新年あけましておめでとうございます。令和二年がスタートします。元年はどんな年でしたでしょうか。今年一年、皆さまにとって善き年になるよう祈念いたします。
平成から令和へと時代が移(うつ)り、天皇陛下が皇位継承(こういけいしょう)にともない、一世(いっせい)に一度だけ行う皇室伝統(こうしつでんとう)のおおがかりな神事(しんじ)、大嘗祭(だいじょうさい)が十一月十四日夕から翌日夜明け前まで皇居・東御苑(ひがしぎょえん)で古式ゆかしく行われました。新天皇が神々に新穀(しんこく)をお供えし、国家・国民の安泰(あんたい)と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る。奈良時代以前から続く皇室行事(こうしつぎょうじ)をニュースで拝見(はいけん)し、この神秘的(しんぴてき)な行事に触(ふ)れたことに感動(かんどう)しております。
めでたい行事とはうらはらに、台風による各地の被害(ひがい)も多くありました。集中豪雨(しゅうちゅうごうう)で河川(かせん)の氾濫により家が流された方々や、風速五十メートル以上の風で瓦(かわら)が飛んでしまった家もありました。自然の力の大きさに改めて驚(おどろ)きました。私たちは地震(じしん)だけは防ぎようがありませんが、台風の風や豪雨(ごうう)には対応できると思います。避難勧告(ひなんかんこく)や指示(しじ)が出たら素早(すばや)く身を護(まも)る行動をとるようにしないといけません。どうか自然災害を甘く見ないように心掛(こころが)けてほしいと思います。
私がサラリーマンの時でした。医薬品流通会社で働いていました。某県立病院を担当しておりT薬剤部長(やくざいぶちょう)さんに懇意(こんい)にしてもらいました。ある日、先生より白衣(はくい)を着なさいと言われ、調剤(ちょうざい)の手伝いをしてほしいと言われました。私は薬剤部の一員となって薬局のお手伝いをしました。
私はただ、個々の処方箋を見て薬剤を調剤するだけです。粉薬(こなぐすり)はできませんので薬剤がシートに入っている薬だけをお手伝いしました。もちろん最終的(さいしゅうてき)に検品(けんぴん)は部長もしくは薬剤師の先生方が行います。
人間とは不思議なもので白衣を着ると、凜(りん)とした感覚(かんかく)になります。緊張感(きんちょうかん)があるというか、失敗できないという感覚(かんかく)が張(は)り詰(つ)めておりました。
人間関係をつくることはたやすいことではありません。たまたま担当していた時に私が結婚(けっこん)し、その写真など持って訪問したことがきっかけとなり仲良くしていただきました。
ある日、病院に新製品(しんせいひん)を収(おさ)める入札(にゅうさつ)というチャンスが来ました。精神科(せいしんか)の薬は安定的に処方(しょほう)されるため将来性があります。先生からメーカーを呼びつけ、私のところに帳合(ちょうあい)をつけるようにとの意見を言って下さいました。お蔭さまで、その新製品を納入することができました。
公務員(こうむいん)である薬剤部長が一個人のために危(あぶ)ない橋(はし)を渡(わた)り協力してもらえるのは、とても光栄なことです。そして、そんなことは殆(ほと)んどない稀(まれ)なケースです。先生のこころを一ミリでも動かしたことが一生の宝(たから)となりました。
人間というのは誠実(せいじつ)で正確(せいかく)でないと認(みと)めてもらえません。根本的に正確が合わないケースは別として、真面目(まじめ)にコツコツと実行(じっこう)すれば、いつか必ず評価(ひょうか)を頂(いただ)けるものです。そのことを理解(りかい)し、いつまでも耐(た)えることができる人が勝者なのです。
そして、「人生勝つことより負けないこと」がとても重要なのです。仕事をしても良い成績(せいせき)を残そうとすればするほど、うまくいかないケースが多いものです。人生は、勝たなくても、負けなければ良いのです。
負けないということは、自分に勝つということです。どんなことがあっても、とにかく生きること、たとえ恥(はじ)をさらしたとしても強く生きることです。人生、負けないように前向(まえむ)き生きることが極(きわ)めて重要(じゅうよう)なのであります。
さて、究極(きゅうきょく)の幸福(こうふく)とは一体なんでしょうか。歳(とし)を重(かさ)ねるといろいろな器官(きかん)がどんどん老化(ろうか)してしまいます。たとえば、腎臓(じんぞう)が故障(こしょう)すると、腎臓の病気だと思い治療(ちりょう)をします。しかし、本当の病気は歳を重ねることによる老化なのです。このような考え方で、「病気が消えて完全な健康体になった」状態(じょうたい)の定義(ていぎ)は、「歳を重ねなくなった」ことになってしまいます。つまり時間(じかん)の流(なが)れが止(と)まったということです。
時間が止まるとどうなるのでしょうか。時間の流れが止まった瞬間(しゅんかん)に、私たちは終(お)わります。時間の流れがなくなったということは、すべてが止まってしまったということです。それは、変化(へんか)がなくなったということであり、体の変化もなくなってしまったわけですから体の成長(せいちょう)も破壊(はかい)も、それらを動かす機能(きのう)そのものも稼働(かどう)しないということです。ですから、私たちは存在しないという理屈(りくつ)になります。体というのは動くから、変化するから存在しているのです。変化するから人間の体も、地球や宇宙も存在していると言えます。
時間の流れが止まって、歳を重ねない状態(じょうたい)になり永遠(えいえん)の健康(けんこう)を手に入れたとしても、その瞬間(しゅんかん)から自分という存在が無(む)に帰(き)してしまうのです。従って、完璧(かんぺき)な健康や歳を重ねないということはあり得(え)ません。
しかし、「時間は止めることができる」と、仏教では説いております。これはどういうことでしょうか。この自然界(しぜんかい)のあるいは宇宙の法則(ほうそく)の流れというか、物質(ぶっしつ)の消滅変化(しょうめつへんか)していく流(なが)れ、こころがずっと変化していく流れを止めることができると、仏教は教えております。
たとえば、なぜ地球(ちきゅう)は自転(じてん)し、さらに太陽の周りを公転(こうてん)しているのかという問題です。この動きには何かものすごいエネルギーのからくりがあります。それは、ものすごいエネルギーかもしれないけれど、そのエネルギーさえ消滅(しょうめつ)させてしまえば、もう自転も公転もしなくなってしまいます。
これは私たちの体の流れも同様(どうよう)です。私たちの体の中にもいろいろエネルギーがあって、そのエネルギーが次から次へ、また次へと変えていく働(はたら)きをしています。それは必然(ひつぜん)のエネルギーの流れです。常に可能性(かのうせい)をもった潜在的(せんざいてき)なエネルギーが存在(そんざい)しているのです。
その潜在的なエネルギーが、次という変化の現象(げんしょう)をつくっています。私たちの細胞(さいぼう)はエネルギーによって動かされております。細胞内(さいぼうない)にあるミトコンドリアという小器官(しょうきかん)が酸素(さんそ)と結(むす)びついていろいろなエネルギーをつくりだしております。そのミトコンドリアの活動(かつどう)によるエネルギーのお蔭で私たちは、いつも活動することができるのです。ミトコンドリアの活動自体にもエネルギーが必要です。これは、エネルギーをつくりだすためにもまたエネルギーが必要であるという事実(じじつ)を物語(ものがた)っております。
細胞(さいぼう)の中にあるエネルギーが、変化(へんか)〔活動(かつどう)〕をすることによって新たなエネルギーをつくりだしている。それが、私たちが生きていられる原動力(げんどうりょく)になっているのです。
私たちは、いつでもこころの中に何かしらのエネルギーを持っています。いっときも休息(きゅうそく)することなく、何かを考えたり、何かしないといけないという、そのこころの働(はたら)きに促(うなが)されるようにして生きています。この「何かをしなくてはいけない」という感情(かんじょう)こそが、こころのエネルギーの素(もと)になって、私たちは行動しているのです。することが何もないという時、こころは暗(くら)くなり、落(お)ち込(こ)んでしまいます。そこで、こころに何かの刺激(しげき)を与えてその状況から脱(だっ)しようとするのです。
テレビを見たり、散歩(さんぽ)したり、読書(どくしょ)したり、ゴロンと横になって寝転(ねころ)んだりすることも、何かをしたいという行動欲求(こうどうよっきゅう)には違(ちが)いありません。とにかく何かをしようと思う。じっとしていられない、何かをしなくてはいても立ってもいられないというエネルギーがあるのです。
別の言い方をすれば、私たちは人と話をすることが好きです。しかし、その人と意見(いけん)が合わなかったり、自分と考え方が違ったり、あるいは自分の思いどおりにならなかったりすると、その相手を気に入らない、嫌(いや)だなと思うエネルギーでこころがいっぱいになってしまいます。
「なぜあなたは、私の言うことがわからないのか」とか、「そんな言い方はないだろう。もう少しこちらの言うことも聞いたらどうだ」「きみのその態度(たいど)はけしからん。失礼にも程(ほど)がある」などと怒(おこ)った瞬間(しゅんかん)に、新しいエネルギーが生まれています。そして、その新しいエネルギーが今度は、「もう彼とは口も利(き)かない」とか、「こんな無礼(ぶれい)な態度(たいど)は絶対(ぜったい)に許(ゆる)さない」などとさらに次の怒(いか)りのエネルギーをつくりだしていくのです。
人間のこころのエネルギーは、このように次から次へと、一つの考え方から次の考え方、さらに切れ目なく次の考え方へと流れてゆくのです。
そこで仏教の話になりますが、仏教ではその潜在能力(せんざいのうりょく)のエネルギーを少し消滅(しょうめつ)させておけば、時空(じくう)の流(なが)れがストップするのだと教えます。「ストップするのだから、あなたはそこで消えるが、消えたあなたが今度は永遠(えいえん)になれる。その状態(じょうたい)になって初めて究極(きゅうきょく)の幸福を味(あじ)わえる」と言います。その究極なる幸福感は二度と消えない至福(しふく)の時です。
しかし、この状態というのは第三者が確認(かくにん)できるような次元(じげん)の話ではないのです。体験(たいけん)しないとわからないことなのです。
たとえば、ここに一本のロウソクがあります。ロウソクに火をともすとロウソクは炎(ほのお)となって燃(も)え続(つづ)けます。この燃えている炎を、生き続けている自分と考えてみて下さい。なぜ、ロウソクは燃え続けているのでしょうか。ロウソクは自分で燃えることによって変化(へんか)のエネルギーをつくっているのです。
ロウソクが燃えるその炎の熱(ねつ)によって新しいロウを溶(と)かす。溶けたロウが芯(しん)を伝わって気化(きか)し、それによってロウソクが燃える。もやしたらまた火が出てくる。この繰(く)り返(かえ)しの連続(れんぞく)によって炎は生き続けているのです。同じ炎がずっとそこにあって燃え続けているのではなく、炎自体が変化することによって生き続けているのです。ほんの瞬間(しゅんかん)でも同じ炎ではなく、変(か)わって、変わって、変わって新しくなって燃えているのです。そこで、ロウソクの炎に新しいエネルギーが生まれないようにする。たとえば、酸素(さんそ)が入らないようにすれば、ロウソクの炎は消えます。
人間のこころの中にも、これと同じ生命を燃やすエネルギーがあります。その「ものすごい」と表現(ひょうげん)してもいいぐらい大きいエネルギーが、私たちの体をつくり、私たちはその中で「ああ、死にたくない」と言いながら死期(しき)が迫(せま)っていたり、「病気になりたくない、病気を治したい」と言いながら病気で苦しめられております。
炎は目に見えますが、人間の場合は非常に難(むずか)しく理解(りかい)できないことです。徹底的(てっていてき)に人生を苦(くる)しみ抜(ぬ)き、生きる苦しみ、生きる空(むな)しさを味わってみないとわからないものです。この教えは、生きることに対する未練(みれん)や、生きたい、死にたくないという執着(しゅうちゃく)があるかぎり理解できるものではありません。従って、その境地(きょうち)に至(いた)った人のことを、「悟(さと)った人間」というのです。
結局、人間はいつか必ず死を迎(むか)えます。この教えを信じて、深い真理(しんり)に目覚(めざ)めることが重要です。そして、この真理に裏付(うらづ)けられた生き方、すなわち「人生を明るく楽しく」生きることが、とても大事なのであります。
教祖・杉山辰子先生は、この法華経の力を深く信心して行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も、妙法蓮華経の五文字を唱えれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができる仰(おお)せです。そして、何より三徳(さんとく)『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』を実践(じっせん)することにより、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)させることができるのであります。
人間、生きていれば苦労(くろう)や嫌(いや)なことの連続(れんぞく)です。お釈迦さまは、すべての原因(げんいん)は自分にあると説(と)かれております。苦しみがあればそれは結果であって、原因となる自分の犯(おか)した罪(つみ)によるものです。
苦難(くなん)を乗(の)り越(こ)えて初めて罪障が一つ減るのです。乗り越えないで回避(かいひ)すれば同じ苦難がまた生まれます。妙法を根本とすれば乗り越えられない苦難はないとお釈迦さまは仰せです。このことを因果(いんが)の二法(にほう)を言いまして、妙法を信じて行動すれば必ず勝利できるのです。
私たちは、こころを清(きよ)らかにして生きることが望(のぞ)ましいのであります。そして、自分が「どんなふうになったか」ではなく「どのように生きたか」が大事であります。お釈迦さまは、「今(いま)を切(せつ)に生きよ」と言われました。今日一日を一生懸命に生きることで人格(じんかく)を高め『すばらしき人生』の流れに入ることがとても重要なのです。
合 掌