PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生74

早いもので、もう一ヶ月が過ぎてしまいました。この二月は、まだまだ寒い日が続きますが体調を崩(くず)さないよう、ご自愛(じあい)下(くだ)さい。また、今年はインフルエンザの当たり年です。十分ご注意を頂きたいと思います。


 今年五月には今の皇太子さまが新天皇に即位(そくい)され元号(げんごう)も変わります。時代がどんどん移り変わって参ります。平成の時代は自然災害が猛威(もうい)を振(ふ)るい、ただただ、自然の力の大きさに驚(おどろ)かされました。日本の地図を見れば、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であり四つの島と細長い地形には、億年(おくねん)単位で形成された形であることがよく解かります。北海度の層雲峡(そううんきょう)や能登半島(のとはんとう)などの絶壁(ぜっぺき)を見ると、大きな地震(じしん)や地割(じわ)れでできたようにも思われます。


 人間の力ではどうにもならないほど非力であることを痛感(つうかん)します。しかし、このような自然災害(しぜんさいがい)はいろんな知恵(ちえ)を出せば必ず解決できる問題であると思います。皆さま一人ひとりの行動が、きっと周りの環境(かんきょう)を変えることに繋(つな)がってゆくと思っております。将来の子どもたちや未来の人類にとって、より良い環境になることを願っております。


 私がサラリーマンだった時のことです。部下のYさんとTさんの二人のことについてお話しさせて頂きます。年齢はYさんが二つ上です。入社五年目のYさんは京都の有名国立大学の出身で、Tさんは東京の私立大学の出身でした。高学歴(こうがくれき)と仕事とはあまり関係はないのですが、どちらも優秀(ゆうしゅう)な人材でした。


 性格はどちらも良くフットワークも軽快(けいかい)でした。ただYさんとTさんと比較すると違う点がありました。それは、我慢(がまん)できるかどうかという点と傲慢(ごうまん)なところです。法華経的には堪忍(かんにん)といいますが、Yさんは思ったことを何でもかんでも口にしないと気(き)が済(す)まない性分(しょうぶん)でした。そして、有名大学出身ということを鼻(はな)にかけた部分もありました。


 誰(だれ)しもYさんが将来幹部(かんぶ)として活躍(かつやく)されると思っておりました。Yさんは、社内恋愛(しゃないれんあい)をされ二年程前に結婚(けっこん)されました。いわゆる職場結婚(しょくばけっこん)ということです。彼らは、二人とも営業職(えいぎょうしょく)をしており第一子が誕生され一年間の産休(さんきゅう)に入られました。


 奥さんが産休から復帰(ふっき)する職務(しょくむ)を私の前任者(ぜんにんしゃ)と決めていたようでした。そこへ、たまたま私が転勤(てんきん)で後任(こうにん)を引き受けることになり、実は、その話が流れてしまったのです。そのことで彼らから逆恨(さかうら)みを受けてしまいました。


 会社では産休を一年間取っても良いという就業規則(しゅうぎょうきそく)がありました。一年まるまる休んで、復帰後は営業職(えいぎょうしょく)から事務職(じむしょく)というあまりにもずうずうしい考えでは、良くない事例(じれい)を作ってしまうことになります。私は営業職なら良いですと彼女に告(つ)げました。


 結局、彼女は営業職をしたくないという理由(りゆう)で退職(たいしょく)することになりました。そもそも、夫婦で同じ職場で働くというのは有り得ない状況なのです。会社というのは親子、兄弟などの採用はしないものです。彼らは、職場結婚(しょくばけっこん)であったため、同じ職場に復帰(ふっき)という状況でしたが、当然どちらかには異動(いどう)してもらうことになってしまいます。かえって、このような結果で良かったと思いました。


 Yさんのことを各病院の先生方と話をしても悪い部分は何も出てきませんでした。先生方もよほど性格が悪いか、怒(おこ)らせたという理由があるとすれば、いろいろ注文もありますが、極端(きょくたん)でなければ何も文句は言われません。ただ、どうしても彼の場合、上から目線的(めせんてき)な部分は先生方も肌(はだ)で感じていたのかもしれません。


 逆にTさんは、堪忍(かんにん)することができたのです。正直で謙虚(けんきょ)でないと人間は成長できないものです。大事なのは、やはり営業は聴(き)き上手(じょうず)でないといけません。彼は、とにかく人の話をよく聴きました。謙虚でないと人の話は聞けるものではありません。そして、いつも前向(まえむ)きに活動しておりました。そんな、彼の謙虚なところが大きく成長させるのです。


