九月に入りましたが、まだまだ暑い日が続きます。熱中症対策(ねっちゅうしょうたいさく)には十分な睡眠と適度な水分補給が欠かせません。くれぐれもご自愛下さいますようお願いします。九月を長月と言い、その由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が有力であり読書や趣味の時間が増えることと思います。今年の中秋の名月は九月十三日(金)だそうです。まずは、天気が良いことを願うばがりです。
最近では、米中(べいちゅう)の貿易戦争(ぼうえきせんそう)が加速(かそく)し世界経済まで影響(えいきょう)が出ようとしております。貿易収支(ぼうえきしゅうし)の問題やファイブG〔第五世代移動通信(だいごせだいいどうつうしん)システム〕を巡(めぐ)る覇権争(はけんあらそ)いなど、とどまるところを知りません。日本は中国への依存度(いぞんど)が高く中国の景気(けいき)が減速(げんそく)すると日本にも悪影響が出てしまいます。米中の関係改善に向け自国主義(じこくしゅぎ)から両国の信頼関係構築(こうちく)が急務(きゅうむ)ではないでしょうか。
最近は何かとポイント、ポイントといって、なんでもかんでもポイントがつきます。そのポイントで買い物ができるのです。物が安くなっているのかと思えば、そうではないのです。ポイントがつくから安いと勘違(かんちが)いをしているのです。
物価(ぶっか)は確実(かくじつ)に上がっております。十月からは消費税も十パーセントになります。色んなものが値上がりをします。そのことを解消(かいしょう)する意味でポイント制度(せいど)が普及(ふきゅう)したようにも見えます。しかし、それは数字のマジックなのです。実際には顧客(こきゃく)のかかえこみが目的でいかに市場(しじょう)をとるかということなのです。
私がサラリーマンの時でした。四国で責任者をしておりました。入社二年目のTさんは、とても誠実(せいじつ)で素直(すなお)で明るい性格の好青年でした。行動力もあり機転(きてん)もききテキパキと仕事をしておりました。
何事にも前向(まえむ)きに取(と)り組(く)むことができないと、成功(せいこう)を導(みちび)くことはできません。前向きということは、チャンスをチャンスとして捉(とら)えることができるのです。多くの成功者は勝負どころを知っているのです。それが解かるように感性(かんせい)を磨(みが)かないといけません。
世の中は常(つね)に変化(へんか)をしている。それを五感(ごかん)で捉えることです。つまり、視覚(しかく)・聴覚(ちょうかく)・嗅覚(きゅうかく)・味覚(みかく)・触覚(しょっかく)の五感を研(と)ぎすませることです。五感の中でも特に嗅覚が大事であります。そして、第六感である直感(ちょっかん)を信じてチャンスが来たら迅速(じんそく)な対応をとることが、とても重要なのです。
今は情報社会(じょうほうしゃかい)です。しかも質の高い情報収集(しゅうしゅう)ができなければいけません。五感の精度(せいど)を高めることと、常にアンテナを張(は)っていないとチャンスは逃げてしまいます。チャンスを掴(つか)むということは、勝負どころが解(わ)かるということです。
Tさんはチャンスを逃(のが)しませんでした。仕事に対する前向きさと自分の六感を信じ活動することで、更なる成長を遂(と)げたのであります。
そんなある日、彼が彼女を連れて私の家に遊びに来ました。実はこの二人は結婚をされるということで、私に主賓(しゅひん)の挨拶(あいさつ)を依頼(いらい)に来ました。私も快(こころよ)くお受けしました。そして、結婚式は東京浜松町のホテルでした。私は祝辞(しゅくじ)の言葉を選(えら)び慎重(しんちょう)にスピーチしました。使ってはならない言葉を使うと、彼らの将来に汚点(おてん)を残すことにもなりかねません。新しい門出(かどで)を祝う意味でも、永遠の幸せを得るためにも、私は、Tさんの現在の仕事ぶりや、性格や品格も含めて褒(ほ)めて、褒めて、褒め讃(たた)えたのでありました。
その二年後に彼は埼玉に転勤となりました。私が背中(せなか)を押し香川から栄転(えいてん)で行ったのです。そして、後で聞いた話ですが、彼らには子どもがいませんでした。四、五年間、不妊治療(ふにんちりょう)をしていたようで、ようやく双子(ふたご)の赤ちゃんに恵(めぐ)まれました。
人生は、思うようにならないことが多いのですが、最後にハッピーエンドなら申し分ありません。努力(どりょく)して、また努力して、耐(た)えて、耐えたからこそ得られる幸福は人一倍、喜びを感じられるものなのです。子は鎹(かすがい)と申しまして、活気、元気、生きる力が湧(わ)いてきます。子どもがいるからどんなことにも耐(た)えることができる。高い目標も達成(たっせい)できる。人間が本気(ほんき)で立ち上がったら、出来ないことはありません。そんな不可能(ふかのう)を可能にしてくれる不思議な力があるのです。
