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世界平和を
大樹
すばらしき人生83

十一月を霜月(しもつき)と申します。最近では霜(しも)が降(お)りる現象は非常に少なくなりました。ここ数年冬場は暖冬が続き過ごしやすくなりました。五十年前の気候と現在では大きく変化しております。私が小学校の時には雪が五十センチ程積もりました。しかし、最近は、雪は降っても積もることはありません。


 夏暑く冬暖かくなったということは、地球温暖化(ちきゅうおんだんか)が進んだということです。温暖化には温室効果(おんしつこうか)ガス、つまり二酸化炭素などが増えているため気温が上昇してしまう現象をいいます。また、海水温も上がっているため、台風の巨大化やゲリラ豪雨(ごうう)、また竜巻(たつまき)などの被害も増えております。気候変動危機(きこうへんどうきき)に対する考え方を一人ひとりが持たないといけないと思っております。


 秋季彼岸先祖法要会には多くの信者の皆さまにお参りを頂きありがとうございました。私たちは、先祖に感謝と供養をすることで護られます。常に先祖を敬うこころがとても大切です。法華経の考え方を親から子へ、子から孫へと伝えることが私たちの重要な使命と思っております。


 そして、今月は立教四十六年祭を執り行います。ご来賓の先生方の挨拶から法話、演芸へとすすみ、最後にはクライマックスの餅投げを開催します。大いに楽しんで頂きたいと思います。どうかご参詣の程よろしくお願い致します。


 私がサラリーマンの時でした。四国に勤務をしておりました。社員はみな優秀で甲乙つけがたい人ばかりでした。平均年齢が三十歳ぐらいと比較的若い集団でした。まだ三年目のTさんはとても優秀でした。その二歳年上のKさんも優秀でしたが、多少問題もありました。Tさんは性格面ではとても明るく人なつっこい人でした。しかし、Kさんは反対に暗い性格でしたが、与えられた仕事は無難(ぶなん)にこなしておりました。


 ある日、支店会議で計画の積(つ)み上(あ)げをしていた時に、彼の消極性(しょうきょくせい)が出てしまったのです。通常営業マンは計画に対して積極的(せっきょくてき)に積み上げを行うのに対し、その反対の行動をとったのです。このようなことを一般的には「足並(あしな)みがそろわない」といいます。二十名の部下の中のたった一人の言動が気まずい雰囲気(ふんいき)をつくってしまったのです。


 世の中には自分に正直に生きることが、とても大切であることは誰(だれ)しも承知(しょうち)です。しかし、自分が計画を減らせば、誰かが増えるこの社会の仕組みでは、ある程度のところで妥協(だきょう)しないとチームメイトからの反発は免(まぬか)れません。


 こんな感じでとてもマイペースな性格なので、医者に対しても同じ対応をとると、とても悪い結果になってしまいます。案(あん)の定(じょう)、彼はO病院という重点施設の先生を怒らせてしまったのです。


 マイペースで後(うし)ろ向(む)きな性格の彼が、微妙(びみょう)に変化する先生の意向(いこう)にそぐわなかった結果を生んでしまったのです。ある日、先生より呼び出しがあり訪問させてもらい、こっぴどく叱(しか)られた経験(けいけん)がありました。


 彼とは対照的(たいしょうてき)に優秀(ゆうしゅう)なTさんは、とても前向(まえむ)きな性格で、どんなことでも貪欲(どんよく)に取り組んでおりました。そして、私はその性格が気に入りK大学病院を担当させました。I教授(きょうじゅ)にとても懇意(こんい)にしてもらい、何回か訪問させて頂きお話を頂戴した時も、先生のTさんに対する態度(たいど)や視線(しせん)に彼の努力の成果を垣間見(かいまみ)ることができました。


 人間は人それぞれに仕事への取り組み方はあると思います。しかし、相手に感動(かんどう)を与えることができる内容でないと大きな成果(せいか)は期待(きたい)できません。ものごとへの対応の仕方ひとつでよくもなれば悪くもなります。


 成功を収めるためには、自分にあって他人にないもの、他人にあって自分にないものを知らなければいけません。要は自分の長所(ちょうしょ)、短所(たんしょ)を知らなければいけません。そして、それが分かれば長所をさらに伸ばし、短所を長所に変えてゆくことです。意外と人間は自分のことを知らないものです、なぜならば、物事(ものごと)を主観的(しゅかんてき)に見る癖(くせ)があるからです。絶対(ぜったい)に自分は正しいと勘違(かんちが)いをしているのです。


 成長するためには、大きな広いこころと、すべてを受け入れる覚悟(かくご)が必要です。そして、客観的(きゃっかんてき)に物事を見る習慣(しゅうかん)を身につけることです。さらに、難題(なんだい)を恐(おそ)れずに体当(たいあ)たりするぐらいの覚悟(かくご)と勇気(ゆうき)が必要なのです。そうすれば、どんな課題(かだい)も克服(こくふく)することが可能となるでしょう。


 お釈迦さまは、こころの状態(じょうたい)と体の状態には密接(みっせつ)な関係(かんけい)があると言われております。健康(けんこう)のためには、明るいこころ、謙虚(けんきょ)なこころが必要です。逆にどんな形であれ高慢(こうまん)は体に悪い影響(えいきょう)を与えてしまいます。それは猛毒(もうどく)です。自分のこころの毒で自分自身が負けてしまうのです。


 私たちの体にはいろいろな猛毒があるのだとお釈迦さまは言います。嫉妬(しっと)、怒(いか)り、高慢(こうまん)、苛立(いらだ)ち、憂(うれ)いなど、そうしたこころの働きはすべて猛毒です。ですから、いくらすばらしいお医者さんの治療を受けても、そうした毒がある場合、病気はなかなか治りません。どんなに体に良い食べ物を食べても、こころが汚(きたな)い人は、食あたりをおこして病気になってしまいます。


 こころさえ清(きよ)らかになれば、今、私たちが苦しんでいる病気のほとんどが消えてなくなります。たとえ病気になったとしても、こころが清らかな場合は、少し薬(くすり)を飲めばすぐによくなるようになっていきます。


 こころと体の関係を理解(りかい)しないといけません。体というものはこころによってつくられております。これは大切なことなので繰(く)り返(かえ)しますが、私たちの体は自分のこころがつくっているのです。


 では、体とは一体なんでしょうか。体というのは、ヤドカリの貝殻(かいがら)と同じで、一時的にこころが使っている物体(ぶったい)にすぎません。一時的に使うために、こころがつくったものなのです。しかし、人間の体というのはただの物体ではありません。機械(きかい)ではないのです。機械は物質的(ぶっしつてき)なエネルギーだけで動(うご)いています。たとえばエアコンは電源(でんげん)を入れたら動きます。故障(こしょう)したら部品(ぶひん)を変えれば直ります。けれども体の場合は、物質的なエネルギーだけで動いているわけではありません。物質的なエネルギーだけでは足りません。もう一つのエネルギーが必要です。そのもう一つのエネルギーがこころなのです。ここが単なる物体と人体の違(ちが)いです。


 では、こころとはなんでしょうか。こころは魂(たましい)ではありません。こころは精神的(せいしんてき)なエネルギーです。つまり精神的なエネルギーが、私たちの体をつくっているのです。だから、私たちのこころ、すなわち精神的なエネルギーによって生きているのです。そして、こころのエネルギーは、物質的(ぶっしつてき)なエネルギーよりはるかに強烈(きょうれつ)です。


 人間が死に瀕(ひん)した時でも、さまざまな医療器具(いりょうきぐ)で酸素(さんそ)や栄養(えいよう)を与えれば、ある程度(ていど)は生き続けることができます。しかし、長くは生きていられません。酸素と栄養という物質的なエネルギーだけでは、人間は生き続けることができないからです。こころのエネルギーがなければ、いくら栄養(えいよう)が足りていても細胞(さいぼう)はどんどん壊(こわ)れていってしまいます。逆に、食事がまったくなくて栄養がとれない状態(じょうたい)でも、こころのエネルギー次第(しだい)で、私たちはかなりの時間生き続けることができます。栄養をとらなくても体は、なかなか壊(こわ)れません。こころのエネルギーがあれば、私たちの細胞(さいぼう)は長く生き続けることができるのです。


 指を曲げたいと思って指を曲げる時、それは機械的(きかいてき)な動きでしょうか。そうではありません。まず指を曲げたいという意志(いし)があって、そのこころの命令(めいれい)によって指が曲がるのです。つまり、こころのエネルギーです。人は喋(しゃべ)りたいから喋るのであって、スピーカーのように機械的に音が出るわけではありません。心臓(しんぞう)が動くことも、肺(はい)が活動(かつどう)することも、すべて強烈(きょうれつ)なこころというエネルギーを必要とするのです。


 こころという、その強烈なエネルギーが汚(よご)れたらどうなるでしょうか。仏教で「滋養素(じようそ)」という体を養(やしな)う栄養素(えいようそ)は四種類あるのですが、一種類だけが物質的(ぶっしつてき)なエネルギーで、あとの三種類はこころのエネルギーです。つまり、その大切な栄養素が汚(よご)れて毒(どく)になったら、当然体は壊(こわ)れてしまいます。私たちが毒を食べれば、体が壊れるのと同じです。従いまして、こころが汚れれば、病気になってしまいます。


 ストレスからいろいろな病気になることは、みなさんもよくご存じのことでしょう。いくら仕事が難(むずか)しくても、別にストレスをため込む必要はありません。「難しいな、これはできなくても仕方がない」と軽(かる)く捉(とら)えてリラックスすることです。余計なストレスをため込むのは、自分のこころです。自分が自分のこころと体に毒(どく)をつくっているのです。


 では、どのようなこころの働(はたら)きでこころは汚(よご)れるのでしょうか。一番こころが汚れるもとは、高慢(こうまん)です。わがまま、そして自分は偉(えら)いのだ、自分は何々(なになに)さまだと自分の立場(たちば)だけで考えるこころです。会社で上司(じょうし)に叱(しか)られたら、腹(はら)を立てる。それは自分が偉(えら)いと思っているからです。高慢(こうまん)から怒(いか)りが生まれるのです。「何も社員みんなの前で、あんな言い方をしなくてもいいじゃないか。まだ社員になって間もないし、経験(けいけん)も浅いのだから、そんなこと解(わか)るはずがないじゃないか」と腹を立てていると、胃酸(いさん)が出てきて不快(ふかい)になります。それとは逆に何を言われてもいくら叱られても動じることなく、「言いたい放題(ほうだい)言(い)えばいい」と思えばよいのです。喧嘩(けんか)をするのも、高慢(こうまん)だからです。「何よあんた、私に向かってなんてこと言うの」と腹を立てる。そうした高慢は病気のもとになります。高慢から怒りが生まれます。怒りというのは、ほんのわずかな怒りであっても、体に毒とし残ります。


 こころが変わるたびに生き方が変わって、体も変わってしまう。そのたびに健康も良くなったり悪くなったりします。ですから同じこころでも、それが少しでも変わると毒(どく)になったり薬(くすり)になったりするのです。こころが毒になったら、いくらお医者さんが正しい治療(ちりょう)をしたとしても、病気は治(なお)りません。あるいは治るのがとても遅(おそ)くなります。風邪(かぜ)をひいても、落(お)ち着(つ)きがある人はすぐに治ります。落ち着きのない人はなかなか治りません。こころを落ち着かせ平常心(へいじょうしん)で生きていればいいのです。


 では、どうやって明るく清(きよ)らかなこころをつくればいいのでしょうか。「嫉妬(しっと)をするな、怒(おこ)るな」と言われても、嫉妬する癖(くせ)のある人は嫉妬するし、怒る癖のある人は怒ってしまいます。高慢(こうまん)なこころはなかなか直りません。「直せ」と言われても、直りません。ですからそこには何か工夫(くふう)が必要です。


 こころを清(きよ)らかにする一番の方法は、慈悲(じひ)のこころをつくることです。私たちは、いついかなる時でも「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱(とな)えることが大事です。必死になって唱えれば、慈悲(じひ)の言葉(ことば)の力で徐々にこころがきれいになって参ります。


 言葉には強いエネルギーがあります。人にやさしい言葉や美しい言葉をかけると、相手もどんどん気持ちがよくなり二人の間にはきれいな波動(はどう)が生まれます。逆に、相手を罵(ののし)ったり傷(きず)つけたりする言葉を発すると、相手はこころを閉(と)じて怒(いか)りの波動を出してきます。汚(よご)れた言葉は悪い波動を出して、自分もまたどんどんこころを汚していくのです。


 このように言葉にはエネルギーがあります。きれいな言葉はこころを清らかにします。慈悲の言葉を唱える習慣(しゅうかん)がつけば、汚れたこころはどんどんきれいになります。そして、自分のこころをコントロールすることができるようになります。怒(いか)りや嫉妬(しっと)を消(け)すことができるようになるのです。慈悲のこころが人生を変えます。こころをきれいにさせることが、自然と体の健康(けんこう)に繋(つな)がっていくのであります。


 教祖・杉山辰子先生は法華経を深く信じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱(とな)えれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰(おお)せです。そして、その功徳で大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)に罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)できると仰せです。『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)を実践(じっせん)することがとても大事です。


 私たちも教祖さまの仰せの妙法を唱えることと、三徳の実践により自分を高める努力が必要です。日々のご精進(しょうじん)が必ずや『すばらしき人生』へと導(みちび)いてくれるのであります。


合 掌


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