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世界平和を
大樹
すばらしき人生78

新しい元号(げんごう)がスタートして早二ヶ月となります。平成とくらべ何か大きな変化があったわけではありませんが、とにかく日本人は新しいもの好きであります。初詣(はつもうで)、初宮参(はつみやまい)り、初仕事、初荷(はつに)、初任給、初孫などや初物を食べると縁起(えんぎ)が良いとか云われております。初のつく縁起言葉はたくさんあります。しかし、初めてでも良いことばかりではありません。悪いこともあるのです。


 時代の流れを観察(かんさつ)すると、例えば、昔の写真は、フイルムという記録媒体(きろくばいたい)が存在しました。しかし、フイルムは現像(げんぞう)しないと写真になりません。失敗してしまっても現像しなくてはならないのです。ネガの状態で必要なものだけを写真にされる方もおられますが、大半は面倒(めんどう)だからすべて写真にしてしまうのです。しかし、今の時代でもマニアにとっては、フイルムを愛用される方もおられるそうです。


 フイルムというのは不経済的(ふけいざいてき)で時間もかかりました。しかし、今では、デジタルカメラの中にSDカードというメモリーカードに写した写真を保存します。要らない写真は削除(さくじょ)すればよいのです。ですから、失敗した写真はすぐに捨てられます。また、印刷もSDカードさえあればできます。つくづく便利な世の中であると感じております。


 最近ではペーパーレス時代といって、膨大(ぼうだい)な資料(しりょう)や重要文書(じゅうようぶんしょ)をファイルとしてパソコンやサーバーに保存する時代であります。とにかく、収納(しゅうのう)する場所や印刷される用紙代などが節約できるのです。ただ危険なのは、パソコンが壊(こわ)れたり使えなくなったりすると大問題となります。必ず、別の場所にバックアップをとらなければいけないのです。


 新しい時代について行くために、自分自身が変化できるように身軽(みがる)になる必要があると思います。とにかく人間には貯(た)め癖(ぐせ)があります。この貯め癖をなくしてものごとに執着(しゅうちゃく)しないように、煩悩(ぼんのう)を少しでも減らしてゆけば、新しい時代での変化に十分対応できるのではないでしょうか。


 先般は、春季彼岸法要会並びに師祖・柴垣法隆先生ご入滅三十一回忌の法要会と釈尊降誕祭〔花まつり〕にお参りを頂き有難うございました。今月二十三日(日)には、教祖祭、教祖・杉山辰子先生ご入滅八十八回忌を開催いたします。皆さまがお楽しみの抽選会もあります。多くの景品をご協賛頂きましたこと感謝申し上げます。信者の皆さまのご参詣をこころよりお待ち申し上げます。


 私がサラリーマンであった時のことです。私の部下でMさんという課長がおりました。仕事は卒(そつ)なくでき標準以上の能力がありました。毎月テストがありまして、その成績(せいせき)も抜群(ばつぐん)でした。年に一回の業績評価(ぎょうせきひょうか)に関わる大事なテストも成績優秀でした。仕事もテストもどちらも申し分なかったのですが、更なる上を目指すという昇進願望(しょうしんがんぼう)がやや弱い人でした。完璧(かんぺき)な人間はこの世の中には存在しません。長所短所は誰でも必ずあります。


 そこで私は、どうしたら彼を昇進(しょうしん)させることができるか真剣(しんけん)に考えた結果、選択肢(せんたくし)は二つありました。一つは、営業職で別の支店に異動(いどう)させること。環境(かんきょう)が変われば人間が変わるチャンスを掴(つか)むことができます。そして、もう一つは、本社への異動という道でした。


 結局、私は、彼を本社に転勤させる道を選びました。本社と言っても彼が一番嫌(きら)う営業職以外の部署(ぶしょ)でした。しかも、彼の上司の部長と彼が課長でたった二人の部署でした。私は彼を本気で奮起(ふんき)させようと思い一番厳(きび)しい道を選んだのです。


 周りから私に対するバッシングもありました。なぜ、優秀(ゆうしゅう)なM課長をどうしてあんな部署に配置替(はいちが)えをしたのかと。いろいろ言われましたが、私の選択(せんたく)した道は正解(せいかい)でした。結局、彼は、いつまでもこの部署(ぶしょ)にいたら本当に駄目になってしまうという危機感(ききかん)が芽生(めば)えたのです。


 最終的に彼は、非営業職から営業職に返り咲き、成長ホルモンの部署の最高責任者まで上(のぼ)り詰(つ)めました。能力にもよりますが、人間が本気で目標を立て実行(じっこう)すれば必ず成就(じょうじゅ)できるということです。彼は、本気で発奮(はっぷん)し、本気でやり遂(と)げれば必ず成功できるということを証明(しょうめい)したのであります。


 私たちは、常に正しく生きたいと思っております。しかし、人はよく過(あやま)ちを犯(おか)してしまいます。過ちを犯さない人間はこの世に中にはいないのです。ですから、過ちを犯すことはごく普通のことなのです。人間は必ず過ちを犯してしまうということを理解(りかい)すれば、過ちを犯した時のショックは軽減(けいげん)できるのです。そしてまた、他人も自分と同じくいろいろ間違いをします。より立派な人間になりたいと思えば、それを理解して許(ゆる)すこともできるようになります。それこそ立派な人間の生き方ではないでしょうか。


 一方、世の中には、人間としてふさわしくないタイプの人もおられます。そういう人は、自分の過(あやま)ちはごまかしたり、認めなかったり、許してほしいと思ったりしますが、他人の過ちとなると断固(だんこ)として許さず、それを非難(ひなん)します。このような性格では、人間関係を悪くしてしまいます。


 社会の一員としてスムーズな人間関係を作りたいと思うのであれば、まずは自分がよく過ちを犯すということ、それを他人が許(ゆる)してくれたらこころがいかに楽になるかということを理解し、自分もそれを許さないといけないという義務があると思うことです。私たちは、「人が過(あやま)ちを犯(おか)すことは、しかたのないことと思い許すのだ」と決心(けっしん)しなくてはいけません。


 人がなぜ過ちを犯すのかを考えると、人が過ちを犯すということは、実に不思議(ふしぎ)な現象(げんしょう)です。間違いを犯したい、失敗したいと思う人はひとりもいません。誰もが間違いを起こさずに成功したいと思い行動しているのに、どこかでミスをしてしまいます。対策(たいさく)はいくらでもありますが、それでも人類から過ちを完全になくすことはできないのです。


 これは人間の本質的(ほんしつてき)な問題です。人というのは自分中心にものごとを考えて行動しますので、客観的(きゃっかんてき)にものごとを考えて理解(りかい)することはとても難(むずか)しいことです。痛(いた)みを感(かん)じたことのない人に、他人の痛みはわかりません。人の悩(なや)みや苦しみを理解できるという人は、過去(かこ)に自分が味わった悩みや苦しみの経験(けいけん)を、他人に投影(とうえい)して他人の悩みや苦しみが理解できるということです。その場合でも自己中心になってしまうことは逃(のが)れられない事実です。しかし、この方法は、過(あやま)ちの少ない生き方を私たちに教えてくれるのです。


 常に他人の中に自分を見出(みいだ)すことができれば、人間関係におけるいろいろな問題が理解できます。また自分が何かをする時、それを他人に投影(とうえい)してみる。そうすると、自分の行動において間違いが少なくなってまいります。


 例えば、他人に忠告(ちゅうこく)することになった場合でも、すぐ忠告するのではなく、自分がこれから話す言葉(ことば)や態度(たいど)を他人に投影して、もし他人がこのような言葉や態度で、自分に忠告したなら、自分などんな気持ちで受けとめるかということを考えなければいけません。


 人は自己中心で、自分の都合(つごう)によって物事を判断(はんだん)し行動(こうどう)を起(お)こします。しかし、それは過ちを犯す行動なのです。理由は、人間には欲(よく)、怒(いか)り、嫉妬(しっと)、傲慢(ごうまん)など、一時的な感情(かんじょう)で我を忘れてしまう時もあります。その時の行動も、すべて過ちです。必ず後で後悔(こうかい)することになります。


 もう一つの過ちは、目先(めさき)の利益(りえき)を考えて行動すると、逆に大きな損害(そんがい)や失敗(しっぱい)を引き起こす原因となるでしょう。例えば、子どもが学校へ行きたくない、勉強(べんきょう)が面白(おもしろ)くない、友達と遊ぶ方が楽しいということと同じ行為です。


 私たちは、長期的(ちょうきてき)にものごとを考えて、目先の利益にとらわれることなく、お釈迦さまの智慧(ちえ)で物事を解決(かいけつ)することが望ましいのです。人を助ける慈悲(じひ)のこころが必ず自分の幸福に繋(つな)がるのです。私たちにそういうことを理解できるような智慧(ちえ)があれば、決して不幸にはならないのです。


 さて、競争心(きょうそうしん)や闘争心(とうそうしん)という言葉は、社会では好まれる言葉です。競争によって進化(しんか)が進み、日本一〔世界一〕になるのだという希望(きぼう)をもって、世の中の進歩(しんぽ)・発展(はってん)は生まれました。競争(きょうそう)することは決して悪いことではありませんが、競争によって勝った、負けたと喜怒哀楽(きどあいらく)を表情に出すことはあまり好(この)ましくないことです。


 日本一になりたいという願望(がんぼう)が強すぎると、問題が生じます。一つの症状として、日常のことを、つまらない、退屈(たいくつ)だ、大したことではない、どうでもいいのではないかと考えるようになることです。頭の中では、大胆(だいたん)なこと、人をあっと驚(おどろ)かせること、聞いたら皆が歓声(かんせい)を上げて賞賛(しょうさん)してくれることを考えてしまいます。そして、どんどん現実離(げんじつばな)れした人間になっていきます。


 また別な症状として、自分が果(は)たせなかった夢(ゆめ)を、我が子に押し付けたり、社長が自分の夢を部下に押し付けたりして、結果としてさまざまなトラブルが起こる場合もあります。


 大胆(だいたん)なことを目指(めざ)すと、日常のことがつまらなく見えることがあります。私たちが生きている世界には、本当につまらない、どうでもいいことばかりがあふれております。そういうものに気を取られ、大事なことを見失ってしまう場合もあります。スムーズな人間関係、仕事の効率性(こうりつせい)、家庭の平和が保(たも)てるように努めなくてはなりません。


 そして、つまらないと言って決して無視(むし)してはならないものもあります。一言で言えばそれは悪いことをすることです。問題にならない小さな悪いことを無視する傾向(けいこう)があります。子どもがボールペンを万引(まんび)きしたり、小さな嘘(うそ)をついたり、出張費(しゅっちょうひ)を少しごまかしたり、飲食店(いんしょくてん)の少額(しょうがく)の領収書(りょうしゅうしょ)を会社の経費(けいひ)にあてたりすることが、ふだんあまり気にせず悪いことをしがちです。


 たとえ小さくても、悪いことだけは決してしてはならないとこころに決めることです。例えば子どもに「盗(ぬす)むなかれ」という仏教の戒(いまし)めの場合は、糸一本(いといっぽん)でも他人のものは盗(と)ってはいけないと教えるのです。「嘘(うそ)をつくなかれ」という場合も、「遊(あそ)びごころでも偽(いつわ)りを言うな」と言われております。悪いことはたとえ小さくても、やり続けるとかなりたまります。最終的には悪人になってしまいます。


 千円ぐらい何のことはないとごまかし続ける人が、最終的には何千万円のごまかしもできるようになります。小さな嘘をつく人は、徐々にいかなる場合でも平気で嘘をつくようになってしまうのです。悪いことは癖(くせ)になるので、一回でも、たとえ小さくても、やってはならないのです。悪行為(あくこうい)は確実(かくじつ)に依存症(いぞんしょう)に繋(つな)がります。


 逆に良いことの場合は、たとえ小さくても行なうべきです。道を歩いていて見つけた空(あ)き缶(かん)を拾(ひろ)ってゴミ箱に入れるとか、そんなちいさなことも大したことではないと思わずに、実行しなくてはなりません。そのような行動も習慣(しゅうかん)になって、最終的にはすばらしい人格(じんかく)の持ち主になれるのです。初めから日本一を目指すという大胆(だいたん)な目標ではなく、小さな良いことを継続的(けいぞくてき)に実行(じっこう)できれば、最後には必ず望(のぞ)む結果(けっか)が得(え)られるでしょう。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も、偉大(いだい)な妙法の力を信じ『妙法蓮華経』の五文字を唱えることが大事と仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)、災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)、小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を一つずつ消滅(しょうめつ)することができると仰(おお)せであります。


 このありがたい法華経は自らが実践(じっせん)していかなくてはなりません。まずは、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践が大事であります。人間は自ら変わろうと思わない限り永遠(えいえん)に変わることはできないのです。自ら善(よ)い人間になろう。人のために生きよう。困(こま)っている人を助けよう。そういう気持ちを起こし、人のためになる人生を選択(せんたく)することです。


 そして、客観的(きゃっかんてき)にものごとをありのままに観(み)る力を養成(ようせい)しなくてはいけません。客観的でないと善い人間にはなれません。人のために役立つこともできません。ただ自分のためだけに生きるという小さな人間になってしまう。ですから、客観的にすべてを観るという感性(かんせい)を磨(みが)くことがとても重要なのです。私たちは、三徳を実践し精進(しょうじん)することにより、人間すべての具(そな)わる『仏界(ぶっかい)』へと高めることが、結果的に『すばらしき人生』へと繋(つな)がって行くのです。


合 掌


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