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世界平和を
大樹
すばらしき人生69

九月を旧暦(きゅうれき)で長月(ながつき)と申します。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力だそうです。確かに、彼岸(ひがん)を過ぎれば夜の方が長くなります。しかし、まだまだ残暑(ざんしょ)も続きます。皆さまの健康を維持するためには、三食(さんしょく)バランスのとれた食事と水分補給(ほきゅう)と適度な運動、そして、十分な睡眠が必要です。どうかご自愛(じあい)くださいますようお願い致します。


 先般は、法公会盆施餓鬼先祖大法要会にお参りを頂きありがとうございます。今月は、秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭を執り行わせて頂きます。多くの信者の皆さまのご参詣をお待ち致しております。


 さて、私がサラリーマンだった時のことです。何事も経験(けいけん)が大事であります。私は、入社三年目のTさんが、素晴らしい潜在能力(せんざいのうりょく)を持っていたため、最高の人材に育てようと意識(いしき)して指導(しどう)しておりました。Tさんは性格も良く、真面目で仕事もテキパキと出来ておりました。貪欲(どんよく)なまでの達成意欲と前向きさには驚かされました。しかし、あと一つ何かが足らなかったのであります。


 彼を育てるために、重点病院のK大学医学部付属病院を担当させました。I教授と意思疎通(いしそつう)もはかれ、徐々に頭角(とうかく)を現(あらわ)してきました。そして、四年目に入り、まだまだ、教えなければいけないことも沢山ありました。


 まず、「スマートな営業」とはいかなるものか。これを彼に伝授しないと営業の極意を理解することは難しいのであります。営業とは売り上げを上げ続けなければいけません。しかし、そうは言っても何が何でも、人のものまで取って来いということではありません。「敵(てき)に塩(しお)を送(おく)る」という有名なことわざがございます。売り上げを上げるために、敵をも味方(みかた)に付けることを考えないといけないのです。


 敵に対し自分が持っている情報(じょうほう)を少しでも提供(ていきょう)することで親しくなることができます。そういうスケールの大きい人間を目指すことが重要なのであります。敵ではありますが、協力してドクターを攻略(こうりゃく)することです。そうすることで敵に恩(おん)を売ることができるのです。そして、逆に信頼関係(しんらいかんけい)ができ情報をくれるようになるのです。


 現代社会は情報合戦です。情報が無ければ、売り上げは上げられません。まだ、Tさんは若いから、売り上げを上げることしか考えられないけれども、この「スマートな営業」を修得(しゅうとく)することが、成長する上でとても重要なことなのです。


 私たち人間は、仲良くなることで、相手の長所や短所を見抜くことができます。たとえ、商売敵(しょうばいがたき)でも仲良くすれば、相手の弱点は見えて参ります。売り上げを上げ続けるためには、相手の弱点を粛々(しゅくしゅく)と攻(せ)め込(こ)めば良いのです。必ず、売り上げは右肩上(みぎかたあ)がりになります。


 仕事で今まで、やることなすことすべて上手(うま)くいかない人は、考え方を変えることです。世の中には正しいやり方があると思い込んでいる人は多いようです。しかし、そうではありません。上手くいかない時は、逆転(ぎゃくてん)の発想(はっそう)が必要なのです。世の中、臨機応変(りんきおうへん)に生きることが良いのです。「なるようになれ」という大きな気持ちで大胆に取り組めば、売り上げも上がるし事業も成功することでしょう。


 お釈迦さまは、人間の苦しみ、悩みは、人間が勝手(かって)に作ったものであると説かれました。しかし、悩(なや)んだり心配している人にとって、その悩みは実際に発生している大変な問題であり、決して自分自身が作り出したものとは思わないのであります。


 例えば、子どもが非行(ひこう)に走っているために、悩(なや)んで悩んで悩み疲れて、体調を崩(くず)している人にとっては、「子どもの非行」という「事実(じじつ)」がありますから、自分の悩みが主観的(しゅかんてき)な妄想(もうそう)から生まれたものであるとは思えないのです。


 人間の悩みは大ざっぱに言うと、二種類あります。一つは、客観的(きゃっかんてき)、具体的(ぐたいてき)に把握(はあく)できそうな問題です。例えば、家族の問題、仕事の問題、経済的な問題、人間関係、身体や病気の問題などです。二つ目は、主観的(しゅかんてき)な自分の性格から現れる問題です。例えば、消極性(しょうきょくせい)、弱気(よわき)、完全主義、激(はげ)しい好(す)き嫌(きら)い、利己的(りこてき)な性格などです。このような性格の人は実際の社会に入ってみると、現実(げんじつ)はいつも自分の性格とは合わないことに気づいて悩みます。


 二つの悩みのうち、一番目の悩みについて考えますと、前段(ぜんだん)にありますように、子どもが非行(ひこう)に走れば、悩むのは当たり前のことです。経済的に厳(きび)しい状況に追い込まれた時も、誰かが重病(じゅうびょう)になった時も、すぐ悩みます。それらの場合は具体的な悩む対象があります。私たちは、その問題(もんだい)さえ解決(かいけつ)すれば悩(なや)まないで済むのにと思ってしまいます。しかし、解決できる問題と、解決方法が無い問題とがあるのです。


 解決できる問題であるならば、それを解決すれば悩むことが消えて喜びを感じます。本当に悩むのは、自分にはどうすることもできない問題なのです。しかし、その場合は、いくら悩んでも終わりはなく、結局、自分自身の人生を駄目(だめ)にしてしまうだけなのです。従って、どうすることもできない問題については、全く悩む必要はないのです。


 例えば、身内が不治(ふじ)の病(やまい)になったり、自分の親しい誰かが亡くなったり、子どもたちが自分の希望と全く別の道を歩んだとしても、解決方法(かいけつほうほう)は全くありません。自分が死ぬまで悩んでいてもどうすることもできないのです。それならすぐに悩むことをやめて明るくなった方が良いのです。解決方法がない問題については、ごく普通の自然現象(しぜんげんしょう)だと思うことです。


 私たちが悩まされているもろもろの問題について、明確(めいかく)に具体的に観(み)ようとしないからです。解決方法があるかないか、はっきりと判断すべきです。解決方法があっても、それは実行可能(じっこうかのう)か不可能(ふかのう)かを明確にするべきです。解決方法がない問題や、理想的(りそうてき)な解決方法があっても実行不可能な問題についても、どちらも解決できない問題として理解して諦(あきら)めるべきです。


 諦(あきら)めるということは大変なことです。消極的(しょうきょくてき)に問題(もんだい)から逃げるのではなくて、問題を理解して諦めることは、積極的(せっきょくてき)な行動なのです。また、解決方法のある問題については、積極的に解決する努力をすることです。そうすると、どんな具体的(ぐたいてき)な問題についても、悩むことはなくなります。


 しかし、人間には諦(あきら)めきれないという弱点があります。例えば、子どものことで悩む母親は、育て方を間違えた、もっと優しくしてあげたら良かった、子どもを甘やかせすぎた、などと考えて苦しむ。会社が倒産(とうさん)した時も、ああすれば良かった、こうしなければ良かった、と考えて悩み苦しむのです。しかし、必要なのは、解決方法があるかないかを理解して積極的(せっきょくてき)に諦(あきら)めることがとても重要なのです。


 仏教が目指している生き方とは、人間として、より正しい生き方をするために努力すること、また、性格の未熟(みじゅく)なところを直して、より高度(こうど)な人格(じんかく)を作ることです。より深い知識を得るだけでなく、物事(ものごと)のありのままの姿(すがた)を理解(りかい)する智慧(ちえ)を育てることです。このような目的を目指して努力(どりょく)をすることなのです。


 仏教界でよく使う言葉に「解脱(げだつ)」があります。それは、人格(じんかく)を完成(かんせい)してこころの汚(よご)れを完全に断ち切って、生きる目的に到達(とうたつ)した状態を意味します。輪廻転生(りんねてんしょう)という概念(がいねん)が、基本的に仏教の中にありますから、生きているということは、この人生に限るものではないのです。永遠の過去から生と死を繰り返しているのです。生きる目的を達成しない限り、生と死の循環は終わらないと言います。人は愚か者でいる限りは、この循環(じゅんかん)から抜け出せません。本当に意味での賢者(けんじゃ)になったということは、この循環(じゅんかん)から抜け出したということです。


 私たちの生きる目的は、生と死の循環を限りなく続けることでなく、その循環から脱出(だっしゅつ)することです。それには、正しい生き方と智慧(ちえ)が必要なのです。


 輪廻(りんね)の中にいる一切衆生(いっさいしゅじょう)というのは、不完全(ふかんぜん)で間違(まちが)いだらけです。本来、愚(おろ)か者(もの)だから仕方がないのです。しかし、そのままの状態に納得(なっとく)して、どうしようもないと諦(あきら)めれば、苦しみから脱出することは不可能となります。お釈迦さまの教えは、愚(おろか)か者(もの)の状態から賢者(けんじゃ)の位置に達するまでの方法なのです。その教えを実践(じっせん)するということは、気長(きなが)に一歩ずつ取り組んで、智慧(ちえ)の完成(かんせい)を目指(めざ)すことです。すぐ成功するということは、自然(しぜん)の法則(ほうそく)としても有(あ)り得(え)ないことです。失敗しても落ち込むことなく、前向(まえむ)きに努力しなくてはならないのです。


