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世界平和を
大樹
すばらしき人生75

三月を旧暦(きゅうれき)で弥生(やよい)と申しまして由来は、草木がいよいよ生い茂る月が詰(つ)まって「やよひ」となったという説が有力であるようです。この時期は三寒四温(さんかんしおん)ということで寒い日が三日ほど続くと、そのあと四日ほど温暖(おんだん)な日が続き、また寒くなるというように七日周期で寒暖(かんだん)が繰り返されます。季節の変わり目ですので体調の維持には十分注意が必要です。


 昨年は三月に桜が開花し四月には葉桜(はざくら)になりました。年々、暖冬(だんとう)の傾向(けいこう)は強まっております。私が小学校の時、今から五十数年前、冬には雪が積(つ)もったものでした。小学校の校庭で雪合戦や雪だるまを作り楽しんで遊んだ記憶があります。今では積もることは殆(ほと)んどありません。非常に残念に思います。自然の力は大きいと感じております。人類は自然の法則には逆らえないのであります。


 先般は節分厄除祈願祭と釈尊涅槃会にお参りを頂き有難うございました。節分では信者の皆さまの厄払いをさせて頂きました。そして、今年一年が無病息災(むびょうそくさい)であることを祈念(きねん)させて頂きました。


 今月は、春季彼岸先祖法要会並びに師祖柴垣先生三十一回忌を開催させて頂きます。今、私たちが、この世の中で生かさせて頂けるのもご先祖さま、ご両親のお蔭であります。ご先祖さまを敬(うやま)ってご供養をすることが大事です。感謝のこころをこめたご供養がとても大切であります。


 私がサラリーマンの時でした。人間というのは、成功する人と失敗をする人に分かれます。優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)が明確に出てしまうのが仕事であります。かつて私の部下であったHさんは、とても優秀(ゆうしゅう)でした。「一(いち)を聞いて十(じゅう)を知る」そんな人物でした。しかし、そんな彼でも失敗をしたことがありました。万能な人間は、この世には存在しないのであります。


 仕事ができるということは、今、自分は何をしなくてはならないのかということを理解(りかい)する能力(のうりょく)が必要であります。ある病院のK先生は内分泌(ないぶんぴつ)の専門医(せんもんい)でした。なかなかとっつきにくい性格でした。そして、とても無口であり自分の本性(ほんしょう)は出さない非常に難(むずか)しく攻め処(どころ)がない先生でした。その難易度(なんいど)が高いK先生を彼は、みごと会社のファンにさせたのです。そして、成績も伸ばし頭角(とうかく)を現(あらわ)し成功を収めました。


 一方、Sさんはやる気はあるのですが、わりと空回(からまわ)りが多いようでした。担当した施設(しせつ)は、ものすごくよくなったというところはありませんでした。そして、とんでもなく悪くなった施設もありませんでした。Hさんとの違いは、自分で考えて行動がとれないタイプでした。いわゆる指示待(しじま)ちでした。結論(けつろん)からいうと彼は失敗者となってしまったのです。


 会社というのは、本来は懇切丁寧(こんせつていねい)に教えてあげなければいけないのですが、上司として一人の営業マンに関わっている時間は殆(ほと)んどありません。与えられた仕事の段取(だんど)りを自分で考え効率(こうりつ)を上げて対応するしかないのです。


 性格的にはどちらも好青年で真面目(まじめ)で、優(やさ)しく、思いやりがあり、親切(しんせつ)で、仕事に対して熱心(ねっしん)でした。性格面では差がないのですが、仕事に対する取(と)り組(く)み方や考え方の違いはありました。取り組み方というのは、いかに情熱(じょうねつ)をもって仕事ができるか。いかに愛社精神(あいしゃせいしん)があるかによります。また、考え方や捉(とら)え方は、いくつもの失敗をしたという経験(けいけん)から本人が学ぶものです。失敗経験がないと考え方の視野(しや)が狭くなり成功者には、なれないということです。そして、いかに客観的(きゃっかんてき)にものごとを捉え実行できるかが大事なところです。本来、人間はどうしても主観的(しゅかんてき)になり相手のことを理解しないという人もおられます。それでは失敗者のグループに入ってしまいます。


 客観的にものごとを捉え実行できる人はこう考えます。いかに相手に感動(かんどう)を与えることができるか、ということを常に考えないといけません。感動しないかぎり人のこころを動かすことはできません。


 HさんとSさんの大きな違いは、客観的に見る目があるか無いかです。そして、常に感動を与えることを考えているかどうかです。仕事だけにとどまりません。私たちが生きているということも周りの人に気を使っております。従いまして、常に客観的にものごとを見ないと生きる上では、障害(しょうがい)が増えてしまうということです。自分を磨(みが)いて、人格向上(じんかくこうじょう)の人生を歩むことがとても大事なのであります。


 この世の中は、競争社会(きょうそうしゃかい)です。生きるということはチャレンジ〔挑戦(ちょうせん)〕の連続(れんぞく)です。ひとつ終わったら、また次の挑戦がまっているのです。次から次へと目的を達成(たっせい)できる生き方は、大変幸福な生き方であると思われております。しかし、競争に自分が勝てば幸福ですが、一方で、負ければ不幸です。


 挑戦(ちょうせん)ですから、勝つ確率(かくりつ)より負ける確率の方が高いのです。生きるということは競争の中で勝ったり負けたりすることの連続です。勝ったら嬉(うれ)しいし、負けたら悲(かな)しい。負ける確率が高いものですから、人は誰でも生きていることは大変だと感じています。だからといって、何にも挑戦しなかったらどうなるでしょうか。その人は人生で何も得られることができません。何の行動もできなくなってしまいます。


 では、競争だけの人生は面白(おもしろ)いと思いますか。ただ競争だけで元気よく生きていても、どこか空(むな)しさを感じてしまうものです。それでまた人生の意味を探(さが)すこととなりますが、なかなか見つけることができません。


 仕事も教育もすべて競争(きょうそう)の連続です。身体の健康を維持(いじ)することもひとつの戦いです。他人と上手(うま)く付き合うことも、大変な戦いです。死ぬまで戦って死ぬことで人生は終わります。結局、何のために必死になって戦ってきたのか考えると、空しさばかりが見えてまいります。


 人生は競争ですが、競争の恐ろしい側面(そくめん)は競争相手(きょうそうあいて)を作ることです。つい人間は競争の相手を作ってしまいます。そうすると人と競争しなくてはいけなくなります。厳密(げんみつ)に考えると、私たちの競争相手は社会そのものなのです。しかも私たちはその社会の中で生きていかなくてはならないのです。


 競争は悪いことではありません。それが無くなってしまったら生きることの意味も無くなってしまいます。しかし、仏教的に考えると幸福を味わうためには、誰かと競争をするのではなく自分自身に挑戦することが大事だと思います。現在の自分を乗り越えてこそ本当の幸福を味わうことができるのではないでしょうか。


 幸福になるためには、誰かと競争をするのではなく自分自身に挑戦(ちょうせん)することです。本当のライバルは他人じゃなくて自分であることに気づくことがとても重要なのです。


 お釈迦さまは、こころのまま、感情のままに生きることは良くないことであると言われておられます。動物の世界でも、それなりに感情を抑えて生きているのです。感情のまま、意のまま、我(わ)がままに生きられるほど、生きるということは甘いものではありません。智慧(ちえ)をもって、ものごとを正しく理解(りかい)し判断(はんだん)しながら、悪(あく)を避(さ)け善(ぜん)の道を歩むことが立派な人生なのです。


 そのためには、勇気(ゆうき)と努力(どりょく)と精進(しょうじん)は欠かせません。しっかりと幸福をつかみたい、自分の家族を守りたい、平和で平安で、みんなと仲良くしながら長生きしたいと思う人は、目の前の感情(かんじょう)には負けないものです。私たちが感情に支配(しはい)されると苦しみを感じるようになってしまいます。瞬間(しゅんかん)に現(あらわ)れる感情に支配されないよう、常に冷静(れいせい)で平常心(へいじょうしん)を保つことが大事です。


 そして、正直で素直で智慧(ちえ)があり努力をする人であるならば、厳(きび)しい局面(きょくめん)に立たされた時、必ず社会から助(たす)けられます。逆に悪い人の場合は見放(みはな)されてしまいます。すべての結果(けっか)は、因果(いんが)の法則(ほうそく)によって起こる現象(げんしょう)であるのです。


 お釈迦さまは、いつも、人間が幸福になる道だけを教えてこられました。すべては苦しみであるということが普遍的(ふへんてき)な真理(しんり)であると教えられました。この苦しみをどのようにすれば乗(の)り越(こ)えられるのかという道を、涅槃(ねはん)に入られるまで教え続けられました。従って、仏法とは幸福論(こうふくろん)であるといえます。