さて、人間の病気(びょうき)には二種類あります。一つは自然(しぜん)の法則(ほうそく)、自然の変化の流れによる病気、つまり歳(とし)を重(かさ)ねることによって慢性的(まんせいてき)な病気になるケースです。これは厳密(げんみつ)には病気ではありませんが、これを病気(びょうき)だとする間違(まちが)った認識(にんしき)によって、私たち人間は苦しみを増幅(ぞうふく)させているのも事実です。
二つ目はなんらかの障害(しょうがい)、異常現象(いじょうげんしょう)による病気、何かが原因(げんいん)で突然病気になるケースです。この二つは分けて考えなければいけません。
一つ目の病気ですが、お釈迦さまは諸行無常(しょぎょうむじょう)を説かれました。人間が理屈(りくつ)のうえでは納得(なっとく)していても、実際には心配し、不安を募(つの)らせている老化(ろうか)という自然現象(しぜんげんしょう)に対することですが、それは、歳を重ねるにつれ自分が変化してゆくその状況を楽しめばよいのです。
毎日、自分のこころも身体も変化していく。毎日、周りも変化していく。その現象を楽しめば、歳を重ねることは楽しくなります。そのように気持ちの持ちようで人生が大きく変わります。
子どもたちはどうしてあれほど生き生きとしているのでしょうか。たとえば電車にたくさんの子どもたちが乗ってきたら、うるさくてどうしようもないのですが、なぜか車内が明るくなります。降りてしまうと電車が静(しず)かになり寂(さび)しさを感じてしまいます。
子どもたちはとても元気で、とてもかわいい。なぜでしょうか。それは子どもたちが過去(かこ)に生きていないからです。子どもたちは、次に何をやろうか、何をやろうかと変化を楽しんでいます。子どもたちだけは、現在(げんざい)に生きていて、未来(みらい)を目指(めざ)しているのです。だからエネルギーがいっぱいあって、元気でかわいいのです。
それなのに、あのエネルギーはいつの間にか、私たちの中から失われてしまったのです。あの笑顔、あの生き生きとした姿。子どもの時にあったあの明るさが消えたのは、いつだったのか思い出してみて下さい。私たちは知らない間に、あの明るさを忘れてしまったのです。そして、今の瞬間(しゅんかん)を生きることと、将来(しょうらい)を見ることを忘れて、過去(かこ)ばかり見て生きるようになってしまった。それは、ある日突然そうなるのではなくて、私たちは、徐々になってゆくのです。
しかし、この老化現象(ろうかげんしょう)は、防ぐことはできます。そのためには、子どもと同じように、「今をしっかり生きる」ということが大切です。それは言葉を変えると「変化を楽しむ」ということです。「歳を重ねることを楽しむ」ということになります。
それは、自分の年齢にふさわしいふるまいをすることはもちろん大切ですが、基本的な生き方は、子どもや若者と同じでいいのです。それは、若い振(ふ)りをするのではなく、「今を生きる」「過去(かこ)ではなく、未来(みらい)を見る」ということです。
すべては毎日変化するので、今という時間はもう二度とは戻らないのです。明日になると今日より一日、歳が増(ふ)えております。今日の自分は今日しかいません。明日は違う自分がいるのです。ですから、今日を存分に生きて、明日の準備(じゅんび)をしておくことです。そうすると、私たちのこの明るさや力強く生きているエネルギーは消えていきません。遅(おそ)すぎると思わないで、今からでもがんばれば、そのエネルギーは生まれてくるものです。過去に執(とら)われ、歳(とし)を重(かさ)ねることに逆(さか)らう生き方ではなく、今を生き未来を見つめて、歳を重ねることを楽しむ生き方がとても大切なのです。
今の自分の立場を楽しむことが大事であります。五歳の孫(まご)が元気に遊んでいるとします。その子どもと六十歳を過ぎた自分が一緒(いっしょ)になって遊んだり走り回ったりしたら、一体どうなるでしょうか。転(ころ)んで骨を折ったり、腰(こし)が痛(いた)くなったり、大変なことになってしまいます。孫と遊んで張(は)り切(き)り過(す)ぎて、寝たきりになったということもあるようです。これでは、せっかく遊びに来たのに、幸福どころか、とんでもない不幸をかかえこんでしまいます。
おばあさんなら、「私は歳をとったおばあさんで、この子は若くて元気な孫だ」という立場(たちば)を守り、その立場を楽しめばいいのです。孫と何がなんでも一緒になって遊ぶと言って無茶(むちゃ)はしないで下さい。孫が外で遊んでいる時は、自分には関係がないとただ見守ることが大事です。それだけでも楽しいじゃないですか。余計なことはせず、おばあさんはおばあさんとして孫と接(せっ)すれば、それでいいのです。
そうすると、普段(ふだん)は自分たちで勝手に遊んでいる孫も、かわいがってもらいたい時にはおばあさんの所に行くようになります。お腹(なか)が空(す)いたら「何かつくってちょうだい」とおばあさんにせがむようになります。おばあさんもそんな孫がかわいくて、楽しくて、すごく幸福になれます。とにかく自分の立場を楽しめば良いのです。
