寒さの厳(きび)しい季節となりました。二月は如月(きさらぎ)と申しまして、まだ寒さが残っているため、衣(きぬ)をさらに着る月で衣更着(きさらぎ)という説があります。寒さに負けず風邪(かぜ)をひかないよう自己管理(じこかんり)されることが健康に生きることです。どうかご自愛(じあい)ください。
元旦祭には多くの信者の皆さまに、お参りを頂きありがとうございました。今年の短冊(たんざく)はいかがでしたか。この一年の目標がそこに記されております。善き短冊をひかれた方もそうでない方も目標通(もくひょうどお)りに精進(しょうじん)されれば、必ずよい結果を頂けると信じております。私どもも皆さまの今年一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。
二月二日は、節分厄除祈願祭でございます。今年一年、無病息災で過ごせるように厄払いをして体とこころを清めることが大事であります。そして釈尊涅槃会を二月十五日に執り行います。どうか、多くの信者の皆さまの参詣をお待ちいたしております。
さて、現在の世界情勢(せかいじょうせい)に目をやると、各国で反政府(はんせいふ)デモやストライキなどがいたるところで起きております。人権問題(じんけんもんだい)を含め人的(じんてき)な圧力(あつりょく)は、弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)を助長(じょちょう)しております。人が人の手でもって人を制圧(せいあつ)するということは、本来あってはならないことです。
アメリカとイランとの戦争危機(せんそうきき)も不安が残っております。そしてロシア、北朝鮮、中国などの共産圏(きょうさんけん)との問題まで拡大しつつあります。
一方、貿易面(ぼうえきめん)ではアメリカと中国の覇権争(はけんあらそ)いが根本となり問題を起こしております。大国(たいこく)のリーダーがそれぞれの国で自分のために、自分の地位(ちい)を守るために世界中を巻き込んで、それに人々が振(ふ)り回(まわ)されているというのが現状(げんじょう)ではないでしょうか。
人類(じんるい)はみな平等(びょうどう)であるという真理(しんり)を理解(りかい)しない、理解できないことが大きな問題をつくってしまうと私は思います。こんなつまらないことをしているよりも、地球温暖化(ちきゅうおんだんか)は毎日進行しております。世界規模(せかいきぼ)でこの重大なテーマを本気になって議論(ぎろん)し納得(なっとく)し実行(じっこう)することがとても重要な道だと思います。未来の子供たちのために今何をするべきかを、今すぐにでも行動をとらないといけないと思っております。
さて、世の中には成功する人とそうじゃない人がおります。仕事をする上で考えなければならないことはたくさんありますが、シンプルに考えると売り上げを伸(の)ばすために何をするべきか、ということをどのように捉(とら)えるかによって成功(せいこう)か否(いな)かが決まります。
会社のためなのか、自分や家族のためなのか、部下のためなのかと考えると、それは全部ですという答えが返ってくると思います。それは間違えではないのですが、正しいとも言い切れません。
本当はこう考えなければならないのです。すべては顧客(こきゃく)のためという考え方が根本(こんぽん)にないといけません。お客さまが満足(まんぞく)できなければ、良い仕事を継続的(けいぞくてき)に提供(ていきょう)することは不可能(ふかのう)となります。そういうちゃんとした信頼関係(しんらいかんけい)ができないといけないのです。
お客さまのために頑張(がんば)るということは、慈(いつく)しみなのです。そういうこころがすべてを良い方向に導(みちび)いてくれるのです。そうでないと、どこかで自分に負けてしまうことがあります。綺麗(きれい)ごとのように見えるかもしれませんが、そう思わないといけないのです。この世の中すべては人のためと思わないと成功できません。
護(まも)るものや抱(かか)えるものが自分の中にあると、それが重圧(じゅうあつ)となってしまいます。成功しよう、成功しようという思いだけが先行(せんこう)してしまうのです。このことが理解できた人が成功者であり人生の勝(か)ち組(ぐみ)に入れるのです。
口で言うことと、こころで思うことは現実的(げんじつてき)には違いはありますが、常に人のためになるという自負がなければ、どんなに良い仕事をして、売上を上げても、それは自己満足(じこまんぞく)であり成功とはいえないのです。法華経的に考えれば「慈(いつく)しみ」が相手を思うこころであり、その大きさにより結果はおのずと違(ちが)ってくると思います。
売り上げをいかに増(ふ)やしたかというよりも、顧客(こきゃく)にいかに満足(まんぞく)して頂いたかが。結果として売り上げを増やし成功者への道へと繋(つな)がって参ります。ものごと考え方ひとつで大成功(だいせいこう)へと導(みちび)いてくれる偉大(いだい)な力があるのです。
