも多くの方が幸せになれますように願う、お釈迦さまのこころに即(そく)してゆくことです。私たち一人ひとりが精進(しょうじん)することで『すばらしき人生』の幕開(まくあ)けにしたいと思っております。


合 掌


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