PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生76

四月を旧暦(きゅうれき)で卯月(うづき)と呼びます。由来は、卯(う)の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものという説が有力です。もう今年も四半期(しはんき)が過ぎました。あっという間の三ヶ月という感じで、そのスピードの速さを痛感(つうかん)しております。


 新年度がスタートします。新入学、新学期、新入社員と新たなことへの挑戦(ちょうせん)が始まります。挑戦が始まれば、終わる人もあります。新たな苦難(くなん)を乗り越えて人間は進歩してゆきます。苦労は常にあります。その苦労を乗り越えて、また更なる苦労の連続が自分を成長させるエンジンなのです。そして、定年(ていねん)や卒業(そつぎょう)される方も、また新たな目標に挑戦しなくてはいけません。人生とは、限りない人格向上(じんかくこうじょう)という目標が常にあるのです。


 辛(つら)いことや悲(かな)しいことがあるから人間は頑張(がんば)れるのです。苦難を乗り越えた時の達成感(たっせいかん)が、満足感となり幸福を感じ、また新たな挑戦へとたち向かうことができるのです。


 平成三十一年も残すところ、あと一ヶ月となりました。何かやり残していることがあるような気がしてなりません。とにかく平成の時代は、大きな地震や台風や集中豪雨(しゅうちゅうごうう)や竜巻(たつまき)など自然災害が多い時代でした。昨年の秋に台風二十一号が大阪で猛威(もうい)を振(ふ)るいました。愛知県も少なからず被害(ひがい)が出ました。あの大阪の状況が、今でも脳裏(のうり)を離(はな)れません。


 そして、南海(なんかい)トラフもいつどこでどれぐらいの被害を及ぼすか想定(そうてい)できません。まずは、一人ひとりの防災(ぼうさい)に対する意識(いしき)を高め、どんな状況でも常に冷静(れいせい)に対応することが望(のぞ)ましいと思っております。


 私がサラリーマンの時でした。仕事で成功(せいこう)を収(おさ)めたいと思うことは、誰でも願(ねが)うことであります。それには、自分の将来(しょうらい)に対する「夢(ゆめ)」がないといけません。将来こうなりたい、ああなりたいという希望(きぼう)が無いと成功することはありません。まずは、自己実現(じこじつげん)するためにも確固(かっこ)たる目標(もくひょう)を設定(せってい)しないといけません。そして、目標(もくひょう)を達成(たっせい)するためには自分のスキル〔能力(のうりょく)〕を上げないといけません。そのためには、質(しつ)の高い情報(じょうほう)を、いち早く入手し上司(じょうし)へ報告することができるように自分に磨(みが)きをかけないといけません。


 相手から情報を引き出すためには、いろいろと牽制球(けんせいきゅう)を投げ核心部分(かくしんぶぶん)を少しずつ浮(う)き彫(ぼ)りにし情報を引き出させるテクニック〔技〕が必要なのです。そして、問題(もんだい)を提起(ていき)して問題を解決(かいけつ)できる能力(のうりょく)を身につけることです。また、人間性も大きな要因(よういん)となります。性格が良いか悪いかは当然大きな影響(えいきょう)が出てしまいます。


 さらに、いろんな知識(ちしき)が無いといけません。専門知識(せんもんちしき)は当然ですが、特に雑学(ざつがく)の知識が多ければ多いほど会話(かいわ)は続きます。会話が続けば情報(じょうほう)を拾(ひろ)うチャンスも大きくなります。自分の力を最大限(さいだいげん)に発揮(はっき)できるよう日頃より切磋琢磨(せっさたくま)することが重要なのであります。


 そんな理想的(りそうてき)な部下(ぶか)がおりました。Kさんはとても優秀(ゆうしゅう)でした。会社では毎月一回、研修日(けんしゅうび)がありました。内容は医学(いがく)、薬学(やくがく)、法令(ほうれい)、製品知識(せいひんちしき)などのテストでした。Kさんは、素直な性格で頭もよくテストではいつも優秀(ゆうしゅう)な成績(せいせき)を出しておりました。会社ではテストの点数も業績評価(ぎょうせきひょうか)の対象(たいしょう)となっておりました。


 彼は、仕事面では何をやらせても、迅速(じんそく)に、正確(せいかく)にできました。これで性格も良い訳ですから当然実績も上がりました。しかし、人間には「完璧(かんぺき)」という二文字はありません。彼には、何でもできるという自信(じしん)がありました。その自信過剰(じしんかじょう)が後々(のちのち)、彼を駄目(だめ)にしてしまったのです。人間は常に謙虚(けんきょ)でないといけません。彼は、いつの日か傲慢(ごうまん)な性格(せいかく)になっていたのです。いわゆる増上慢(ぞうじょうまん)になってしまったのです。増上慢というのは自分が偉(えら)く相手を見下(みくだ)してしまう人を言います。


 いつしか先生より自分の方が偉くなってしまったのでしょう。順調(じゅんちょう)に売り上げを上げ続けていた実績が、彼の傲慢(ごうまん)な性格が表面化してから徐々に下降線(かこうせん)を描(えが)いていったのです。残念なことですが、一度、増上慢(ぞうじょうまん)になるとなかなか元通(もとどお)りにはなれないのです。