仏教の話になりますが、お釈迦さまは、慈悲(じひ)のこころと徳(とく)を積(つ)むことが大事と言われました。人間には治(なお)る病気(びょうき)と治らない病気があります。人間のこころが安(やす)らかであると、ほとんどの病気は治ります。ただ、なかなか治らない病気もあります。遺伝子的(いでんしてき)な障害(しょうがい)などはなかなか治りません。
この生まれつき遺伝子的な病気をつくったのは、自分自身のこころだといえるのです。人間の体には無数(むすう)の遺伝子があり、欠陥(けっかん)のある遺伝子が入って自分の現世(げんせ)の体がつくられたのです。それは仏教の立場から考えると、偶然(ぐうぜん)起(お)きた出来事(できごと)ではなく、自分のこころが行ったことです。このような欠陥のある遺伝子をつくってしまったら、それはどうすることもできません。
従って、体に不自由(ふじゆう)がある場合は、その体を他人の体と比較して病気だと思わないほうが良いのです。障害(しょうがい)は病気(びょうき)ではありません。本人にとってはそれが普通(ふつう)の体なのです。健常者(けんじょうしゃ)と思っている人々も障害をもって生まれた人のことを病人扱(びょうにんあつか)いしてはいけないのです。普通だと思わなくてはならないのです。
遺伝子(いでんし)の組(く)み合(あ)わせから障害(しょうがい)をもって生まれたら、その体は死ぬまで障害をもち続けなければなりません。だから、治らない状況にある人を病気というのは正しくありません。
最近の技術では、体に障害のある人が楽(らく)に暮(く)らせるようにいろいろ工夫(くふう)しています。例(たと)えば、視覚障害(しかくしょうがい)である場合は、医学的(いがくてき)に改善(かいぜん)する方法もあるでしょう。遺伝子研究(いでんしけんきゅう)が進んでいる現代では、一部の病気の遺伝子を変えることで治す方法も考えられております。
体の問題は治せる場合と、治せない場合があるにせよ、最初の段階(だんかい)で決まってしまったものです。その原因(げんいん)はこころにあります。ですから誰にも文句を言うことはできません。その病気や障害とうまく付き合うより方法はありません。病気や障害と付き合うとはどういうことかといえば、その病気や障害に対して怒(いか)りを持たずに安(やす)らかで穏(おだ)やかなこころになるということです。
生まれつきの体に欠陥(けっかん)があっても、それはたいしたことではありません。それは自分のブランドのようなものだと考えて、個性(こせい)の一つだと思えばいいのです。私は生まれつき足が悪(わる)い、目が悪いと、ありのままを受け入れれば、少し不自由(ふじゆう)はあっても、それを認(みと)めてしっかり生きている人々は、だれもが驚(おどろ)くくらいに堂々(どうどう)と元気(げんき)で生きているのです。
このような遺伝子的(いでんしてき)な病気(びょうき)や障害(しょうがい)は気にしないで下さい。覚悟(かくご)して受け止めれば、必ずそこに明るい道が開けていくのです。両手が不自由でも、口を使ってすばらしい絵(え)を描(えが)く人もいます。その人は絵を描くプロになって、堂々と元気に生きています。
遺伝子的な病気や障害を不幸だと思わないこと。自分のこころがそう決めてしまったことなのです。誰にも文句を言わずに明るくありのままを理解することがとても大事ではないでしょうか。
皆さんは、業(ごう)というと、暗いイメージを持たれるようですが、業とは本来、悪いことばかりではありません。私たちの幸福も過去(かこ)の業がもたらしているからです。不幸も同様に、過去の業(ごう)の結果(けっか)です。ですから、業とは「過去世(かこよ)の行(おこな)いの結果(けっか)」という意味で幸不幸(こうふこう)どちらも過去の行為(こうい)の結果なのです。
先ほどの遺伝子的な病気も過去世の業によるものだと考えられます。業による病気は、その人の性格の中に原因があるのではないかと思います。例えば、過去世の業の結果ガンになったとしたら、その人は当然、すごくわがままで、高慢(こうまん)で自分勝手で、人に迷惑(めいわく)をかけるような、そうした嫌(いや)な性格の人です。すごく不親切(ふしんせつ)だとか、残酷(ざんこく)で優(やさ)しいこころがない性格だと、やはり、「なるほど、こういう性格で過去世(かこよ)でもいろいろ悪(わる)いことをして、悪因(あくいん)をつくってしまった」とわかるのです。
善(よ)い行いをすることで、悪い業を減らす方法は、弱い人々を助けることです。いろいろな弱さの人がいますが、弱い人を優しいこころで助けてあげて下さい。動物も同じ生命ですから、助けるのは動物でも構(かま)いません。
知識がない人には、知識を与える。お金がない人には、お金を与える。ちょっとした話し相手が必要な人には、話し相手になってあげる。そうすると、過去の悪い業は、徐々に消えていきます。
弱い人を助ける時は、相手の負担(ふたん)にならないよう気を付けなければなりません。相手が申し訳なく、こころ苦しく思うとしたら、それは助けにはなりません。ですから、いつも気を付けて、相手のこころを慰(なぐさ)めるようにします。「私にやらせて下さい、ぜひ私がやりたいのです」というように前向(まえむ)きに行うとよいと思います。
道路(どうろ)を渡(わた)る時に目の見えない人を助けたら、向こうがお礼(れい)を言う前に、こちらから「ありがとうございます」と言うのです。お礼を言うべきなのは、こちらだからです。徳(とく)を積(つ)めたことを、相手に感謝(かんしゃ)して下さい。そこが大切なところなのです。そのこころがなければ、結果はあまり期待(きたい)できません。いろいろ善いことをしても、それが善(よ)い業(ごう)にならないのは、徳(とく)を積(つ)めたことを相手に感謝するこころが欠(か)けているからなのです。
誰(だれ)かを助(たす)けたとしたら、助けた人に、「ありがとうございます」とこちらから感謝する。そのように人々に優(やさ)しくして下さい。そうすれば、業による病気も徐々(じょじょ)に回復(かいふく)します。
悪(わる)い業(ごう)によって何か病気にかかったとすると、その悪い業に対する善(よ)い業をつくらなくてはいけません。仏教で大切なことは病人を助ける、困っている人を助ける、人の生き方を楽(らく)にしてあげるなど、善い行いをたくさんすることです。そうしてたくさんの善い行いを続けていけば、病気になった原因の悪い業に対して、それを治(なお)す善(よ)い業(ごう)ができてきます。要するに、常に善い行いをする人間になれば悪業因縁(あくごういんねん)が徐々(じょじょ)に減(へ)るということです。
仏教では、真理(しんり)に目覚(めざ)めることが大事であると説(と)かれております。真理を学ぶ道があるから、真理への道が開かれるのです。生きる苦しみや悲しみをなくし、こころを安穏(あんのん)な状態(じょうたい)になるように育(そだ)てるには、苦である生き方に苦しむ悪循環(あくじゅんかん)から脱出(だっしゅつ)することです。
それは、現実(げんじつ)をありのままに観察(かんさつ)することで見つけられます。「幸福を味わって下さい」とお釈迦さまは願(ねが)っておられます。幸福を味わうためには真理を知ることです。しかし、幸福(こうふく)は無知(むち)な人には味わうことができません。無知はいらずらに人を怖(こわ)がらせ、不幸にするだけなのです。
昔の人は、雷(かみなり)は神さまが落(お)とすものだと考えていました。雷が落ちると、許(ゆる)して下さいとお祈(いの)りしたものです。しかし、現代では科学的(かがくてき)な知識(ちしき)がありますから、雷は電気(でんき)だということがわかりました。そして電気をつくって自由に利用しています。それは知識のおかげで、ものの道理(どうり)を理解(りかい)しているからです。そのように、幸福はものごとを知っている人のみに得(え)られるのであって、無知は人には得られません。
真理(しんり)を知らずに、簡単(かんたん)に神さまにお願(ねが)いしたり仏さまにすがったりしている人は、幸福を味わうことはできないのです。それは宇宙(うちゅう)の法則(ほうそく)だから仕方(しかた)ありません。お釈迦さまの智慧(ちえ)すなわち仏智(ぶっち)を体得(たいとく)することが真理に目覚(めざ)めるということなのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱(とな)えると、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰(おお)せです。妙法を信心(しんじん)する深(ふか)さによって功徳(くどく)は大きく違(ちが)うと言われております。信心の強い人ほど大きなご利益(りやく)があるのです。そして大難(だいなん)が小難(しょうなん)、小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)することができると仰せです。そのためには日頃より三徳(さんとく)『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の実践(じっせん)がとても大事であります。
私たちは、教えを頭で理解するだけでなく、三徳の実践をしないと人格(じんかく)は高まりません。人格を高めるためには、まず、こころを育てることです。人間、一人ひとり顔が違うように、思考(しこう)、環境(かんきょう)、文化(ぶんか)、習慣(しゅうかん)とさまざまです。しかし、みんな人間としてのこころを持っております。そのこころを良い方向に育てるのは自分しかできないのです。
私たちはこのありがたい法華経に縁(えん)がありました。「一眼(いちげん)の亀(かめ)の浮木(うきぎ)の孔(あな)にあえるが如(ごと)し」と法華経にあるように、大海(たいかい)に住む亀(かめ)〔独眼(どくがん)〕が千年に一度、海面(かいめん)に浮上(ふじょう)する時、栴檀(せんだん)の木に巡(めぐ)り合うことの難(むずか)しさを言っております。それほど法華経に出会うということは難しいということです。私たちは法華経に感謝するとともに、三徳の実践を通じ良い運命になるための努力(どりょく)・精進(しょうじん)をすることで『すばらしき人生』へと高めてまいりましょう。
合 掌