 人が幸福を感じることができるように、こころを育てなければいけません。こころを育てる方法は「慈(いつく)しみ」「怒(おこ)らないこと」「精進(しょうじん)」と、この三つを実践(じっせん)すれば必ずこころは育ちます。こころが育てば「苦しみ」から解放(かいほう)されます。そうすれば必然的(ひつぜんてき)に幸福へと繋(つな)がってゆきます。とにかく仏教は人間一人ひとりが幸せになることが目標となります。そのために自分を磨(みが)くことがとても大事なのであります。


 こころが育てば人格(じんかく)が高まります。私たちは生涯(しょうがい)、人格を高める努力(どりょく)をしないといけません。人格が高い人は、常に客観的(きゃっかんてき)にものごとを捉えることができます。客観的というのは主観的(しゅかんてき)の対義語(たいぎご)です。相手の立場に立って考えることができる人なのです。


 そして、謙虚(けんきょ)でないと人格者にはなれません。謙虚でないと自分を変えることができないのです。たとえ、この法華経を深く理解(りかい)し実践(じっせん)していても、その人が傲慢(ごうまん)な性格であるとしたら教えは体には吸収(きゅうしゅう)されません。ただの宗教学者のような人間です。いわゆる評論家(ひょうろんか)と言ったほうが正しいのかもしれません。だから、絶対に謙虚でないと変われないのであります。


 かつて、お釈迦さまは、「文学的(ぶんがくてき)に美しい詩を千以上聞くよりも、こころを清(きよ)らかにする法華経の偈(げ)を一つ聞く方が優(すぐ)れているのです」とおっしゃいました。人間は、美しい言葉や俳句、詩などには弱いものです。言葉さえ綺麗(きれい)に響(ひび)けば、すぐ感情的(かんじょうてき)にこころが惹(ひ)かれてしまいます。言葉か持つ実質的(じっせんてき)な意味にはあまり関心(かんしん)がないのかもしれません。


 たとえこころを動かされる言葉であっても、それが自分に役立つ言葉かそうでないかを区別して考える必要があります。私たちが、読んだり聞いたりする言葉の中で、私たちの人生について何かを教えてくれる言葉、また自分の弱さを直してくれる、苦しみを乗り越え幸福の道へを導(みちび)いてくれる言葉があるなら、それはとても大事な言葉となります。


 しかし、現実を見れば私たちが必死になって読む作品の殆んどは、ただ読む楽しみだけで終わってしまいます。読書の楽しみも仏教的に考えれば、それは、一つの娯楽(ごらく)です。にもかかわらず私たちの人生の大半は、読書やおしゃべりに囚(とら)われております。日常の、ゴミの山からダイヤモンドを探(さが)すつもりで、悟(さと)りへ導いてくれる言葉だけを探せばよいのではないでしょうか。


 意味のない、つまらないことに私たちの一日は覆(おお)われております。それでいて、忙しい、時間がないと愚痴(ぐち)ばかり言っていますが、私たちが日々忙しく行っている数々(かずかず)のことは、本当に必要なことでしょうか。本当に人生の役に立つことなのか、こころを清らかにすることに繋(つな)がるのか、社会の役に立っているのかを自問自答(じもんじとう)することが大事であります。人間にとって本当に努力すべき目的は、苦しみを乗り越え、解脱(げだつ)への道を歩むことだと思っております。今一度、自分を振(ふ)り返(かえ)って見ることがとても重要であると思います。


 教祖・杉山辰子先生は、いついかなる時も妙法を唱(とな)えると守られると仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができるとおっしゃいました。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)となってゆける法華経の偉大(いだい)さを、私たちに教えて下さいました。


 私たちは、ただ妙法の五文字を唱えるのではなく、妙法を一心に信じて、信じて、信心(しんじん)して唱えることです。まずは、妙法の力を信じることがとても大事であるのです。その上で妙法を唱える時に私たちは守られるのであります。とにかく信心の強い人ほど大きな功徳(くどく)があるのです。


 お釈迦さまは諸行無常(しょぎょうむじょう)を説かれました。この世の中は常に変化をしている。私たち人間も変化しなければならないと説かれました。とかく人間はものごとに執着(しゅうちゃく)をしてしまいます。執着とは欲(よく)であります。ものごとに執着していると人間は変わることができなくなります。


 私たちは、「こうあるべきだ」という重い荷物(にもつ)、要するに執着を捨(す)てることによって人間革命(にんげんかくめい)ができるのです。自分を変えることができるのは自分だけです。他の誰(だれ)でもありません。私たちが、人格(じんかく)を高めて日々精進(しょうじん)することで「すばらしき人生」へと自分の生命を豊かにできるよう頑張(がんば)ることです。


合 掌


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