早いものでもう一年が終わろうとしております。十二月は師走(しわす)と申しまして、あっという間に一か月が過ぎて行きます。信者の皆さまには一年間大変お世話になり有難うございました。来年も引き続きよろしくお願いいたします。
今年のノーベル平和賞はエチオピアのアビー・アハメド首相に決まりました。彼は対立する民族間(みんぞくかん)の融和(ゆうわ)に尽力(じんりょく)されましたが、一方では自由と民主主義の融和は皮肉にも新たな民族対立の呼び水になったそうです。
スウェーデンの高校生で十五歳のグレタ・トゥーンベリさんは地球温暖化防止対策(ちきゅうおんだんか ぼうしたいさく)として「気候変動(きこうへんどう)ストライキ」を週一回学校で行いました。それが話題となり世界中の学生がストライキをおこし大きなうねりとして波及(はきゅう)しております。ダボス会議でも堂々としたスピーチで参加者を驚(おどろ)かせていました。私は個人的にはノーベル賞をあげたいのですが、ノーベル財団としては、まだ十五歳という若さと、環境問題(かんきょうもんだい)として良い側面(そくめん)と悪い側面があったのではないでしょうか。
地球温暖化の原因となる温室(おんしつ)ガス効果(こうか)により海水温(かいすいおん)が上がり、気候(きこう)に変化をもたらしているというのが最近の論調(ろんちょう)です。人間一人ひとりが真剣に取り組めば必ず温暖化を防止することができます。私たちはそういう覚悟(かくご)をもって取り組むべきではないでしょうか。
私がサラリーマンだった時のことです。私は静岡で責任者をしておりました。人間にはいろんなタイプがあります。十人十色と言いまして顔が違うように性格(せいかく)や人格(じんかく)や気質(きしつ)が違います。仕事の仕方やアプローチもみな違います。その違いを人は個性(こせい)と呼んでいます。
私の部下のAさんは、大学で臨床検査(りんしょうけんさ)の学部を卒業され、医療関係(いりょうかんけい)ではその専門知識(せんもんちしき)をフルに活用(かつよう)ができたのですが、入社二年目で退社(たいしゃ)してしまいました。私が仕事の仕方やスキル〔技能(ぎのう)〕を指導(しどう)しましたが、控(ひか)えめな性格が邪魔(じゃま)をして仕事の流れを悪くしてしまったのです。
突然、彼は会社が悪いと言い出したのです。以前、私たちが苦労して作り上げた企業理念(きぎょうりねん)があり、その企業理念と現実(げんじつ)が違うと言い出したのです。理想(りそう)と現実が違うのはどこでもあることで、企業理念とは最終的にこうなるべき目標であり、あるべき姿となる大きな指標であります。
彼は、悪いことはすべて人のせいにする人間だったのです。私が指示した仕事がうまくできないと、人のせい、つまり会社のせいにしてしまうのです。このような後ろ向きで控えめな性格と、このような考え方では良い仕事はできません。
何でもそうですが、すべては自己責任(じこせきにん)なのです。人が悪いと思う人間は成長できないのです。すべて人の責任にしていたら伸びるわけがありません。どんな会社に入っても同じ過(あやま)ちを繰(く)り返(かえ)すだけです。
また同じようなケースですが、私より二つ年上の部下がおりました。Wさんは、私が年下なので、少し斜(しゃ)に構(かま)えたところがあり、あまり素直(すなお)ではありませんでした。この方も後ろ向きでマイペースな仕事ぶりで、あまり成績(せいせき)は良くありませんでした。
年配なので細かいことを指導(しどう)すると彼のプライドを傷(きず)つけてしまうことになります。ですから、大まかなところで指導し本人の自己責任という部分を強調(きょうちょう)しておりました。こういうタイプは、年齢もそこそこなので変えることができないのです。自分という意識(いしき)が強く自分の殻(から)の中で判断し行動しているのです。おそらく死ぬまで変わることができないでしょう。そして、四十代後半で転職(てんしょく)していきました。
最初から仕事がすごくできる人なんていません。あの人は才能(さいのう)があるといわれる人でも九十九パーセントの努力(どりょく)の結晶(けっしょう)であると思います。まず仕事ができることに感謝し、楽しんでしなければ長続(ながつづ)きしません。そして、失敗(しっぱい)と成功(せいこう)を繰(く)り返す間にいろんな知恵(ちえ)ができるのです。
駄目(だめ)になる場合は学生時代までに失敗経験(しっぱいけいけん)のない人が、働くようになって失敗すると立ち上がれないぐらいダメージを受けます。現実にそれで会社を辞(や)める人もいます。「失敗は成功のもと」と言われておりますが、失敗から何かを学ばなければ、失敗はただの失敗で終わってしまいます。
仕事も人生も前向きに生きることです。すべては自己責任(じこせきにん)であるということが、腹(はら)に落(お)ちていないと駄目です。そうすれば必ず良い流れに入っていけます。物事を成功させる感(かん)と力と行動が証明してくれるのです。
人生はすべて仏教的な人生観(じんせいかん)で物事を判断(はんだん)する必要があります。ストレスが現代人のかかる病気の大きな原因(げんいん)だといわれております。病気の原因のおよそ九割がストレス〔心因(しんいん)〕だという見解(けんかい)さえあるほどです。
日本は特にストレス社会といわれ、幼稚園(ようちえん)に入るためのお受験(じゅけん)もあります。小学校、高校、大学とストレスばかりです。仕事をするようになると、さらにストレス。結婚(けっこん)すればまたストレス。子供ができたらまたストレス。本当にきりがありません。定年(ていねん)になったら、やることがないといってまたストレスがたまってしまいます。
ストレスが癖(くせ)になっているのです。「仕事が多くてそれがストレスだ」と言う人に、では休んでくださいと言うと、「退屈(たいくつ)だ」と言ってまたストレスを感(かん)じてしまいます。人間は静(しず)かに何もしないでボーッとして休むことができないので、何もしないとかえって苦痛(くつう)になります。三十分間何もしないでくださいと言われたら、ものすごくイライラするでしょう。本当なら、三十分間静かに過(す)ごすことができれば、ストレスはたまらないものですが、とてもイライラして、結局(けっきょく)ストレスがたまってしまいます。
考えることも寝(ね)ることも何もしないでただじっとしていること、それができると、こころを癒(いや)すことはとても簡単(かんたん)です。黙(だま)ってじっとしていることができればこころの汚(よご)れ、こころの疲(つか)れはすぐに治(なお)ります。
ではストレスがたまらないようにするためにはどうすれば良いかという問題を考えてみましょう。まず必要なことは、自分は不完全(ふかんぜん)でいいのだと認(みと)めることです。私たちは大した存在(そんざい)ではありません。ロクな人間でもないし、美人でも、頭が良いわけでもないし、知識人(ちしきじん)でもありません。「大したことができるわけでもないけれども、それなりに頑張(がんば)っている」と考えることが一番良(いちばん よ)い考え方です。適当(てきとう)に、ほどほどに頑張っているという考え方です。
会社で出世しなければならない、完璧(かんぺき)に仕事をしなければならないと頑張ったらすごく苦(くる)しくなります。完璧を目指(めざ)して頑張ると、こころは苦しくなります。まあそれほどでなくてもいいかと肩(かた)の力を抜(ぬ)けば、苦しみは少しずつ消(き)えてまいります。
この世の中に、完璧な仕事などありません。今までに誰一人(だれひとり)として完璧(かんぺき)になった人間などはいないのです。みなほどほどなのです。それなのに、なぜかこころの中で自分の虚像(きょぞう)をつくり、自分に嘘(うそ)をつこうとします。
「ものごとはほどほどで良い、完璧にはできない」と正直になれば良いのです。しかし、どうしても人間は限りなく完璧を求めてしまう。自分だけはしっかりとできると思い込んでしまうのです。
会社でも、家庭(かてい)でも同じですが、人間が完璧(かんぺき)に何かができるなどということはあり得(え)ません。完璧に何かをしようとすることは、不自然で、非現実的(ひげんじつてき)です。「不完全(ふかんぜん)でいい、でもいい加減(かげん)ではない、これが私の精一杯(せいいっぱい)だ」というのが一番すばらしい生き方なのです。まわりから評価(ひょうか)をうけるのは精一杯という態度(たいど)であって、完全な仕事ではないからです。
完全な子育(こそだ)てなど、けっしてできません。完全な子供を育てようなどとしたら、かえってひどいことになってしまいます。社会が必要としているのは、精一杯頑張(せいいっぱい がんば)って子供を育てる母親です。その結果がどうであれ良いのです。そのことを子供は見ています。お母さんが一生懸命に頑張ってくれているから自分も頑張ろうと思うのです。完全主義(かんぜんしゅぎ)、完璧主義(かんぺきしゅぎ)という病気を、まず自分のこころから追い出してください。
完璧にするのではなくて、自分にできる最善(さいぜん)を目指(めざ)して精一杯頑張ることです。それを誰かに非難(ひなん)されても別に気にする必要はありません。自分が精一杯に仕事をしていれば、上司に文句を言われても気にする必要はありません。上司に「君、ここがちょっと駄目(だめ)じゃないか」と叱(しか)られても落(お)ち込(こ)まなくても良いのです。なぜかというと、自分は精一杯したのだから、それはそれで良いのです。叱られたとしても「そうですか、すみませんでした」と言って終わってください。頭のいい上司なら、この人は精一杯頑張ったのだからそれで十分だと考えます。もしそれ以上の仕事をしてほしかったら、上司のほうでほかの部下に頼(たの)むべきだったのです。
これは、レベルの高いあきらめのような気持ちです。私たちは、「人間は不完全である」という高度なあきらめのような心構(こころがま)えを持(も)たなければならないのです。
次に考えてほしいことは「人生というのはどう頑張(がんば)っても結構苦(けっこう くる)しいものだ」ということです。日本は第二次世界大戦に敗北(はいぼく)して、大変な思いをして経済成長(けいざいせいちょう)を遂(と)げてきました。経済的には、日本は現在、世界の第三位に入っております。それで人々は本当に幸福になったでしょうか。物質的(ぶっしつてき)にはとても恵まれておりますが、それで幸福でしょうか。相変(あいか)わらず悩(なや)みや問題(もんだい)は多くあります。経済状態とは関係なく、人生というものは大変なのです。
戦後(せんご)の食糧難(しょくりょうなん)の時代には、食べるものさえあれば、豊(ゆた)かであれば、私たちは幸せになれると信じておりました。しかし、それは勘違(かんちが)いなのです。いくら物質的(ぶっしつてき)に豊かになっても、私たちから悩みは消えません。家庭内暴力(かていないぼうりょく)や離婚(りこん)など家庭の中も問題は数多くあります。
日本は世界一知識(ちしき)レベルが高いといわれております。それならば、なぜあれほど必死になって勉強をしなくてはならないのか。本当に知識レベルが高いのなら、狂(くる)ったように勉強(べんきょう)をする必要はないのです。もっとゆったりと普通に勉強すれば良いと思います。そうでないと、ストレスになってしまい、結局、体調(たいちょう)を崩(くず)す原因となってしまいます。
現実(げんじつ)に目をやると、一生懸命勉強(いっしょうけんめい べんきょう)しても、結局どこかの会社のサラリーマンになって、仕事をして、結婚して、子供を育てて、それで人生が終わってしまうだけのことです。
いくら一生懸命頑張っても、最後(さいご)は虚(むな)しいものです。必死になって自分の命も惜(お)しまないと思って子供を育てても、子供が大きくなったらどうなるでしょうか。親などは必要なくなってしまいます。歳(とし)を重(かさ)ねて病気になっても子供は頼(たよ)りにならないのです。
結局、人生は虚しく、苦しいものです。そのことを理解(りかい)して、納得(なっとく)することです。そして、力を抜(ぬ)いて、気楽(きらく)に生きることがとても大事です。体にストレスをためてまで必死になって生きる意味(いみ)はありません。
お釈迦さまは、客観的(きゃっかんてき)にものごとを見ることの大切さと、謙虚(けんきょ)に生きる心構(こころがま)えが重要と仰(おお)せです。「なるようにしかならん、今をせつに生きよ」と言われるように今日を一生懸命に生きなさいということです。長いようで短い人生を、リラックスして、これが自分の精一杯(せいいっぱい)という生き方をすることが最高(さいこう)の人生になることでしょう。
教祖・杉山辰子先生は法華経を深く信じて信じて信心(しんじん)して行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱(とな)えると護(まも)られると仰せです。そうすれば不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができると仰(おお)せです。三徳(さんとく)『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践(じっせん)が大事であります。三徳を実践すれば自分のこころが育ちます。自分の人格(じんかく)を高めるためにもこころを育てることが大事であります。
生きていれば人生にはいろんなことがおこります。良いことも悪いこともすべて因果(いんが)の二法(にほう)によって現(あらわ)れます。この法華経を信じて、お釈迦さまを信じて、教祖さまを信じて生きることが大切です。
法華経は私たちの生き方、すなわち、どのように生きたかがとても重要(じゅうよう)であると説かれております。法華経に出会えたことに感謝(かんしゃ)し日々精進(ひびしょうじん)すれば必ず『すばらしき人生』となることでしょう。
合 掌