 どんな生き方をする人間でも、自分が正しいという無意識的(むいしきてき)な立場で生きています。自分が正しいと思わなければ、何もすることができません。何か行動する場合に、本当にいけない、間違(まちが)っているとわかると、そのことはできなくなります。周(まわ)りから見て、いけない生き方、悪い性格、誤(あやま)った行動として見えるものも、それをしている人にとってはそうは思わないものです。たとえ本人が自分の行動を常識(じょうしき)ではいけないと知っていても、それが正しいと無意識(むいしき)では思っているので、そのような行動をします。


 自分が正しいと思っていることは、すべての生命にとって、厄介(やっかい)な問題(もんだい)です。自分が正しいと思わない限り、何もすることはできません。活発(かっぱつ)で生き生きと明るく生きるためには、自分が正しいという無意識(むいしき)に植(う)えつけられた確実(かくじつ)な自信が必要です。しかし、また逆に、自分が正しいと決めつけてしまったら、それですべての成長(せいちょう)、進歩(しんぽ)が止まります。強情(ごうじょう)な性格になりかねません。


 従って、自分が正しいという感覚(かんかく)は、決してあってはならないものです。私たちの主観的(しゅかんてき)な立場で正しいと思っても、それがその通りかどうか判断(はんだん)できる基準(きじゅん)はありません。自分の行動に自信が持てない場合は、普通は世間の常識的(じょうしきてき)な判断に委(ゆだ)ねることしか他に方法はありません。自分が正しいという思いは、あってはいけない、しかもなくてはならないことです。非常に難(むずか)しい問題(もんだい)です。


 仏教の立場から考えると、人間は不完全(ふかんぜん)ですから、自分が正しいという思いは間違(まちが)いなのです。自分が正しいと確認(かくにん)できるような根拠(こんきょ)は何もありません。私たちの行動(こうどう)は、立場によって正しくなる場合も正しくならない場合もあります。


 仏教が教えていることは、より正しい人間になるために、人格(じんかく)を完成(かんせい)するために、智慧(ちえ)を得(え)るために前向きに努力することです。自分が正しくないと理解(りかい)することは、決して未来の生き方の妨(さまた)げにはなりません。逆にそういう人こそやらなくてはならないことが多く、元気で明るく活発(かっぱつ)になれるのです。日々の生き方が徐々に人格(じんかく)を向上(こうじょう)させ、充実感(じゅうじつかん)に満ち溢(あふ)れてゆきます。


 知識(ちしき)を得るためにも、智慧(ちえ)が現(あらわ)れるためにも、自分が不完全(ふかんぜん)であるという理解(りかい)が土台(どだい)なのです。無知(むち)な人で、愚(おろ)か者(もの)でありながら、それに決して気づかない人は自分が成長したいという望(のぞ)みはもちません。その人の人生は、間違いばかりで無知で終わってしまいます。そうなれば、輪廻(りんね)の循環(じゅんかん)を脱出(だっしゅつ)できるどころか、人間としても成功することは不可能でしょう。しかし、人間は不完全であるということに気づいている人は、それによって賢者(けんじゃ)の道を歩むでしょう。仏教は、日々、人格完成(じんかくかんせい)を目指して生きることの大切さを教えているのであります。


 教祖・杉山辰子先生は貪(どん)〔欲(よく)〕・瞋(じん)〔怒(いか)り〕・痴(ち)〔愚痴(ぐち)〕の三毒(さんどく)は三悪道(さんあくどう)へ通(つう)ずると仰(おお)せです。三毒でも貪欲(どんよく)が一番悪いと仰せです。人間には欲(よく)があるから怒(いか)りが生じる。欲さえコントロールできれば三毒も減り、こころが少しずつ浄化(じょうか)されます。そして、妙法を信じて、信じて、信心(しんじん)してゆく中で『妙法蓮華経』の五文字を唱(とな)える時に大きな功徳(くどく)があるのです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰せです。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)が消滅(しょうめつ)してゆくのです。


 教祖さまは、私たちに、お手本をお示しして頂いているのです。本日より、私たちは教祖さまを見習い妙法広宣流布(みょうほうこうせんるふ)に邁進(まいしん)してゆくことが大事であります。


 お釈迦さまは諸行無常(しょぎょうむじょう)を説かれました。この世の中のすべては毎日変化しているのです。私たちも毎日変化しております。変化して変わってゆくということは、まず、こころを育てて、自分の人格(じんかく)を高(たか)める努力(どりょく)をすることです。日々のご精進(しょうじん)により『すばらしき人生』へと変えてゆく努力がとても大事なのであります。


合 掌


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