 Yさんと比べた場合、まだまだ未熟(みじゅく)な部分も多いのですが、伸(の)びしろが大きいということです。これからどんどん成長してくれる逸材(いつざい)になる可能性があるのです。人間にはもって生まれたものがありますが、殆(ほと)んど周りの影響(えいきょう)によるものです。育った環境や家族や友人などの影響により自分という人間が形成(けいせい)されるのです。


 また、人間には個体差(こたいさ)はありますが、Yさんはもうすでに伸びきっていて完成された状態なのです。ですから、今後の成長はあまり期待(きたい)できないのです。結局、Tさんは若いけれど出世コースという軌道(きどう)に乗ることができました。反対にYさんも奥さんと同様に会社を辞(や)めることになってしまったのです。


 成長している人間と成長が止まった人間では百八十度人生を変えてしまうものです。人生とは死ぬまで勉強です。常に自分を高めてゆくという精進(しょうじん)が必要なのです。


 さて、仏教的な観点(かんてん)から人間がなぜものを集めるかと考えてみると、「ためぐせ」というものには、精神的(せいしんてき)な原因があります。人間はいつでも不安です。ものをためる習慣(しゅうかん)は不安から生まれるものです。将来(しょうらい)が不安だからお金をためたり、仕事が不安だからしっかり勉強したり、生きる目的がないと不安だから趣味(しゅみ)を持ったりします。ものを持つこと、ためることは不安から生まれてきます。


 しかし、世の中のものは、何でも変化してゆきます。お釈迦さまは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を説(と)かれました。良いものも悪いものも、すべて移り変わって参ります。今お金があっても、それは無くなります。今健康であっても、いずれは病気にもなります。今仕事が順調にいっていても、先にはトラブルが起こる可能性もあります。でも、私たちは、そういう変化を望みません。しかし、望まないといって変化自体が止まるわけでもありません。


 そこで、次の瞬間(しゅんかん)には不安が生まれます。ですから、何かをためてその変化を止めようと努力(どりょく)します。事実(じじつ)としては、いくらためても変化を止めることはできないのです。ためても、ためても結局(けっきょく)は無駄(むだ)であるということです。自分の状態(じょうたい)を維持(いじ)しようと、ためる行為(こうい)を行うことは理解(りかい)できますが、人間の場合、ためることだけがひとり歩きをして、わけもなく、ものをためるようになっていることが問題(もんだい)なのです。


 ためるということは、ものに執着(しゅうちゃく)することです。人間の本質的(ほんしつてき)な部分に執着心(しゅうちゃくしん)があるからなのです。ためることがよくないから何でもかんでも捨(す)てろということではありません。本当に必要なものと、欲しいものを区別するべきなのですが、ためるという行為は自分を満足(まんぞく)させるための手段なのです。よく考えれば、それは、こころの弱い人間のすることなのです。


 「ためぐせ」は「無常(むじょう)」という真理(しんり)に逆(さか)らうこころの叫(さけ)びです。「無常」には逆らうことができないということを、こころが理解していないのです。「無常」に逆らっていくら努力しても、ものの変化を止めることはできません。


 どんなものでも、瞬間(しゅんかん)瞬間、変化して新しいものに変わってゆきますので、これはいいと手を止めて執着(しゅうちゃく)しておくべきものは、何ひとつありません。そのことが理解できれば、ものをためるという「ためぐせ」が消えてゆきます。


 ためても、ためたものは変化しますから、後で役に立つわけではありません。何か手にとってもいいと思うものがあるとしましょう。しかし、「いい」ということも、その時の自分の精神状態(せいしんじょうたい)や周りの環境(かんきょう)などによるものなのです。そういう時空関係(じくうかんけい)を変えれば、「いい」ということはありません。


 ここに一本のバラがあるとします。このバラは美しく大事であり価値(かち)があると思う感情(かんじょう)は、一時的に現(あらわ)れる現象(げんしょう)にすぎません。これが永遠(えいえん)にその価値を維持(いじ)できるかといえば、それはできません。


 私たちが生きている世界も私自身という存在も、その瞬間(しゅんかん)だけに現(あらわ)れる幻(まぼろし)であって、持っていくべき、守るべき、ためるべき、変化しない価値など一つもないのです。


 すべては「空(くう)」であり、実体(じったい)として変化しないものは何もありません。何ものにも、こころがとらわれない方が良い状態、不安の無い状態なのです。ものは無常(むじょう)であること、苦(く)または空(くう)であること。変化しない特色(とくしょく)や価値などないことを体験(たいけん)することが仏教実践(ぶっきょうじっせん)の大きな目的です。


 仏法は、たとえ悪人(あくにん)であろうとも、生命は平等(びょうどう)であり尊(とうと)いものだと説いております。すべての人に慈(いつく)しみのこころで接することの大切さを教えております。どんなに苦しいことや辛(つら)いことがあっても、最後(さいご)まで絶対(ぜったい)にあきらめないということも教えております。何か問題があった時には、私には、このような宿業(しゅくごう)があるのだと思い、その宿業打破(しゅくごうだは)をしない限(かぎ)り罪障(ざいしょう)は消滅(しょうめつ)できないのです。


 理想的(りそうてき)な人間とは、落(お)ち着(つ)きがあって常に平常心(へいじょうしん)を保つことができる人です。忙(いそが)しい時などは、落ち着きがなくなるものです。しかし、仏教は忙しい時も、暇(ひま)な時も落ち着きがないところから、いらだちが現(あらわ)れ、さらに自分を苦しめます。こころが苦しく体まで苦しむようになります。それで対人関係が悪くなり、他人にまで迷惑(めいわく)をかけたり苦しませたりします。


 私たちの妄想(もうそう)から生まれる苦しみ、悩(なや)みを解決(かいけつ)しようとする前に、まず落ち着いてみようと努力することが大事であります。冷静(れいせい)な思考(しこう)がよい方向へと導(みちび)いてくれるのです。


 私たちが目指(めざ)す悟(さと)りの境地(きょうち)とは、徹底的(てっていてき)に落ち着いていることです。そして、欲(よく)や怒(いか)りの悪いエネルギーは持たないことです。こころに欲があると、いろいろなことをしたがります。すべてを手に入れたくなります。そして、怒りがあると、いやなものをすべて壊(こわ)したり否定(ひてい)したくなります。両者とも、ただ感情(かんじょう)に流されているだけです。


 私たちは、「今の瞬間(しゅんかん)」を生きていると考え、ものごとを客観的(きゃっかんてき)にありのままに見ることが大事です。そうすれば、落ち着いて冷静(れいせい)な判断(はんだん)ができるし、感情に支配(しはい)されることなく生きられるのです。


 人間のこころというものは、常に悪い方向へと向かいがちですが、良い方向へ導(みちび)くためには、気が付いた時点(じてん)で直せば良いのです。私はもうだめだと諦(あきら)めるのは仏教的ではありません。駄目元(だめもと)と思い努力する必要があるのです。


 一方、世の中を見ると、社会的な目的のために諦(あきら)めずに努力(どりょく)する人々が見られますが、財産(ざいさん)や名誉(めいよ)のために一生をかけるなら、それは仏教的な立場から見れば無意味(むいみ)なことです。


 社会のどの立場(たちば)にいても、いくら知識(ちしき)が豊富(ほうふ)でも、有り余る財産があっても、こころが汚(よご)れていたら、その人の人生はなんの価値もないのです。清(きよ)らかなこころをつくることこそ、人間にとって唯一(ゆいいつ)の財産(ざいさん)となります。それを得(え)るために諦(あきら)めずに努力(どりょく)・精進(しょうじん)することです。


 人間は、長い人生の中で、いろいろなことをして生きております。しかし、人が行っているすべての行為は、ただ生きるためなのか、あるいは生きることを楽しむことだけです。死ぬ時は、このすべてはなんの意味もない、無意味なものとなります。ですから、生きるためとか楽しむためという目的を超え、人は、清(きよ)らかなこころをつくる、人格(じんかく)を向上(こうじょう)させるために善行為(ぜんこうい)を行うことが望(のぞ)ましいのです。まずは、こころを育てないと人格は高まりません。人格を高めるには、「慈(いつく)しみ」「おこらないこと」「精進(しょうじん)」この三つが基本です。常日頃から自己研鑽(じこけんさん)されることが、こころを「清らかできれいに」していく良い方法なのです。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えると、不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰(おお)せです。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができると仰(おお)せです。


 私たちには、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)をすることが大事であると教祖さまが仰せです。お釈迦さまも人格を高めるには三徳が基本であると教えております。そして、この教えを広めることが最も重要です。


 私たちが、法華経広宣流布(こうせんるふ)に邁進(まいしん)することが、自らを高めることに繋(つな)がります。人格(じんかく)を高めるために、自分のこころを清(きよ)らかにしてゆく努力(どりょく)と精進(しょうじん)が必要なのです。一歩一歩、確実に「すばらしき人生」へと歩むことを期待しております。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス