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世界平和を
大樹
すばらしき人生71

旧暦で十一月を霜月(しもつき)と呼んでおりました。文字通り霜(しも)の降る月だそうです。徐々に冬へと季節が移り変わって参ります。地球温暖化の影響でしょうか、最近では十一月に霜の降りている風景は目にしたことがありません。


 今年を振り返って見れば、夏は猛暑(もうしょ)と台風による豪雨(ごうう)で土砂災害や浸水(しんすい)、暴風(ぼうふう)による建物の倒壊(とうかい)が各地でおき大変な状況でありました。また予測できないのが地震です。北海道は台風と地震のダブルパンチで悲惨な状況となりました。全国で被害に遭われた方々へお見舞い申し上げます。


 これから私たちは、南海(なんかい)トラフという大規模な地震や大型台風、そして竜巻(たつまき)やゲリラ豪雨(ごうう)などに備え、自分の身体を守ることを真剣に考えないといけません。このような災害を「対岸(たいがん)の火事(かじ)」と思わないよう用心されることを望みます。


 先般は、秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭にお参りを頂き有難うございました。今月は、立教四十五年祭を開催いたします。餅投(もちな)げを始め和太鼓(わだいこ)や落語(らくご)を存分に楽しんで頂きたいと思っております。どうか、多くの信者の皆さまのご参詣をお待ちしております。


 私がサラリーマンであった時のことです。人生には大きな岐路(きろ)がいくつかあると言われております。私は、平成二年に転職(てんしょく)という転機(てんき)が訪れました。医薬品流通業から製薬会社に就職をしたのであります。齢(よわい)、三十四歳で子供が二歳弱でした。まさに崖(がけ)っぷちでした。


 今までの仕事と関連はありますが、活動内容は全く違います。流通業の時は医薬品の製品の価格を決めて納入することで、おもに病院の薬剤部が中心でした。しかし、製薬会社では自社製品の特長(とくちょう)を深く理解(りかい)し、メリットをドクターに宣伝しなければなりません。医局が中心ですが、薬剤部や看護部や栄養士の先生方にも幅広く活動させて頂くこととなりました。


 私自身の環境(かんきょう)が変わるということが自分にとって大きな重圧(じゅうあつ)を感じながら、本当にこの会社で成功するだろうかと心配しておりました。まずは、早く仕事を覚(おぼ)えないといけません。とにかく早く一人前になることを目指(めざ)しました。


 それには人一倍勉強し努力することが大事です。長年(ながねん)やってこられたベテランの方でも胡座(あぐら)をかいていたら、いつでも足元(あしもと)をすくわれるこのご時世だから本気を出すことが重要なのです。努力は嘘(うそ)をつきません。努力した結果が仮に失敗してもそこから学べば必ず成功へと導(みちび)いてくれるのです。


 従って、人間はどんな仕事にせよ本気でやればできないことはないと思います。どんなことでも本気でチャレンジすれば必ず成就(じょうじゅ)すると確信(かくしん)しております。そして、常に六感(ろっかん)を磨(みが)くことです。自分を信じることです。そのうえで自分の力を百パーセント出し切ればよいのです。六感とは視覚(しかく)、聴覚(ちょうかく)、触覚(しょっかく)、味覚(みかく)、嗅覚(きゅうかく)の五感と第六感の直感(ちょっかん)です。この直感を磨くことがとても重要なのです。


 直感を磨くということは分かりにくいですが、自分自身の感受性(かんじゅせい)を高め、こころのアンテナを広げることです。そして、色んなことに興味(きょうみ)を持ち前向(まえむ)きに捉(とら)えることです。そのうえでタイミングよく決断(けつだん)することです。そうすれば必ず直感を養(やしな)うことができます。


 そもそも私が製薬会社に入ったきっかけはI君との出会(であ)いです。縁(えん)というものは不思議(ふしぎ)なものであります。後輩(こうはい)のI君は、すでにこの製薬会社に転職(てんしょく)しており、偶然(ぐうぜん)ある病院の薬剤部で、たまたま会(あ)ってしまったのです。そこで今の会社の条件を聞いたら驚(おどろ)くほど好条件(こうじょうけん)なので転職することを決めました。


 誰でも公平にチャンスというものはあります。しかし、チャンスをチャンスとして受け止めることができなければ無いのと同じことです。I君を通して会社の上司に話をしてもらい、後日、面接(めんせつ)があり採用となりました。私が、不思議に思うことは、偶然(ぐうぜん)出会ったと考えるより必然(ひつぜん)であったと思う方が合理的(ごうりてき)です。とにかく、良い縁に触れたことに大いに感謝しております。


 お釈迦さまは、人格(じんかく)と性格(せいかく)は変えられると説かれました。私たち人間にとって、どんな環境(かんきょう)で育てられ、どんな環境で生きているかということが非常に重要となってまいります。それは、その人の人生そのものを形づくり形成(けいせい)するものだからなのです。生まれてから死ぬまで、人は生きている環境から色んなことを学びます。


 人格というものは、結局、自分の育てられた環境(かんきょう)から学んだもので、できあがっていきます。環境から学んだものと、環境の影響(えいきょう)とを調整(ちょうせい)して自分の人格を作りだします。年を重ねて、どうにもならなくなるまで、人間は環境の影響を受け、人格も変え続けます。


 他人に対して、人格が良いとか悪いとか、性格が良いとか悪いとか、決めつけたくなりますが、それはそういうふうに決めつけることはできません。人は人格も性格も徐々に変わっていくものですから、今は良い人も後(のち)になって悪くなるかもしれません。また、今悪い人も後になって良くなる可能性(かのうせい)もあります。


 人とつき合う時も、社会の中で生活する時も、人の人格や性格というものは、それほど固定(こてい)されていないものです。相手の性格を決めつけると、かえって精神的(せいしんてき)な負担にもなります。とは言っても、人格や性格というものは、固定しているように感じられてしまうものです。それには理由があります。


 環境(かんきょう)は、そこから学ぶものと影響(えいきょう)を受けるものと、二つに分けて考えなければなりません。生まれた時は、この世の中のことは何も知りません。大切に守られた環境の中で育てられます。そして、大人になるまで、環境から色んなことを学んでいきます。


 環境から受ける影響は受動的(じゅどうてき)で、環境から学ぶものは能動的(のうどうてき)で大変多いのです。この学ぶものによって、個人の人格や性格の基本的な構成(こうせい)がしっかりと作られます。その後の環境からの学び方も、影響の受け方も、その基本的な人格構成(じんかくこうせい)によって変わります。ですから、人格は固定しているように見えてしまいます。


 精神的(せいしんてき)に独立(どくりつ)してからも、環境(かんきょう)によって人格も性格も変わっていきます。しかし、それはとてもゆっくり徐々(じょじょ)に起(お)こる現象(げんしょう)です。従って、人の性格が変わらないものだと思ってしまうのも無理はないのです。


 精神的に独立するまで、人が生きている環境は非常に大切です。理想的(りそうてき)に考えれば、すばらしい環境で育てられたならば、大人になって環境から受ける影響もすべてプラスの方向に受け止めることができます。仏教では人が育てられる環境というものは非常に大切なものと考えられております。


 人のこころは環境(かんきょう)から影響(えいきょう)を受けて育つようにできております。影響を受けずにこころを守ることはできません。たとえ動物であっても、人間とつき合うと、それなりに性格が変わることは事実です。私たちは、教えられなくても、生まれた瞬間から、できることはありますが、基本的なことについてでさえ、後でいろいろなことを教えてもらい学ぶのではないでしょうか。


 結局、人間の人生はすべて教えてもらうものであると理解したほうが良いのです。私たちにとって、育てられる環境、また影響を受ける環境はとても大事なことなのです。


 子供の時に良い環境を作ってあげることも大切であり、大人になってからも良い環境の中で生きるべきであることも明白(めいはく)です。ただ問題は、何が良いか、何が悪いかということですが、良い環境というのは、人が幸せになる道で、人が不幸になる道は、きっと悪い環境だといえます。環境というのは自分の意志で変えることができます。従って、良い環境(かんきょう)を選択(せんたく)すれば必ず明るい未来へと通(つう)じてゆきます。


 進歩(しんぽ)・発展(はってん)という言葉は、どんな時代にあっても人間の好きな言葉です。進歩しよう、発展しようと努力して、私たちは文化というものを作ってきました。人は誰でも、昔よりは現代の方が進歩していると誇(ほこ)りに思っています。しかし、この社会の進歩というのは、本当に私たちが誇(ほこ)れるものなのでしょうか。


 まず、私たちはなぜ進歩したがるのかを考えてみましょう。最初に考えられることは、新しい世代の人々が今の環境(かんきょう)に飽(あ)きてしまうということです。飽きたから進歩したい人にとっては、質的(しつてき)な進歩でなくても、何かが変わればそれで十分なのです。


 例えば、食べ物を見ても、よりおいしく、より楽しく食べられるように食文化は変化してきました。その食べ物は結局、徐々(じょじょ)に身体(からだ)に悪いものになってゆく傾向(けいこう)もあります。


 そして、次に考えられるのは、楽をしようとしての進歩です。新しい世代から見ると、生きるための苦労(くろう)を嫌(きら)い、どうすれば楽になれるかと考えて、その方向へと社会を変えてゆきます。私たちの科学文化・発明文化はそのようにして生まれてきました。


 この進歩の目的は楽に生きることです。この目的で進歩すると、ただ楽であればそれでいいと考え、それによってどんな危険(きけん)が生まれるかということは気にしません。今、私たちが悩(なや)まされているあらゆる汚染(おせん)の問題(もんだい)や自然破壊(しぜんはかい)などはその結果です。また、遺伝子工学的(いでんしこうがくてき)な農業や生物学、医学などが今後どんな結果を生むか、今は、誰にもわかりません。


 このように見てくると結論として言えるのは、進歩や発展というのは言葉だけであって、質的(しつてき)にはそういうものは見いだせないということです。


 仏教の智慧から社会の変化を考え直すと、違う側面(そくめん)が見えてきます。現状に飽きてしまうことにより変化すると、常に現状に飽(あ)きるので、きりがなく無限に変化を続けますが、満足は得られません。楽しければよいという変化であるならば、何のコントロールもなくなってしまいます。


 楽を目的にすると根底(こんてい)に見えるものは、いかに怠(なま)けるかということです。「怠(なま)ける」ための「努力(どりょく)」というのは相反(あいはん)することでもあり、楽に生きるための進歩は進歩とは言えず、ただの変化ということです。結局、社会にあるのは「進歩」ではなく「変化」だけなのです。


 社会にあるのは貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)の衝動(しょうどう)により起こる「変化」であって、「進歩」ではないというのが、仏教の考え方です。文字通りの進歩や発展は、社会の根源(こんげん)にある貪瞋痴(どんじんち)に打ち勝つことです。つまり、こころを成長させるために生きることなのです。


 楽をするために努力するという社会概念(しゃかいがいねん)は、一見(いっけん)正しいようで実は、「進歩」とは相反(あいはん)する「怠(なま)けたい」という衝動(しょうどう)に基(もと)づいていますから、逆に怠けようとするこころを育ててしまうのです。


 人間の「進歩・発展」を求めるこころは常に不満を感じております。物質的(ぶっしつてき)な発展は未だこころの不満(ふまん)を満たしてくれません。そして、このままではこころの不満は決して消えません。それは高度な智慧(ちえ)によって消してゆくしかないのです。


 楽をするために苦労するのではなく、本格的な安穏(あんのん)なこころを作る努力をすることです。仏教では「怠(なま)け」を決して認(みと)めません。代わりに絶(た)えず「精進(しょうじん)」しなくてはならないのです。放っておいても社会は変化しますが、こころは進歩しないので、こころの成長こそ本当の意味での社会の進歩・発展になるのです。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いついかなる時でも「妙法蓮華経」の五文字を唱えることが大事と仰せです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)できると仰せです。人生には苦(くる)しみ、悲(かな)しみ、辛(つら)いことが塵(ちり)のようにあります。それらは、私たちの悪業因縁(あくごういんねん)からくるものです。お釈迦さまが説かれた「因果(いんが)の二法(にほう)」なのです。すべて自分の蒔(ま)いた種(たね)なのです。


 教祖さまは、三徳(さんとく)、すなわち『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践(じっせん)がとても大事と仰(おお)せです。まず、慈悲とは慈(いつく)しみのこころを育てることです。誠とは八正道(はっしょうどう)の実践です。堪忍とはどんなことがあっても許(ゆる)すこころになることです。


 私たちは、教祖さまを良きお手本として、三徳の実践を積極的(せっきょくてき)に行なうことが大事であります。日々のご精進(しょうじん)で、ご自身の魂(たましい)を磨(みが)くことが『すばらしき人生』へと通(つう)ずるのではないでしょうか。


合 掌


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