 なぜならば、「自分は偉いのだ」と思うようになると、素直(すなお)に謙虚(けんきょ)になろうとするこころのコントロールができなくなってしまうからです。ですから、一度、傲慢(ごうまん)になった人は、変わることができないのです。何か、自分にとってとても重要な問題や大失敗が出てこない限り難(むずか)しいことなのです。


 私たちは、常に謙虚(けんきょ)に生き、増上慢(ぞうじょうまん)にならないよう自分自身をよく観(み)ていくことが、とても大事です。自分のこころを良く知ることです。自分のこころが解(わ)かれば増上慢になる手前で「気づく」ことができるのです。そのことに気づかない人間は、その時点で、すでに成長が止まっているのです。常に、自分のこころの状態(じょうたい)を把握(はあく)することが、成功(せいこう)を収(おさ)める秘訣(ひけつ)であると思っております。


 将来、幸福になる「かもしれない」という、中途半端(ちゅうとはんぱ)な希望(きぼう)で何かをやるのが世間一般の宗教ですが、仏教が教える宗教は、確実(かくじつ)に具体的(ぐたいてき)に、自分の力や努力(どりょく)によって幸福(こうふく)をつかむことです。それを可能にするのは、唯一(ゆいいつ)、仏教しかありません。


 私たちは、縁(えん)あって、この尊い『法華経』に出合いました。自分を変えることは自分にしかできないのです。この教えを正しく理解すること、深く信心をすること、そして、実践(じっせん)をすることなのです。


 お釈迦さまは、一番大切なのは人のこころ、要するに人の生き方が良い方向へ進むことだと言われております。こころの成長に値しないような宗教は無意味(むいみ)なものです。人間が努力すると、幸福になり、成長します。努力しないで怠けると、不幸になり、堕落(だらく)します。このようなことは目に見える具体的(ぐたいてき)な事実(じじつ)であります。人間の行動のすべてはこころが行っております。本当にこころを育(そだ)てないといけないのです。


 こころは不思議(ふしぎ)なものであり、人間というのは他人の影響(えいきょう)を簡単(かんたん)に受けてしまいます。こころの波動(はどう)は電波(でんぱ)のようなもので、ところ構(かま)わず他人のこころに入り込みます。こころを育てることが宗教だとするならば、この事実(じじつ)は無視(むし)できません。汚(よご)れたこころ、暗(くら)いこころなどの影響も確実(かくじつ)に反映(はんえい)されますので、自分のこころはそれによって堕落(だらく)してしまいます。従って、私たちの住む環境(かんきょう)や人間関係(にんげんかんけい)がとても重要となります。


 良い人間関係を作ることを仏教では勧(すす)めております。こころを育てたい人は、いつも自分より精神的(せいしんてき)に優(すぐ)れた人を探して付き合わなくてはなりません。仏教はこころを育てる能動的(のうどうてき)な道(みち)であって、受動的(じゅどうてき)な信仰の道ではないのです。


 こころを清(きよ)らかにすること、すなわち六根清浄(ろっこんしょうじょう)が大事であります。そうすれば、徐々(じょじょ)にこころが綺麗(きれい)になって初めてお釈迦さまの智慧(ちえ)が理解(りかい)できるようになるのです。こころを育てるには「慈悲(じひ)のこころ」「怒(おこ)らないこと」「精進(しょうじん)」の三つを実践(じっせん)することです。


 生きるということは、どういうことか考えなくてはいけません。何とかして生きているだけでは何の意味(いみ)もありません。ただ生きるよりは、どのように生きるかということを考えなくてはなりません。不法(ふほう)の道に走(はし)り、詐欺(さぎ)や犯罪(はんざい)というのは自分の性格(せいかく)の弱(よわ)さをごまかすために、強(つよ)そうに振(ふ)る舞(ま)ったりすることです。このような生き方は、ただ空(むな)しいだけではないでしょうか。それよりは、本当に智慧(ちえ)があり、こころが落ち着いた状態で、悪いことから離(はな)れた生活ができるならば、それこそが有意義(ゆういぎ)な生き方と思います。何の恐怖感(きょうふかん)もなく、未来に対して何の不安(ふあん)も持たない、「こころ穏(おだ)やか」な生き方が自分を高(たか)めてくれる生き方であると思います。


 人の実行力(じっこうりょく)、あるいはやる気というものは、あまり長続(ながつづ)きしないものです。すぐにやる気が消えてしまうという経験(けいけん)は、誰にでもあることです。努力(どりょく)して、こころに力をつけてあげても、またすぐ落(お)ち込(こ)んでしまって、力がなくなります。それにはいくつかの理由が考えられます。


 まず自分が望(のぞ)むほどの結果(けっか)が出ないこと。その場合は「いくらやってもダメだ」と落ち込んでしまいます。二つ目の理由は、自分のやることにいろいろな障害(しょうがい)が出てくること。その時は「ものごとはうまくいくものじゃない」と諦(あきら)めたくなります。三つ目には、自分が望む結果と全く違(ちが)う結果が出てしまうこと。その時は自信(じしん)が全くなくなってしまいます。そして四つ目には、結果が出るかどうか自分に思(おも)い描(えが)けない場合、その時も、「自分はダメなんだ、いくらやっても無意味(むいみ)だ」と思ってしまいます。


 人がやることならどんなことにも、必ずと言っていいほど、次から次へとそのような障害(しょうがい)が出てきます。「すべて上手(うま)くいった」「大成功(だいせいこう)した」というのは、大変まれな珍(めずら)しいことです。そういう場合は、どんな人でも正直に喜びます。しかし、知識(ちしき)がある人は、まれに起(お)こることを希望(きぼう)するのではなく、障害があることが普通のことですから、それを理解して認(みと)めることです。言い換(か)えれば、いくら自信(じしん)があって頑張(がんば)っていても「必ずどこかで落ち込むこと」「やる気が消えること」があると理解することです。


 知識がある人の本当のチャレンジ〔挑戦(ちょうせん)〕は、すぐ消えたがるやる気にエネルギーを補給(ほきゅう)しながら、維持(いじ)し続けることなのです。そうしないと人生の中で「何かを成功させました」、あるいは「希望を実現しました」「何かを成(な)し遂(と)げました」と言えなくなってしまいます。何かを成し遂(と)げた、やり遂げたと言えない人生は、全く無意味な人生であり、人生が無駄(むだ)になったことになります。


 お釈迦さまは、自己実現(じこじつげん)するためにも、「人はたとえ瞬間(しゅんかん)でも怠(なまけ)けてはいけませんと説いておられます。自分の目的、希望を達成するまで、自己を励(はげ)み努力(どりょく)するべきです。結果が出ないと落ち込むことが、怠(なま)けることなのです。怠ける者は、何かを達成することはなく、自分の持っている徳(とく)を無くしてしまいます。怠(なま)けの道は堕落(だらく)の道で、破滅(はめつ)の道でもあります。たとえ百歳まで生きていても、努力しない怠け者も生き方は、無駄(むだ)な生き方です。目的を達成(たっせい)するために必死(ひっし)で努力して励(はげ)む者は、たとえ一日の命でも有意義(ゆういぎ)な命といえます。その人こそ、無駄に生きたことにならないのです」。


 ものや人に頼(たよ)って、「幸せだ」 「幸せだ」と思いながら、人間は必死で生きております。経済活動と家庭の面倒(めんどう)を見ることと、自分の身体の健康を心配することが、人間の生き方のすべてです。一般的に幸福の元だと思われているものすべては、簡単に消えてしまうはかないものです。消えた時の苦しみは計(はか)り知れないのです。


 幸福と思うもののはかなさ、頼(たよ)ること、依存(いぞん)することの危険(きけん)さを、お釈迦さまは説かれました。死に襲(おそ)われている者には、両親も親戚も子供も財産も、何もしてあげることはできません。そういうものがいくらあっても、人は病気になって老(お)いて空(むな)しく死んでしまいます。


 一般の世界では誰もが大変ありがたがる、自慢(じまん)に思う生き方、つまり、財産(ざいさん)を殖(ふ)やそう、知識(ちしき)を得(え)よう、結婚して家族を作ろう、権力(けんりょく)を獲得(かくとく)しよう、有名になろう、というような生き方は、結局、何の意味(いみ)も持たないのです。このような生き方で、百年生きても、全く同じことです。無知な生き方で生きるならば五十歳まで生きていた、八十歳まで生きていた、百歳も超(こ)えた、と威張(いば)っても、何の意味もありません。


 なぜなら、お釈迦さまは、すべてが無常(むじょう)で、消(き)えてゆく、我(わ)が身(み)も無常で消えてゆく、自分の身体(からだ)さえも自分のものにならないということを理解(りかい)して、何ものにも頼(たよ)らない強いこころを作ることが、人生の成功(せいこう)なのです。たとえ一日の命であろうとも、ものの消滅変化(しょうめつへんか)を理解して、こころの執着(しゅうちゃく)を消した人こそ、人生(じんせい)の大成功者(だいせいこうしゃ)ではないでしょうか。


 教祖・杉山辰子先生は、この法華経の力を信じ深(ふか)く信心(しんじん)することの尊(とうと)さを、私たちに、お示(しめ)しいただきました。そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱(とな)えることが大事と仰せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができる。法華経に対する信心(しんじん)が強い人ほど功徳(くどく)は大きくなるのです。


 私たちも教祖さまからお示しいただいた三徳(さんとく)『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』を実践(じっせん)することがとても大事であります。三徳を実践すれば必ずこころが育ちます。こころが育てば人格(じんかく)も向上(こうじょう)します。人格を高めて仏界(ぶっかい)という最高(さいこう)の境涯(きょうがい)を目指(めざ)すことを『生きる目標(もくひょう)』とすることが望(のぞ)ましいのです。そうすれば必ず『すばらしき人生』に到達(とうたつ)できるのであります。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス