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世界平和を
大樹
すばらしき人生80

世界的に地球温暖化(ちきゅうおんだんか)が問題となり摂氏(せっし)五十度を超えるような地域も出てきました。このまま温暖化が進むと私たち人間は地上での生活が困難になってしまいます。将来、人間が地下で生活するようになるのではと危惧(きぐ)しております。全世界が共通の認識(にんしき)を持ち、人間一人ひとりが真剣にこの問題に取り組まなければならないのです。


 スーパーや店舗でもビニール製のレジ袋から紙の袋に変える努力をするようになってきました。将来の人類のためにも、私たちが一丸となり智慧(ちえ)を出し合って解決に向け努力することがとても大事です。


 元号の「令和」もだいぶ馴染(なじ)んできました。2020年には東京オリンピックも開催され、景気(けいき)にも弾(はず)みがつきそうです。そして、2027年にはリニア中央新幹線が東京都名古屋間をたった40分という速さで結ばれます。日本が大きく変わるのも、そんなに遠い将来(しょうらい)のことではありません。


 2017年に閣議決定(かくぎけってい)された「未来投資戦略(みらいとうしせんりゃく)2017」では、今後十年でキャッシュレス〔カード〕決済(けっさい)の割合を全体の決済の40%にするという国の目標があります。なかなか高齢者にはハードルが高いように思えます。カードには暗証番号(あんしょうばんごう)やIDパスワードなどが必要となります。カード決済で、消費税2%増税分が還元(かんげん)されると言っても、使い慣れないものが浸透(しんとう)するかどうか疑問(ぎもん)です。


 キャッシュレスの時代になれば人件費が大幅に削減できます。要するに、リストラが進み人からロボットやAI〔人工知能(じんこうちのう)〕に変わってしまうという状況が生まれます。人間よりも正確で素早く、確実に処理能力(しょりのうりょく)が高いのです。このような新しい時代をどう生きるのか、いかに変化に対応することが大事であるかを理解(りかい)することであります。


 先般の盆施餓鬼先祖大法要会にご参詣いただき誠に有難うございました。私たちが、ご先祖さまに感謝(かんしゃ)し供養(くよう)することで、ご先祖さまから護(まも)られるということを思わなければいけません。私たちは明日のことは、誰にもわかりません。しかし、護られているという安心感が将来の不安を消してくれます。


 今月は、法公会水子地蔵尊供養会を開催します。多くの信者の皆さまのご参詣をお待ちしております。


 サラリーマンだった時のことです。私が静岡県で責任者をしておりました。おとなしいKさんとよく似たタイプのYさんがおりました。どちらも真面目(まじめ)で正直(しょうじき)で優(やさ)しく人間的には申し分のない二人でした。


 人間にはもって生まれた素質(そしつ)があります。人一倍、印象の強い人から、存在感(そんざいかん)がない人まで様々(さまざま)です。彼らは、どちらかといえば存在感の薄(うす)い方でした。だからと言って仕事ができないのかと思えば、そうでもないのです。営業成績は二人とも普通でした。


 営業は聴(き)き上手(じょうず)でないといけません。聴き上手ということは、相手の考えていることを引き出すためのテクニックです。勿論(もちろん)、真面目で正直な人間でないと信頼(しんらい)は得られません。相手が胸襟(きょうきん)を開いて話をしてもらうためにも、相手の本当の気持ちを探(さぐ)ることが大事なのです。


 ここからが重要なのですが、相手がこころを開いた時が、責(せ)めるポイントとなります。彼らは、この重要なミッションが上手にできなかったのです。相手がこころを開いたら、少し強気で押してみるのです。そこで相手の態度(たいど)が豹変(ひょうへん)するようであれば方針を変更します。しかし、少しでも押し切れるようであるならば、クロージング〔商談成立(しょうだんせいりつ)〕まで持ち込めるのです。何事も不可能を可能にするぐらいの強いこころでないと勝ち残ることはできません。


 強いこころを育てるには、常に客観的(きゃっかんてき)に物事を見る訓練(くんれん)が必要なのです。客観的であるならば、相手の立場が理解でき、どんなことを考えているのかという、洞察力(どうさつりょく)ができるのです。


 成功と失敗は「もろ刃(は)の剣(つるぎ)」なのです。どんなことにも耐(た)えることができる強い気持ちと、相手のことを思う優しさと勇気があれば、どんなに厳(きび)しく茨(いばら)の状況でも必ず成功へと繋(つな)がってまいります。


 ここ一番という時の瞬発力(しゅんぱつりょく)と正しい判断力(はんだんりょく)が無ければ、チャンスは確実に逃げて行ってしまいます。チャンスをチャンスとして捉(とら)えることができるよう六感(ろっかん)を磨(みが)くことです。すべては己の行動次第でいかようにもできるということであります。


 さて、仏教の立場で観(み)た場合、人間は避(さ)けて通ることができない「死」というものを、真剣に考えないといけません。どんなに最先端(さいせんたん)の医療(いりょう)があっても、超科学(ちょうかがく)といわれる分野に精通(せいつう)した人でも、歳をとらない、死なないという奇跡(きせき)を起こすことはできないのです。


 お釈迦さまは、この歳をとる、老化(ろうか)する、死に向かって生きているという現実をそのまま素直(すなお)に認(みと)め、受け入れることのできる人こそ、この世の中で最も幸せに生きられる人であると言っておられます。


 人間は一秒ずつ一秒ずつ、刻々(こくこく)と年をとっていくこと、それはとどまることがないという現実を、しっかりと見つめることです。人間は、とかく死を考えたくない、死ぬのは怖(こわ)いと考えて、現実を見ようとはしません。これではいけないのであります。死があるからこそ今を一生懸命に生きられるのです。


 私たちは、どんなに頑張(がんば)っても「死」や「病気」から免(まぬか)れることはできません。お釈迦さまは、病気になることや死ぬことなど、どちらかといえば人々が避(さ)けたい嫌(きら)いな、不幸で暗い出来事をありのままに認めるようにと言われます。しかし、それがなぜ、人間を幸せにすることができると言われるのでしょうか。


 その理由は、人はみな大宇宙(だいうちゅう)の法則(ほうそく)に逆らって、こころの中で常に闘(たたか)っております。ちっぽけな個人である人間が、大宇宙を相手に闘っているのです。ですから、細胞(さいぼう)が弱ってきたり体の機能(きのう)が低下したりすれば病気になるのは当たり前のことなのに、病気になりたくないと悩(なや)んでおります。歳を重(かさ)ねるのも自然の法則なのに、ああ嫌(いや)だ、歳をとりたくないとあがいております。


 多くの人間は、いつまでもずっと生きていたい、いつまでもずっと若さを保って健康な体でいたいと希望(きぼう)を抱(いだ)いてしまいます。このような気持ちがあるからこそ、私たちは生きる努力を惜(お)しむことなく、どんなに辛(つら)いことも我慢(がまん)していられるのかも知れません。しかし、皮肉(ひにく)なことに、その希望はどんなことをしても、まず叶(かな)うことはありません。


 もしもこの世の中に百パーセント確実(かくじつ)ということがあるとして、それを証明(しょうめい)するために何を挙(あ)げるかと問われれば、「人は老い、人は必ず死ぬ」ということになるでしょう。それほど、生きるものが老い、死ぬということは、絶対的(ぜったいてき)な自然(しぜん)の法則(ほうそく)なのです。


 にもかかわらず、その法則に体当たりをして逆(さか)らおうとする自分たち人間のあまりにも愚(おろ)かなことに、なぜか誰も気が付かないのです。その結果、どうなるのかと考えれば、そこに現れるのは、失望感(しつぼうかん)だけの世界です。


 法則は絶対(ぜったい)に不変(ふへん)であるから法則なのであって、その絶対なる法則に逆らって生きるということは、虚(むな)しい願望(がんぼう)が打(う)ち砕(くだ)かれる結果になることは明白(めいはく)です。そうなると、毎日毎日を生きていくことが大変つらくなり、精神的(せいしんてき)な苦しみが生まれてきます。落ち着きも失われ、余計(よけい)な苦しみにさいなまれることになります。


 私たちは、「老いること、死ぬこと」から逃れようとして、余分なエネルギーを使うのではなく、「これは自然の法則だから、歳をとりたくないとか死にたくないと思うのではなく、そんなことを希望(きぼう)しても何の意味もないことだ」と思うことです。


 「病気になることを恐(おそ)れたり、死ぬことを悔(く)やんでも、それはただ疲(つか)れることで、愚(おろ)かな考えだ」と思うことです。そのようなこころを持つことができた時、人はホッとして、精神的な落ち着きと安らぎを味わうことができるようになります。そうすれば、法則に逆らうような、愚かな闘いのこころを持つ必要もなくなりますので、そこで初めて、幸福という感情(かんじょう)を実感(じっかん)することができるのであります。


 自分は何十年も頑張(がんば)って働(はたら)き、子どもを育てて、家のローンも終わり多少の余裕(よゆう)もでき、真面目(まじめ)にコツコツと一生懸命生きることが世俗的(せぞくてき)な幸せと感じる人もいます。財産があること、良い家庭を築(きず)いていること、何も悪事(あくじ)を働かずに立派に働いて生きていること。恥(は)ずかしい、いけない、怖(こわ)くなるような行為とは無縁(むえん)であること。そうしたことが人間にとって幸せであると思われる方もおられます。


 しかし、そうした刹那的(せつなてき)な満足感(まんぞくかん)で人間は本当に幸福感を味わったと言えるでしょうか。幸福とはそのようなものでしょうか。一瞬(いっしゅん)の満足を得るためにあくせくと働いて、イライラして、不満ばかり募(つの)らせて、他人を羨(うらや)んだり、夢ばかり追いかけて、それではたして幸せなのでしょうか。そうではないはずです。


 人間には、そのような世俗的(せぞくてき)な幸福ではなく、もっとすばらしい幸福があります。無量(むりょう)な幸福を感じることができるのです。それは、何かに感激(かんげき)するような幸福ではありません。そうではなく「ずっとこころが落ちついていられる」という幸福です。いつも平安(へいあん)なこころでいられる幸福なのです。


 苛立(いらだ)ったりしないで、感情的(かんじょうてき)にならないで、空気のように静かに、流れる水のように自然に、平安なこころを保つことができれば、それこそが最高の幸福なのです。その幸福は、ほかのどのような幸福にも勝ります。


 世界中の財産が自分のものになっても、こころが落ち着いていなければ少しも幸福ではありません。精神的(せいしんてき)な安(やす)らぎがなければ、お金など何の意味も持ちません。たとえ財産が無くても、こころが安らかで何の苛立ちもなく、自然体で空気のように生きてゆくことができるならば、最高(さいこう)の幸福を味わえます。緊張(きんちょう)してビクビクしながら生活することこそが不健康で、不幸なのです。


 従って、「病気になりたくない、歳をとりたくないなどと、自然の法則に逆らって、どうやっても叶(かな)うはずのないことを願うのはやめましょう。そういうことは自然に任(まか)せるのです」。お釈迦さまは、「自然の法則は真実であり、ありのままに観(み)ることが、幸福へと通(つう)ずる」と説かれました。


 私たちが健康に生きたいと願う気持ちはみな同じであります。健康には身体とこころの両方が健康でないといけません。こころが健康になるためには、生きる目的を明確(めいかく)にして、充実感(じゅうじつかん)を得ること、落ち着いて生活したいと願う気持ちが大切です。こころの中の苛立(いらだ)ちや、不安や、ありとあらゆる葛藤(かっとう)や、嫉妬(しっと)、怒(いか)り、競争心(きょうそうしん)、悩(なや)みをなくして、光(ひか)り輝(かがや)く美しいこころをつくりたいと深く願うことです。そうすると、こころが清(きよ)らかになり健康になれることが、私たちにとって一番の『幸福』であるということなのです。


 教祖・杉山辰子先生は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も、妙法の力を信じ「妙法蓮華経」の五文字を唱える時に功徳(くどく)があると仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができるのであります。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できると仰せです。


 お釈迦さまが説かれた法華経寿量品(じゅりょうぼん)〔第十六章〕で「仏の永遠の生命」を知る功徳(くどく)が明かされました。寿量品の文(もん)には、はっきりと明示(めいじ)されていないが、その文底(もんてい)には、お釈迦さまを「久遠実成(くおんじつじょう)の仏」に成(な)しえた『南無妙法蓮華経』がとても重要であるのです。すなわち、人法一箇(にんほういっか)の釈尊と法華経が御本尊であるということを教えているのです。


 この世の中で生かされて生きているのも、ご先祖さま、ご両親のお蔭であります。感謝して、今日一日、今日一日と精一杯(せいいっぱい)生きることが大切です。


 教祖さまがおっしゃいました『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても重要であります。いくら良い教えがあっても実践しなければ、自分を変えることはできません。これからも、絶えず精進して自分を高めることが、必ず『すばらしき人生』に通ずることと確信(かくしん)しております。


合 掌


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