PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生88

新年度(しんねんど)、新入学、新学期、新入社員とすべて新しいことの始まりです。心機一転(しんきいってん)、自分を大きく変えるチャンスがやって参りました。現実(げんじつ)と理想(りそう)をいかに近づけることができるかが、将来(しょうらい)の自分を決める大きな鍵(かぎ)となるでしょう。


 四月を卯月(うづき)といいます。その由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(はなつき)」を略したものというのが定説(ていせつ)となっております。いろんな生きものが活動を開始する時期です。私たち人間も、寒い冬が終わり夏に向けエネルギーを蓄(たくわ)えることが重要です。日本は四季があるから楽しいのです。体もメリハリがつき変化に耐(た)えることが長生きの秘訣(ひけつ)となるでしょう。


 今年は新型(しんがた)コロナウイルスが中国武漢市(ちゅうごく ぶかんし)からパンデミック〔世界的な流行〕として感染(かんせん)が拡大(かくだい)しました。持病(じびょう)のある方や高齢者はウイルスにより肺炎(はいえん)で亡くなるケースもありました。また、発症(はっしょう)していないキャリア〔感染者〕でも他人に感染するという厄介(やっかい)なコロナウイルスが一日でも早い終息(しゅうそく)が待たれるところです。


 先般は春季彼岸先祖法要会を開催させて頂きました。ご先祖さまの供養をして頂き誠にありがとうございました。全国的に広がる新型コロナウイルスのために、信者の皆さまには参拝を中止させて頂きました。今までこのようなことで祭事の参拝を中止したケースは一度もありませんでした。とても残念(ざんねん)なことです。


 四月八日(水)の「花まつり」は開催できると思いますが、政府(せいふ)の方針(ほうしん)や状況に応じて柔軟(じゅうなん)に対応していきたいと思っております。


 私がサラリーマンの時のことです。どんなことでも勝(か)ち組(ぐみ)と負(ま)け組(ぐみ)は必ずあります。みんな自分一人の力で成功できるかと言えばそうではありません。まさに勝ち組に入ることが重要です。勝ち組と言えば、いかに良い人間と出会うかなのです。運も実力のうちといいますが、良い人に出会うのは「縁(えん)」です。運というのは、いわゆる因縁(いんねん)なのです。


 私は、N部長との出会いが成功に繋(つな)がったと思っております。彼の口癖(くちぐせ)は「ダメ元(もと)でやれ」なのです。ですから、失敗してもいいから思い切りやりなさい、という器(うつわ)の大きな方でした。


 前任のK部長は、私が最初の半年間まったく患者(かんじゃ)が取れずに悩(なや)んでいた時、「壁(かべ)の花(はな)」になってはいけないと注意を受けました。入社当時は一生懸命に取り組みましたが、どうやって患者を増やすことができるかわかりませんでした。そこで、四苦八苦し、いろいろ考えていたのですが、そんな頃、突然、組織変更(そしきへんこう)がありK部長は西日本の統括部長(とうかつぶちょう)となり、後任にNさんが部長に昇格(しょうかく)されました。しかし、まもなくそのK部長はガンで亡くなりました。五十四歳という若さでした。


 私は、部長が代わって本当に助かりました。N部長に仕事のノウハウ〔手法(しゅほう)〕を教えてもらい自分が成長することができました。本当に今でも感謝しております。


 人間一人の力なんて、たかが知れております。いろんな人の智慧(ちえ)があり、その英知(えいち)を結集(けっしゅう)すること、そして、諦(あきら)めずに努力することで業績(ぎょうせき)を上げなければならないのです。負け組の人は、良くない人との因縁があるのです。因縁とは生まれた瞬間(しゅんかん)から定(さだ)められたものであると思います。しかし、環境(かんきょう)は自分で選択(せんたく)できます。良い環境になれば、良い人と出会うチャンスも増え、うまくいけば成功へと繋(つな)がります。


 仕事は成功することが一番大事でありますが、人生から見た成功者は「どのようになったか、ではなくどのように生きたか」なのです。自分の人生に悔(く)いのないように、一日、一日を大切に生きることがとても重要なのです。


 さて、私たち人間をはじめ生きとし生けるものは必ず死にます。形あるものもいつかは必ず壊(こわ)れます。この世の中に永遠不滅(えいえんふめつ)はあり得(え)ないのです。お釈迦さまは諸行無常(しょぎょうむじょう)を説かれました。世の中は常に変化していることを理解しないといけません。


 「死とは何か、死をどう捉(とら)え、どう死を迎(むか)えるべきか」を考えることはとても重要なことです。それは、「どう生きるのか、上手に生きるということはどういうことか」を考えることにほかならないからであります。


 「嫌(いや)」という一言が、すべての不満、苦しみ、怒(いか)りの発信源(はっしんげん)なのです。これまで生きてきて、話し相手や遊び仲間がいなくなって寂(さび)しい、食事をつくってくれる人がいなくなって不便(ふべん)だ、お金を持ってきてくれる人がいなくなって困(こま)った・・・などの理由で、死が嫌(いや)なものだという実感(じっかん)を私たちは体験(たいけん)してきました。そのうえ私たちは、自分が死ぬことも嫌だ、というふうに思っております。


 生きたいと思うエネルギー本質(ほんしつ)についてふれたいと思います。「自分が死ぬ」ということは誰しも経験のないことです。あくまでも推測(すいそく)ですが、実感(じっかん)はないはずなのですが、それでも「死」は嫌だと思うのはなぜでしょうか。


 人間には、ある指令(しれい)のシグナルが刷(す)り込(こ)まれているからです。その指令とは、「自分だけは死なない」ということなのです。自分の死だけは認めたくないのです。皆さん、自分の胸(むね)に手を当てて気持ちを確認(かくにん)してみてください。すべての生きとし生けるものに共通してある基本的(きほんてき)な本能(ほんのう)は、「私は死なない」ということです。


 人間がこうして生きていくエネルギーとはいったい何でしょうか。毎日、毎日必死になって生活を営(いとな)み、生きていくことは相当(そうとう)なエネルギーを必要とします。そのエネルギーとはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。


 それは、「生きたい、生きたい、死ぬわけにはいかない」という生命を継続(けいぞく)させるという本能なのです。これがエネルギーとなって、私たちのこころと、そしてこころを経由(けいゆ)して、生命体(せいめいたい)としても体とを維持(いじ)し続けているのです。生きる勇気(ゆうき)とか、一生懸命がんばる気持ちは、「私は死なない」という前提(ぜんてい)のもとから湧(わ)いてくるのです。


 このように、「私は生きていきたい」「死ぬのは嫌(いや)だ」というところから、人間はなんでも発想(はっそう)してゆきます。身内や仲間が死んだ時に味わった、その苦しみがいろいろな連相(れんそう)や想像(そうぞう)を生み出して、そこから「自分が死ぬのは嫌なことだ」という概念(がいねん)が生まれ、脳(のう)にインプット〔入力〕されるからです。そこから、「私は死なない」という、現実(げんじつ)とはまるで違(ちが)う、「歓迎(かんげい)すべき嫌(いや)ではない思考(しこう)」が生まれてくるのです。


 たとえば、末期(まっき)ガンにかかっても頭(あたま)はしっかりしているしちゃんと歩くこともできるという、いわばガンの部分以外はまったく正常な人に対する看護(かんご)はどうしたらよいのかというと、そうした人とはどんどん喋(しゃべ)ることが望(のぞ)ましいのです。会話に時間を十分に取ってあげてください。


 人間は死から目を離(はな)すことはできません。そもそも体はもともと自分のものではないと思うことが大事です。体も自分のものという執着(しゅうちゃく)があるから、その体を襲(おそ)っている痛(いた)みからなかなか離(はな)れることができないのです。この、痛みへの執着があるまま死ぬのと、痛みから自分が解放(かいほう)されて死んでいくのとでは大きな違(ちが)いがあります。


 従って、終末期看護(しゅうまつきかんご)の最大の役目(やくめ)は、いい死に方、つまり体への執着(しゅうちゃく)からいかに解放(かいほう)してあげるかにあります。体への執着から離れることができれば、痛みを客観的(きゃっかんてき)に観察(かんさつ)できるようになります。そうすれば痛みが少しでも和(やわ)らぐこととなります。


 さて、大昔、古代(こだい)の人間は太陽が沈(しず)む時間になると、お祈(いの)りをしたそうです。もし明日太陽が出てこなかったら大変なことになるので、どうか今日一日の私たちの罪(つみ)を許(ゆる)していただき、明日もお出ましくださいとお祈りをしていました。そうすると、その願いはちゃんと聞(き)き届(とど)けられて太陽は翌日もお出ましになるのです。


 今も日の出を見て両手を合わせて拝む人もおられます。人が生まれることも、また死ぬことも、同じ当たり前のこととして見ること、理解(りかい)することがまず必要なのです。


 どんな時もこころの落(お)ち着(つ)きはとても大事です。家を出る時に鍵(かぎ)をかけ忘れたとします。そうした場合あなたはどうしますか。もし、あなたが奥さんで、旦那さんにそのことが知られたらひどく叱(しか)られると思います。しかし、仏教の精神(せいしん)を理解している人なら、「なるほど、鍵をかけ忘れたから泥棒(どろぼう)が入ったのか。それは当然のことだ」と思うことです。そう考えれば、こころのほうはとても落ち着くでしょう。


 親しい人が歳を重ねて自分が面倒(めんどう)を見なければならなくなった時、最初に必要な心構(こころがま)えは、そのこころの落ち着きなのです。その人がかつて元気だった時と同じように面倒を見てあげることが大切です。人間は必ず死んでいきます。それまでの人生への恩返(おんがえ)しと思って行うことです。感謝(かんしゃ)と尊敬(そんけい)の念(ねん)をもって接することが大事なのです。


 仏教では、最大の不幸は悔(くや)しいこころを持ったまま死んでいくことだといいます。死ぬのは「嫌(いや)だ」「嫌だ」という死に方は、不幸を招くだけです。死にたくない、もっと生きていたいとこの世に執着していることは不幸だということなのです。


 死んでいく原因はいろいろあります。でも死んでいく結果はみな同じです。原因をああでもない、こうでもないというのはやめて、誰でもみな等しく死んでいくのだから、死に向かって幸せな感情を持つことが何より大切なのです。


 しかし、実際(じっさい)には、死ぬ間際(まぎわ)になって、この世に執着したり、死ぬ原因になったことを悔(く)やんだり嘆(なげ)いたりして、不幸な死を迎(むか)えるのはなぜでしょうか。


 それは、自分の人生に満足(まんぞく)していないからです。「こんな人生ではなかったはずだ」「まだまだやりたいことがあるのに」「もっともっとお金を儲(もう)けていい生活をしたかったのに」「孫(まご)の顔(かお)を見てからでないと死ねない」。と、言ってみれば、死を目の前にした時になって初めて、自分の人生がいかにいい加減(かげん)なものだったかに目覚(めざ)めるのです。


 人間の一生は毎日、毎日の時間の経過(けいか)です。この毎日はけっして同じものではありません。今日は昨日と違うし、一時間前と今は違います。一分前、いや一秒前でさえ今とは異(こと)なります。


 人間はいつでも死ぬ可能性があります。今日元気に生きていても、明日になって急に死んでしまうかもしれません。ならば、悔いのない人生を送るためにはいつ死んでも大丈夫だという、安心(あんしん)と納得(なっとく)のいく毎日を生きることです。いつ死んでも自分の人生には満足しているし後悔(こうかい)もない、という気持ちになることが幸せな死を迎(むか)えることのできる最大の条件(じょうけん)なのです。


 そのためにも、「どう死ぬか」ということは、「どう生きるか」ということを、しっかりと理解しなければいけません。


 「生死(しょうじ)の二法(にほう)」を説いている法華経を信じて、信じて、信心(しんじん)して天寿(てんじゅ)をまっとうするその日まで、一生懸命に生きることと、死の悲(かな)しみや恐怖(きょうふ)を感じないような生き方がとても大事なのであります。


 教祖・杉山辰子先生はこの法華経を深く信じ「妙法蓮華経」の五文字を唱える時に大きな功徳(くどく)があると仰(おお)せです。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法を唱(とな)えると、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰せです。そして、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても大事です。実践しなければ何の効果もありません。自分を高めるためには努力が必要なのです。そして、三徳を実践することで大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難(しょうなん)が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)させることができるのです。


 人間は生きていれば必ず良いことも悪いこともあります。嫌(いや)なこと、つらいこと、苦しいこと、悲しいことは常にあります。お釈迦さまは、「因果(いんが)の二法(にほう)」を説かれました。良いことも悪いことも、それには必ず原因があります。現在、現れている現象(げんしょう)は過去に自分がつくった原因の結果です。自分自身が、それを反省し乗り越(こ)えることなのです。


 お釈迦さまは、「妙法を根本(こんぽん)とするならば、乗(の)り越(こ)えられない苦難(くなん)はない」と説かれました。どんな難(むずか)しい問題でも法華経の力を信じていけば解決(かいけつ)することができます。


 私たちは、日々の生活の中に三徳の実践を取り入れ、人のためになることを率先(そっせん)して行うことが大事です。この教えは、「人を幸せにしたら、必ずその功徳で幸せを頂ける」と説いております。私たちは幸せになることを目指し努力・精進して『すばらしき人生』へと高めることが大事であると思います。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス