旧暦(きゅうれき)で十月を神無月(かんなづき)と申しまして、出雲(いずも)の出雲大社に全国の神様が集まって一年のことを話し合うため、出雲以外には神様がいなくなる月という意味で「神無月」と言われております。そんな民間語源(みんかんごげん)であるとも言われております。
十月といえばスポーツの季節です。ランニングやウォーキングで汗をかくのもいいですね。また、旅行や観光(かんこう)にも最適です。大いに身体を動かし、大いに良い文化に触れ、大いに楽しむことが大切です。
秋の味覚は美味(おい)しいものばかりです。食べ過ぎにはご注意頂きたいと思います。「腹八分目に医者いらず」と言います。健康には留意(りゅうい)し健康寿命(けんこうじゅみょう)を延(の)ばすことが重要です。
先般の秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭には多くの信者の皆さまにお参りを頂き、ありがとうございました。そして、来月は法公会立教四十五年祭を開催いたします。順次(じゅんじ)、お餅のご寄付も受け付けさせております。どうかご協力の程、宜しくお願い申し上げます。
さて、私がサラリーマンで四国を担当した時のことです。四国は三年半勤務しました。支店は高松の美術館通(びじゅつかんどお)りにありましたので、源平(げんぺい)合戦で有名な屋島(やしま)に程近(ほどちか)い場所に住みました。徳島の阿波踊(あわおど)りや高知のよさこい祭りを始め、夏目漱石が愛した道後温泉(どうごおんせん)、「二十四の瞳」で有名な小豆島(しょうどしま)を観て参りました。
四国四県には大学病院(だいがくびょういん)が各県に一つあります。入社五年目の中堅(ちゅうけん)MR〔営業〕のYさんは、K医科大学(いかだいがく)付属病院を担当しておりました。彼は京都の有名国立大学を卒業されました。学業成績は優秀で非(ひ)の打(う)ちどころの無い人でした。仕事面ではよく頑張(がんば)っていたと思います。仕事、接待(せったい)ゴルフ、接待飲食(せったいいんしょく)なども卒(そつ)なくできておりました。先生との会話も問題なくできていたと思っておりました。
ただ、以前より気になっていたことがあるのですが、彼は自信過剰(じしんかじょう)な側面(そくめん)があり自分ほど優秀(ゆうしゅう)な人間はいないという思い込みが強かったように感じました。先生との会話でも一見(いっけん)、懇意(こんい)にされているように見えますが、反面、先生が遠慮(えんりょ)しているようにも見えました。京都の有名大卒の彼と先生は大阪の有名大卒ではどうしても引け目を感じてしまうのでしょうか。私の眼には、先生から勉強させて頂くというより、逆に指導(しどう)しているように映(うつ)ったのです。
故事(こじ)ことわざで「能(のう)ある鷹(たか)は爪(つめ)を隠(かく)す」と云うじゃありませんか。才能や実力のある者は、軽々しくそれを見せつけるようなことはしないというたとえです。
しかし、彼はそこのところが十分理解(りかい)できなかったのでしょう。これはまさに、増上慢(ぞうじょうまん)の典型(てんけい)です。自分が何より一番だと思う気持ちを出してしまったら仕事になりません。事実、彼は、学業も優秀で、いろんなこともでき、自分ほど素晴らしい人間はいないと思ったに違いありません。これは自信過剰(じしんかじょう)がもたらす問題なのです。
それと、この問題とは別に、夫婦で同じ支店勤務をしておりました。私が赴任(ふにん)する前に奥さんは、すでに産休に入っておりました。そして、一年もの育児休暇(いくじきゅうか)を済ませ現場復帰(げんばふっき)が近づいてきた時、彼女の座(すわ)る椅子(いす)が無かったのです。
会社の組織(そしき)が変わり、上司も変わり、人員も削減(さくげん)され、そんな現場に復帰(ふっき)できる場所などないのです。結局、彼ら夫婦はそれが原因(げんいん)で退職(たいしょく)することになりました。私たち会社側の方針(ほうしん)が納得(なっとく)できないということを強く非難(ひなん)して去って行ったのです。
後で聞いた話ですが、前任の支店長が口約束(くちやくそく)で了解(りょうかい)していたのでした。私は、全く聞いておらず、まさに「寝耳(ねみみ)に水」ということでした。組織の変化は常にあることだということを肝(きも)に銘じておかなければ厳(きび)しい世の中では生き残れないということです。
なにより、驕(おご)りや高慢(こうまん)は必ず身を滅(ほろぼ)ぼします。私たちは、常日頃から謙虚(けんきょ)に生きることを目指さないといけません。謙虚に生きるから上手(うま)くいく。謙虚に生きるから信頼(しんらい)ができる。謙虚に生きるから成功(せいこう)する。すべては謙虚(けんきょ)さから生まれる感謝(かんしゃ)の気持ちが自分を高めてくれる唯一(ゆいいつ)の道(みち)であるということを忘れてはならないのです。
お釈迦さまは、行動(こうどう)が正しければ苦しみは生まれないと言われます。人間はそもそも無知(むち)であることを知らなければいけません。お釈迦さまから見ればすべての人間は無知そのものなのです。従って、人生を無知なまま終わらせないためにはどうしたらよいか考えなくてはいけません。
無知(むち)な人は結構頑固(けっこうがんこ)な人が多いようです。自分が物事をよく知っていると思っております。自分が持っている考え方と違(ちが)った考え方を聞くと、それを頭(あたま)から否定(ひてい)します。そうするとその人の性格は永遠に変わることがないのでしょう。
しかし、「これは絶対(ぜったい)に正しい」と決めつけることなく、こころの窓(まど)をいつでも開いておけば、毎日、毎日、智慧(ちえ)がどんどん成長(せいちょう)してゆきます。無知(むち)は人は新しい考え方を取り入れることを怖(こわ)がります。自分の知識(ちしき)だけに満足(まんぞく)し、安心して生きていたいのです。このようにして、死ぬまで「愚(おろ)か者(もの)」でいるのです。
社会のさまざまな変化(へんか)や新しいものをすぐに批判(ひはん)したり反対したがる人々も結構(けっこう)いますが、そのことが単に変化についていけないことが原因であるならば、それも「愚か者」の頑固(がんこ)さといえます。
ただ安心(あんしん)して生きていたいために、無知は人は自分の知識に満足しますが、無知を変えて「賢者(けんじゃ)」になりたい人は、こころを柔軟(じゅうなん)にして真理(しんり)を求めることです。そうであるならば、確実(かくじつ)に智慧(ちえ)の道(みち)を歩めるのです。そのような性格を持っている人こそ、智慧のある人と言えるのです。
お釈迦さまは、「真理(しんり)を知る」という言葉で、悟(さと)りの体験(たいけん)を表しておられます。わずかな教(おし)えでも良く理解(りかい)すれば、智慧(ちえ)が現れて悟りが開(ひら)けます。しかし、特に仏教は、いくら勉強しても、それだけで知識(ちしき)は増えるかもしれませんが、性格が直ることはありません。従って、苦しみを乗(の)り越(こ)えることはできないのであります。
お釈迦さまの教えを勉強はするけれど、それを実践(じっせん)してみようというところまでは気持ちが向かない場合が多いようです。つまり、自分が今まで持っていた既存(きぞん)の知識(ちしき)に当てはめて考えてみたり、似(に)ているものだけを受け入れたりします。しかし、それは一概(いちがい)に悪いこととは言えませんが、その人は、お釈迦さまの教えから何も得られていないのと同じことです。
知識(ちしき)の豊富(ほうふ)な人は、新しい概念(がいねん)などにはすぐに信じようとしません。今までの知識とよく比較(ひかく)し、いろんな角度からそれを調べたり考えたりします。結局は何も決められない結果になることもあります。
そして、そういう人は実践(じっせん)ということは、あまり考えないのであります。このような性格(せいかく)の人も、お釈迦さまの立場から見れば「愚(おろ)か者(もの)」なのです。本当は、真理(しんり)を体験(たいけん)して幸福を掴(つか)むことがとても大事なことなのです。
本来、人間は無知(むち)であるから仕方がないと思いますが、無知なる人には、自分の生き方や行動が正しいのかどうかわからないのです。人の行動は貧(どん)・瞋(じん)・痴(ち)〔貪(むさぼ)りと怒(いか)りと愚痴(ぐち)〕に基(もと)づいていますから、人が正しいと考えて行っている行動のほとんどが、不善(ふぜん)な行動になってしまいます。不善な行動は不幸な結果を生み出します。
私たち人間は、人生は幸福だ、何とか努力(どりょく)すればもっと幸福になれるはずだと自分に言い聞かせて、潜在的(せんざいてき)なこころの本当の状態をまったく見ようとしません。それは自分をごまかすことだと言えます。事実(じじつ)から逃(に)げることにもなります。いくらごまかして生きていても、生きている者の苦しみはなくなりません。
人間は自分をアピールしたい、自己主張(じこしゅちょう)したい、自分の個性(こせい)を認(みとめ)めて欲(ほ)しいという気持ちは、よくあることです。謙虚(けんきょ)にひそかに生活していては、なかなか人に認めてもらえないという事実もあります。それで認めてもらうために、いろいろ工夫(くふう)をします。するとそこに問題が発生するのです。
なぜそんなに認(みと)めてもらいたいと思うのかというと、それは、おそらく自分自身の生き方に何か不満(ふまん)があるからなのでしょう。こころの中に何か空洞(くうどう)があるのではないでしょうか。自分自身の生き方に充実感(じゅうじつかん)を感じている人は、認めてもらうか、もらわないかということは気にしないものです。
不満(ふまん)を感じている人こそ自己主張(じこしゅちょう)のために、自分をアピールするために努力をします。より大きな自分を作りだし、大きく見せることで自分を作らなければならなくなります。その人の生き方は不自由(ふじゆう)なものになってしまいます。自己主張したがる人は、「愚(おろ)か者(もの)」の性格(せいかく)であることを理解(りかい)しないといけません。
人は知識(ちしき)を得(え)ようと、努力(どりょく)します。人間は、知識を生(い)き永(なが)らえる道具(どうぐ)として持っている生(い)き物(もの)ですから、それは当然のことです。高慢(こうまん)ではなく、余計(よけい)な欲(よく)もなく、ただ幸福に生きるために知識を求めることは、それほど問題にはなりません。しかし、人々は高慢(こうまん)、限りない欲(よく)、見栄(みえ)、名誉(めいよ)、権力(けんりょく)、社会的地位(しゃかいてきちい)を確立(かくりつ)すること、そういう目的のために知識を得ようとするのも事実(じじつ)です。これらの人は人間本来の愚(おろ)かさを無視(むし)しております。何でもできると勘違(かんちが)いしているのです。
たとえ、博学(はくがく)であっても悪人(あくにん)の行動は、自分にも他人にも不幸を招くことは明白(めいはく)です。一方、私たちは、法律(ほうりつ)を犯(おか)すこともなく、道徳(どうとく)や常識(じょうしき)の範囲(はんい)で生きてゆこうと努力しております。その結果として私たちは、平和な社会の物質的(ぶっしつてき)な豊(ゆた)かさの中にいられます。それは感謝すべき事実ですが、一歩進んだ考え方をすると、世界は平和ではありません。人類がすべて豊(ゆた)かでもありません。豊かな国々の中でも、生きるということは大変なことです。大自然も破壊(はかい)されてゆきます。医学(いがく)を発展(はってん)させても不治(ふじ)の病(やまい)は依然(いぜん)として無くなりません。そのうえで、幸福であるが故に現れる精神的(せいしんてき)な苦しみも身体的(しんたいてき)な病(やまい)も次から次へと生まれます。本来、結果が悪ければその行動は正しくないのです。
その理屈(りくつ)から考えますと、道徳的(どうとくてき)な普通の人間に生き方についても、問われなければならないと思います。「現代人が必死で進んでいるこの道は、本当にこれは正しいのか」と。検討(けんとう)されなければいけない大事な問題です。
私たちは、悩(なや)むことなく、困(こま)ることもなく、ストレスもためることなく、幸福に生きることがどれだけ難(むずか)しいか、事実上、至難(しなん)な業(わざ)です。なぜならば、一切の行動は貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)に基(もと)づいているからです。しかし、私たちが、本当に自分のため、他人のために生きるという「無知(むち)でない」生き方を選択(せんたく)するならば良い結果となり、幸福な人生へとなるでしょう。
簡単に言えば、頑固(がんこ)なこころの代わりに柔軟(じゅうなん)なこころを持ち、智慧(ちえ)が現れる方向へと進むことです。そうすれば智慧(ちえ)が現(あらわ)れ悟(さと)りを開(ひら)けるのであります。
教祖・杉山辰子先生は、妙法を信じて、信じて、信心してゆく中で、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えると大きな功徳(くどく)があると仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できるのです。
そして、何より『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が大事であります。自らが率先(そっせん)し行うことです。そして、大確信(だいかくしん)をもっての供養(くよう)は必ずそれ以上の福徳(ふくとく)があります。
私たちも、法華経を深く信じて、こころを込めた真(しん)の供養(くよう)に目覚めないといけません。真の供養は嘘(うそ)をつきません。必ず私たちを守って下さいます。これからも努力精進(しょうじん)して妙法を信心(しんじん)してゆくことが『すばらしき人生』へと高めてくれるのです。
合 掌