もし私たちの身体が不自由になり、寝(ね)たきりになったとしても、その時は自分の立場を認(みと)め、気持ちよくお世話(せわ)をしてもらいましょう。あれやこれやと周りに文句(もんく)を言ったり、命令(めいれい)したりするのはやめましょう。命令する立場ではないのです。寝たきりになっている人が、自分の立場を忘れて文句を言ったり命令したりすると、夜も寝(ね)ないで一生懸命に看病(かんびょう)している人は、当然、嫌(いや)になってしまいます。命令や文句を言うのではなく、寝たきりになっても「ありがとう、申し訳ない」と感謝(かんしゃ)できるということが大事であり、自分の立場をよく理解(りかい)することなのです。
寝たきりであっても余計(よけい)な苦しみをつくらずに、死ぬ瞬間(しゅんかん)まで幸福で明るくいることが、自然(しぜん)の法則(ほうそく)による病気に対する、仏教的な立場です。自然の病気は、治(なお)すのではなく、乗(の)り越えて、明るく幸福に生きることが大切です。病気を乗り越えるということは、病気によって不幸にならないことなのです。余計は苦しみは味わう必要などありません。
そして、歳を重ねて体が弱くなったとしても、小さい時にあったあの明るいエネルギー、過去(かこ)ではなく未来(みらい)を見つめ、今日を力いっぱい生きるエネルギーを消してしまう必要はありません。それはこころのエネルギーですから、同じ強さでずっと保ち続けることは、努力すれば誰にでもできるものなのです。
お釈迦さまは生老病死(しょうろうびょうし)を説かれました。生きることは苦(く)である。老いること苦である。病に伏せることも苦である。死ぬことも苦である。ということですが、なぜ生老病死を説かれたのか、それは私たちが六道(ろくどう)を輪廻(りんね)している間は、必ず「苦」というものがあります。その六道輪廻の悪循環(あくじゅんかん)から逃(のが)れるために、『四聖(ししょう)』すなわち仏界(ぶっかい)、菩薩界(ぼさつかい)、二乗界(にじょうかい)〔声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)〕という境涯(きょうがい)に自分を高めないと、いつまで経(た)っても六道輪廻の悪循環に終止符(しゅうしふ)を打つことができません。
そのためには、私たちがこころを育(そだ)てる必要があります。こころを育てるには「慈(いつく)しみ」「おこらないこと」「精進(しょうじん)」この三つを実践(じっせん)することです。そうすれば、人格(じんかく)を高めることができます。そして、解脱(げだつ)を体験(たいけん)することです。解脱とは、何ものにもとらわれない境涯(きょうがい)です。そもそも人間は貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)が基本にあります。ですから、私たちは完全な解脱の状態にはなれないのです。しかし、煩悩(ぼんのう)を少しでも減らすことが大事なのであります。
お釈迦さまは、客観的(きゃっかんてき)にものごとを観(み)ることの重要性を説かれました。慈(いつく)しみのこころで相手の立場になって、思考(しこう)、行動力(こうどうりょく)を養(やしな)うことです。そして、自然(しぜん)の法則(ほうそく)に逆(さか)らわないように、老(お)いは老いとして受け止めて、無理をせず「ありのままを観(み)る」ことを心掛(こころが)け努力・精進(しょうじん)することがとても大事なのであります。
教祖・杉山辰子先生はこの妙法を深く信じることがとても大事であり、信心(しんじん)の強い人ほど功徳(くどく)も大きくなるとのことです。そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も『妙法蓮華経』の五文字を唱える時に大きな功徳があると仰(おお)せです。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。
人は生きていればいろんな問題や災難は必ずあります。因果(いんが)の二法(にほう)を説く法華経は、苦難(くなん)が発生するのは自分の犯(おか)した罪(つみ)によるものですが、妙法を深く信じ、お題目(だいもく)を唱(とな)えてゆけば、大難(だいなん)が小難(しょうなん)、小難(しょうなん)が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができます。更に、自分を高めるためには、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても重要となります。三徳の実践は、私たちの人格を高めてくれます。益々のご精進で『すばらしき人生』へと高めて参りましょう。
合 掌