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世界平和を
大樹
すばらしき人生77

今月より新しい元号(げんごう)『令和(れいわ)』がスタートします。平成の時代は甚大(じんだい)な災害(さいがい)が多く発生しました。人間の潜在的(せんざいてき)な力は想像するよりも遙(はる)かに強いものがあります。いくつもの災害を乗り越えて頑張(がんば)っている姿は非常に感動(かんどう)を呼ぶものでした。自然災害なら時がたてば解決できることも多くありますが、核(かく)に関連(かんれん)する問題(もんだい)には相当(そうとう)の時間やお金がかかります。私は、脱原発(だつげんぱつ)を目指(めざ)してゆくことが望ましいとおもっております。


 この令和の時代がどのようになるか、よくわかりませんが世界が平和に向かってゆくことを期待しております。私感(しかん)ではありますが、令和の時代は物を買う時代から、借(か)りる時代へと大きく様変(さまがわ)わりすると思います。世の中にはものが豊富にあり過ぎて、収納(しゅうのう)することが難しくなってきております。今では上手に収納することができる達人がいるそうで、色んな所から講演依頼があるようです。


 従って、レンタルビジネスやシェアビジネスという事業が活躍(かつやく)するのではないかと思っております。借りれば、収納ということはあまり考えずに済みますし、必要なものを必要な時に必要なだけ借りるという便利さがあります。若者たちには、すぐに浸透(しんとう)すると思われます。


 そもそも人間はものに執着(しゅうちゃく)できないから、色んなものを手に入れても意味が無いということに気づかないといけません。とにかく新しい時代に大いに期待したいと思います。私たちも新しい時代についていけるよう、心身(しんしん)ともに身軽(みがる)になるよう心掛(こころが)ける必要があるのです。


 先般、釈尊降誕祭〔花まつり〕にお参りを頂きまして、誠にありがとうございます。信者の皆さまと共に誕生日を祝うことができました。また、おいしい甘茶(あまちゃ)を頂き感謝(かんしゃ)をしております。来る六月には教祖祭並びに杉山辰子先生ご入滅八十八回忌を執(と)り行わせて頂きます。皆さまの楽しみな抽選会(ちゅうせんかい)も行います。どうか、多くの信者さまのご参詣(さんけい)をお待ちしております。


 私がサラリーマンだった時のことです。人間は皆顔(みなかお)が違(ちが)うように考え方や行動に違いがあるのは当然です。世の中、成功するよりもしない確率(かくりつ)の方が高いのです。野球でいったらあの有名なヤクルトの山田哲人(やまだてつと)さんのトリプルスリーです。打率(だりつ)三割、三十本塁打(ほんるいだ)、三十盗塁(とうるい)という偉業(いぎょう)を三回も達成されました。これは凄(すご)い記録(きろく)となりました。打率だけ見ても三割打てれば良(よ)しということなのです。七割は打てなくてもいい訳ですから、いかに成功しない確率(かくりつ)の方が高いということです。


 以前、私の部下にHさんという方がおりました。私の眼には、彼がとても後(うし)ろ向(む)きな性格であると映っておりました。なにかと積極的(せっきょくてき)なポーズを見せるのですが、一生懸命ですが空回(からまわ)りしているような、あまり期待(きたい)できない人でした。


 いろいろ提案(ていあん)はしてくれるのですが、これといった妙案(みょうあん)はなく結果が出ないと、いつも他人のせいにするタイプでした。仕事ができないことの理由が人のせいということは、自己責任(じこせきにん)のかけらもありません。そして、考え方が一方通行(いっぽうつうこう)なので私の指導(しどう)を受けようという謙虚(けんきょ)さが無いのです。たぶん自分はものすごく仕事ができる良い模範的(もはんてき)な社員であると勘違(かんちが)いをしているのです。


 年に一度、業績評価(ぎょうせきひょうか)があります。会社の評価は絶対評価(ぜったいひょうか)でありながら実質的(じっしつてき)には相対評価(そうたいひょうか)なのです。人件費(じんけんひ)という予算(よさん)に縛(しば)られるからなのです。私は、断腸(だんちょう)の思いで彼にC評価をつけました。評価の平均はBです。A評価の人がいれば、C評価もつけないといけないのです。しっかり面接(めんせつ)をして理由(りゆう)を説明(せつめい)してあげることが、彼の今後に大きく影響(えいきょう)してくるのです。


 人間には二通(ふたとお)りのタイプがあります。手取(てと)り、足取(あしと)り指導(しどう)しないと伸(の)びないタイプと何もしないでも勝手(かって)に伸びるタイプ。Hさんは前者(ぜんしゃ)のタイプでしたが、それに加え「常に自分は正しい」と考える人間でした。本当のことを、本当に言ってしまったらダメになる性格なので、問題(もんだい)をオブラートに包んだ状態で指導するよう心掛(こころが)けました。そうしないと彼は壊(こわ)れてしまう危険性(きけんせい)があったのです。


 その後、彼はいつか自分の傲慢(ごうまん)さに気づき、初めて自分という人間を自分の目で見て行動(こうどう)できるようになりました。本当の自分が分からないと成長することは不可能(ふかのう)なのです。


 成功者とは、学習能力(がくしゅうのうりょく)が高い人をいいます。仕事に対する「考え方」「熱意(ねつい)」「能力(のうりょく)」がないと成功を収(おさ)めることはできません。しかし、「失敗した」という苦(にが)い経験(けいけん)から学び、今度は失敗しないような工夫(くふう)をし、今まで以上に情熱(じょうねつ)を燃(も)やし、努力することなのです。


 昔から「失敗は成功のもと」と言われておりますように、本来、失敗することは良くないことですが、失敗しないと成功もできないということです。物事すべて失敗を恐(おそ)れずに果敢(かかん)にチャレンジすることが自分を成長させる大きな原動力(げんどうりょく)なのであります。


 さて、一般的(いっぱんてき)に善(よ)いことは言(い)いやすく成(な)しがたいものです。「悪(わる)いことなんかはしたくない」「良(よ)いことだけをして一生(いっしょう)生きたい」と、誰(だれ)もがそのように考えております。それが本当ならば、人間はとても素晴(すば)らしい生きものです。しかし、いにしえの昔から今まで、世の中から悪が消えた例(れい)はほとんど見当たりません。悪いことなどしたくない人がほとんどなのに、この矛盾(むじゅん)はいったい何でしょうか。


 理想(りそう)などはいくらでも作れます。立派(りっぱ)な言葉(ことば)もいくらでも語(かた)れます。理想というのは、頭の空回(からまわ)りでしかありません。立派な言葉も、将棋(しょうぎ)の駒並(こまなら)べに似(に)た言葉の遊(あそ)びです。上手(じょうず)に並(なら)べた人間が勝ちますが、それには何か意味がある訳ではありません。美し言葉の並(なら)べ替(か)えをしているだけなのです。


 観念的(かんねんてき)な理想(りそう)と文学的(ぶんがくてき)な遊(あそ)び心(こころ)で作る名言(めいげん)が、世の中を良い方向へ変えられるならば、今の私たちには何の問題(もんだい)もないでしょう。分かりやすく言えば、「考える」ことも「言う」ことも、いたって簡単(かんたん)ですが、「実行(じっこう)」することは、とても難(むずか)しいことなのです。


 放(ほお)っておけば、こころほど危険(きけん)なものはありません。誰も見ていないのだから、ほんのちょっとだから、一回だけだから、などと言(い)い訳(わ)をつけて人は悪いことをするのです。私は悪いことなどしたくないのだと思っていても、人は隙(すき)があればすぐ悪いことをします。


 この矛盾(むじゅん)は「こころ」にあります。悪いことはしたくないと口では言うのですが、こころの本音(ほんね)が悪いことをしたいと思ってしまうのです。常にこころは悪いことをしたがっております。数限(かずかぎ)りない規則(きそく)、法律(ほうりつ)、道徳的(どうとくてき)な価値観(かちかん)、習慣(しゅうかん)などで厳重(げんじゅう)にこころを縛(しば)らないといけないのです。いくら法律があっても、道徳(どうとく)があっても、宗教の教えがあっても、ちょっとした隙(すき)があれば、こころは悪い方向へ行ってしまう。


 しかし、善(よ)いことを実行(じっこう)するためには、強い意志(いし)が必要です。気が弱い人には善いことが実行できません。平気(へいき)で悪いことをする人はただ単に気が弱く、こころの叫(さけ)びに負けてしまうのです。善いことができる人は勇者(ゆうしゃ)なのです。


 お釈迦さまは、私たちが日々出合(ひびであ)っている道徳(どうとく)の矛盾(むじゅん)の構造(こうぞう)をこのように説(と)かれました。こころの本来(ほんらい)の衝動(しょうどう)は、貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・痴(ち)〔貪瞋痴(とんじんち)〕に基(もと)づいております。人の生命の本能(ほんのう)が貪瞋痴(とんじんち)なのですから、善(よ)いことをしたがらないのは当然のことです。勇気(ゆうき)がなければ、智慧(ちえ)がなければ、善いことを実行できないのです。


 私たちの本能(ほんのう)が汚(よご)れているのは仕方(しかた)ありません。しかし、もっと悪いのは、偽善的(ぎぜんてき)にそれを隠(かく)そうとしているところです。そのために、あふれるほどの理想(りそう)や、道徳的(どうとくてき)な美しい言葉が、世の中には氾濫(はんらん)しているのです。


 自分のものをとられるのは嫌(いや)だから、他人のものを盗(ぬす)むなと言うのです。でも、隙(すき)があったら、わからなかったら、また自分が得(とく)をするならば、罪(つみ)を平気(へいき)で犯(おか)すのです。そんなことで、世の中から悪は消えません。


 本当に悪を消そうと思うなら、自分のこころの本能(ほんのう)を理解(りかい)して、それと戦(たたか)わなくてはなりません。本当の道徳というのは、社会に関(かか)わるものではなく、自分自身に関わるものです。社会に迷惑だから悪いことは止めましょうと言うのは偽善(ぎぜん)であって、道徳(どうとく)ではありません。おのれのこころが汚(よご)れている、悪(わる)いことをしようと切望(せつぼう)している、それと戦うことが本当の道徳(どうとく)であり、倫理(りんり)なのであります。


 人はこころの「癖(くせ)」で行動します。人間は誰しも自由に生きたいと願っております。自由とは、「好きなことをやりたい」という言葉です。好きなことをして生きていられれば、「自分は自由だ」と思ってしまいます。


 では、好きなことができる人生は本当に自由なのかどうか、考えてみたいと思います。人間は、こころでものごとを考(かんが)え、また判断(はんだん)して行動(こうどう)します。しかし、考える、判断する、感(かん)じるであろうこころが自由でなければ、人は自由だと言えないのです。


 こころという働(はたら)きは、何によって操(あやつ)られているのでしょうか。こころは眼(め)、耳(みみ)、鼻(はな)、舌(した)、身体(からだ)に触(ふ)れる情報(じょうほう)によって、操(あやつ)られております。たとえば、聴(き)きたくないと思っても、きれいな音楽が流れてくるとつい聞いてしまう。食べてはいけないと思っても、おいしいものはつい食べてしまう。また、私たちの考えによっても縛(しば)られています。ある人が嫌(きら)いだと思っていると、その人がいくら良いことを言っても耳に入りません。こころは常にそれらに操(あやつ)られていて、自由に行動するわけではないのです。


 そのうえ、こころはありとあらゆることからいとも簡単(かんたん)に影響(えいきょう)を受けて、コントロールされます。文化(ぶんか)、伝統(でんとう)、習慣(しゅうかん)、教育(きょういく)、政治(せいじ)、宣伝(せんでん)、宗教(しゅうきょう)などに簡単にコントロールされ、洗脳(せんのう)されます。


 そこで、こころが本当に自由なのかということを考え直(なお)さなくてはなりません。自分の意志(いし)で考えることさえもできない人間が、自由に生きたいと考えることには矛盾(むじゅん)があります。こころに浮(う)かぶ自由のイメージ自体(じたい)も、すでにコントロールされているのです。


 完全(かんぜん)なる自由を得(え)るためには、あせらずに気を長くして、着々(ちゃくちゃく)と努力(どりょく)をする必要があります。こころというものは「癖(くせ)」がつきやすいものです。良いことも悪いことも、こころには「癖」となって身につきます。どうせつく癖なら正しい方向へと習慣(しゅうかん)づけるように、気をつけなければなりません。


 私たちは、こころが良い方向に向かうよう、努力(どりょく)、精進(しょうじん)しなければなりません。してしまった悪いことが思い浮(う)かんだら、同じ過(あやま)ちを犯(おか)さないように気をつける。気をつけなければ、また繰(く)り返(かえ)し、同じ過ちを犯すようになってしまいます。


 過ちを繰り返すようになると、こころは直(なお)しにくい頑固(がんこ)な悪(わる)い癖(くせ)がついてしまいます。ですから、努力して、いやいやでも善(よ)いことを繰り返し続けなければなりません。そうすると、徐々(じょじょ)に善(よ)い癖(くせ)がついてきます。善い癖がついた人は悩(なや)むことも苦労(くろう)することもなく、ごく自然に善いことができるようになるものです。それは、私たちの幸福への道となります。こころの癖で生きている私たちは、自由というものはないのです。自由という概念(がいねん)は、今までの癖(くせ)がついた全く不自由な生き方から対極的(たいきょくてき)に生まれた概念です。


 善いことであれ、悪いことであれ、どんなものにも左右されない、すべてを超越(ちょうえつ)したこころのみが、本当の自由なのです。私たちが悪い習慣をつけずに、善い習慣だけを身につける努力が必要なのです。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いついかなる時も妙法の力を信じ南無妙法蓮華経のお題目(だいもく)を唱える時に功徳(くどく)があると仰せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができると仰(おお)せです。そして、三徳(さんとく)『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践が何よりも大事であります。私たちが三徳の実践をすれば必ずこころが育ちます。こころが育てば人格(じんかく)が向上します。人格が向上すれば、何ものにもとらわれない解脱(げだつ)に近い状態(じょうたい)まで自分を高めることができるのです。


 私たちが「生きる目的」を達成(たっせい)するために、この尊(とうと)い法華経があるのです。皆さまが健康で、幸福で生かされて生きているのも「生きる目的」を達成(たっせい)しなくてはならないからなのです。そのためにも日々のご精進(しょうじん)こそ『すばらしき人生』へと通ずる道なのです。


合 掌


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