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世界平和を
大樹
すばらしき人生89

本来なら五月はゴールデンウィークがあり海外や国内へと旅行される方が多いのですが、今年は新型(しんがた)コロナウイルスの世界的パンデミック〔感染爆発(ばくはつ)〕により社会機能(しゃかいきのう)が混乱(こんらん)しております。未知(みち)なるものへの恐怖(きょうふ)を感じない人はいないと思います。一日も早く終息(しゅうそく)することをお祈(いの)りしたいと思います。


 春のお彼岸と釈尊降誕祭〔花まつり〕には信者の皆さまに参拝(さんぱい)を控(ひか)えていただき、ご協力ありがとうございました。政府(せいふ)が提案(ていあん)している三密(さんみつ)〔密閉(みっぺい)・密集(みっしゅう)・密着(みっちゃく)〕を避(さ)けることを励行(れいこう)し、安全宣言(あんぜんせんげん)が出されるまで予防的措置(よぼうてきそち)を実施したいと考えております。なにとぞご協力をお願いいたします。


 人類(じんるい)とウイルスの戦いは以前からあり、必ず人類が勝利を挙(あ)げております。いずれワクチンや治療薬(ちりょうやく)も出てまいります。もうしばらくは自粛(じしゅく)を中心に自分の身を護(まも)る行動を続けることが大事であると思っております。


 私がサラリーマンの時でした。静岡県の責任者をしておりました。県下でもっとも糖尿病(とうにょうびょう)の患者さんが多いS総合病院(そうごうびょういん)を担当しておりました。糖尿病患者(かんじゃ)さまを三千名ほど診(み)ておられたI副院長先生の攻略(こうりゃく)が最重点課題(さいじゅうてんかだい)でした。私が担当した当時、自社製品はほぼ五割と半分の患者さましか使用されておりませんでした。


 この病院は週二回、各一時間の面談制限(めんだんせいげん)がありました。訪問(ほうもん)して二〜三ヶ月が経過(けいか)した頃より仲良くしていただくようになりました。糖尿病がご専門(せんもん)の先生なので、常に最先端(さいせんたん)の情報(じょうほう)と薬(くすり)を使用されることを希望(きぼう)されておられました。


 この頃は、接待(せったい)も含(ふく)めて今より活動(かつどう)しやすい環境(かんきょう)でした。まず私は先生との面談時間(めんだんじかん)を独占(どくせん)することを考えました。週二時間をフルにお話をさせていただき、他社に付(つ)け入(い)る隙(すき)を与えませんでした。それから病院では患者さまを集めて「食事療法(しょくじりょうほう)」「運動療法(うんどうりょうほう)」「薬物療法(やくぶつりょうほう)」といった糖尿病教室(とうにょうびょうきょうしつ)という教育システムがあり、私も参加させていただき薬物療法の注射器の使い方を教えさせていただきました。


 入社当初はとても難(むずか)しいデバイス〔機器(きき)〕でしたが、しばらくしてとても簡便(かんべん)なものが開発(かいはつ)され多くの患者(かんじゃ)さまに使用されるようになりました。糖尿病教室などの外来以外(がいらいいがい)で先生と話ができるのが強みでした。そして、現在では禁止されておりますが、注射器を専門に指導(しどう)するインストラクターを雇(やと)い、毎週十名ほどの患者さまを自社及び他社の製剤(せいざい)より切(き)り替(か)えを行いました。すると三年ほどで病院の患者さまの九割が自社製品になりました。


 子供のインスリン注射が必要なタイプ〔Ⅰ型糖尿病(いちがたとうにょうびょう)〕の患者さまには、毎年サマーキャンプを日本平のユースホステルを一週間貸(か)し切(き)りにして缶詰(かんづめ)で医者と看護師(かんごし)のスタッフと製薬会社(せいやくがいしゃ)とで患者教育のお手伝いをしました。


 浜松では大学病院が同様の患者教育をしました。静岡県ではおもに二か所で行われておりました。ただし現在では医療機関(いりょうきかん)への労務提供(ろうむていきょう)で製薬会社がお手伝いすることが禁止(きんし)されております。


 私が、この会社に入った理由の一つに子供の糖尿病〔Ⅰ型糖尿病〕でインスリン注射(ちゅうしゃ)を一日、三回から四回注射しないと生命が維持(いじ)できない子供たちの島根県(しまねけん)「大山(だいせん)サマーキャンプ」のビデオを見て注射の痛(いた)みで泣き出す子供に、痛みを軽減(けいげん)させ役に立ちたいという思いが強くなり入社を決意(けつい)しました。


 私たち営業の立場から患者さまのお役に立てることができれば、やりがいや社会貢献(しゃかいこうけん)という意識(いしき)も強くなり、その衝動(しょうどう)が質の高い仕事へと転嫁(てんか)させるのであります。Ⅰ型の糖尿病患者さまは、注射時の痛みよりも血糖測定(けっとうそくてい)での採血時(さいけつじ)の痛みはかなり大きいようです。少しでも痛みの軽減になることが患者さまにとってのメリットなのです。


 さて、売上を上げるためには、正確な市場調査(しじょうちょうさ)が必要であり、ものごとには二対八(にたいはち)の原則(げんそく)があります。調査の結果、一般的には全体の二十パーセントの市場で八十パーセントの売り上げがあることのようです。ですから、二十パーセントの市場に全リソース〔ヒト、モノ、カネ〕を注(そそ)ぐことです。残りの八十パーセントの市場は放(ほう)っておいてもかまいません。どんなことでも必ず原理原則(げんりげんそく)があります。二対八を無視(むし)して全体すべてに活動しても無意味(むいみ)であり、それは不可能(ふかのう)なのです。要は「選択(せんたく)と集中(しゅうちゅう)」です。いかに二十パーセントに対し効率的(こうりつてき)に仕事ができるかが成功(せいこう)と失敗(しっぱい)の分(わ)かれ道(みち)なのです。


 仏教はこう言っております。命あるものは必ず死にます。死後(しご)がどうなるのか誰(だれ)にもわかりませんが、「正しく立派(りっぱ)に生きてきたなら、なんの心配(しんぱい)もいりません。死後も正しい生き方をしてきた結果(けっか)が得(え)られるでしょう」。良い立派な人生を歩んだ人が地獄(じごく)に堕(お)ちるなどという話はあり得ません。


 では、正しく立派な人間というのはどのような人を指すのでしょうか。なにも難(むずか)しいことではありません。裕福(ゆうふく)だろうが貧乏(びんぼう)だろうが、学歴(がくれき)があろうがなかろうが、社長であろうが平社員(ひらしゃいん)であろうが、そういうことは全く関係ありません。要するに、こころがきれいなことです。こころを清(きよ)らかに、汚(よご)さず生きることなのです。そのこころのきれいさ、こころを汚さない生き方がとても大事なのです。


 死を目の前にした人のこころが汚れていたり、混乱(こんらん)していたりすると、大変なことになります、良いことをした人は、なんの問題(もんだい)もありません。最後がきたら、すばらしいこころで死んでいけます。しかし、悪人の場合はそうはなりません。ですから、すべての生きとし生ける生命に対し、「申し訳ありませんでした」と、素直(すなお)にこころの底(そこ)から思うことです。そして、「すべての生きとし生ける生命が幸せでありますように、この私自身も皆さまのおかげでここまで生きることができました。本当にありがとうございます」という慈(いつく)しみの気持ちを、こころの中につくることです。


 その結果、悪人(あくにん)本人がこころの底からそうした気持ちを抱(いだ)いて死んだなら、その悪人は善人(ぜんにん)として死を迎(むか)えることができます。


 悪いことばかりをして「死にたくない、死にたくない」と今世(こんぜ)に執着(しゅうちゃく)したまま混乱(こんらん)や恐怖感(きょうふかん)に陥(おちい)って死を迎えたら、おそらく不幸な境地(きょうち)に生まれ変わってしまうでしょう。死ぬ瞬間(しゅんかん)に、どのようなこころの状態(じょうたい)にあるかで次に生まれ変わるところが決定されるとお釈迦さまは説かれました。悪人でも、死ぬ瞬間に、こころが清らかでなんの雑念(ざつねん)もない落ち着いたこころでいたならば、次に生まれ変わるところも良い世界になるのです。


 仏教では、どんな生命でも何かに輪廻転生(りんねてんしょう)すると説かれております。生命は一度死ねば、必ず何かに生まれ変わります。それを仏教では輪廻転生といいます。私たちは解脱(げだつ)しない限り無限(むげん)に輪廻転生するものです。どこに生まれ変わるかということは、その人の行為の結果なのです。


 ところが生まれ変わるとしても、前世(ぜんせ)のことはだれも覚(おぼ)えていないし、来世(らいせ)のことも知るすべがありません。現世を生きる私たちは、前世の何かから生まれ変わって生きております。ということは、過去世(かこせ)では、今の親(おや)とは違(ちが)った親がいたわけです。でも、その親のことはまったく関心(かんしん)がありません。はたして、過去世で人間として生きていたかどうかもわかりません。


 過去世で親子とか夫婦とか家族の絆(きずな)は、今生きている世界だけなのです。だから、過去の因縁(いんねん)がわからないから、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願うことが大事なのです。あくまで今この世に生きているすべての生命への慈(いつく)しみ育(そだ)てることなのです。


 こう思うと、生きものが輪廻転生(りんねてんしょう)するというものは、本当は実に悲(かな)しいことです。少し考えてみればわかりますが、生まれ変わるということは、生命にとってあまりありがたいことではありません。私たちは、この世にほんの瞬間(しゅんかん)しか存在(そんざい)できないのです。普通は八十歳前後しか生きられないのです。そして、その存在すら忘れ去られてしまうのです。それなのに、そのほんの一瞬(いっしゅん)の人生を、力(りき)んで、がんばって、一生懸命生きようともがいております。


 それで、死んで生まれ変わったら、また違(ちが)う生命体(せいめいたい)として、また新たな世界で一生懸命に生きてゆく。これこそ私だ、これが私の世界だ、私の人生だなどと、怒(おこ)ったり、悲(かな)しんだり、恨(うら)んだり、ちょっと楽しんだりして、懸命(けんめい)になって生きてゆく。そして、なんのことはなくまた死んでしまうのです。なんとつまらない現象(げんしょう)ではありませんか。虚(むな)しい、悲しい、つらいことと思います。


 お釈迦さまは、生きるということは苦しみそのものだと説かれました。つまり、解脱(げだつ)するためには悟(さと)りを得(え)るしかないのだと説かれました。


 皆さまは、たまに亡くなった方がまだその辺にいるような感じを抱(いだ)くことはありませんか。それは、幽霊(ゆうれい)とか霊(れい)の存在(そんざい)というものではなく、仏教ではまとめて餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちたと説明しております。


 死んでもまだその辺にいるような気がする、いわゆる餓鬼道に堕ちた状態(じょうたい)は、一時的(いちじてき)にそこにいるということでなく、そうした生まれ変わりになってしまったということです。


 餓鬼道に堕ちた人は、人間界(にんげんかい)のすぐそばの境涯(きょうがい)で生きていますから、自分が人間としての生命が終わったことに気がつかないでいることがあります。つまり、自分が餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちたということがわからないのです。


 餓鬼道に堕ちた人は、まだ欲(よく)や未練(みれん)などが残っていて、暗(くら)いこころで亡くなっております。しかも自分が死んだことに気がついていないわけですから、この世へのさまざまな執着(しゅうちゃく)があり、それをなんとか意思表示(いしひょうじ)するために、自分の親や子供に取(と)りつこうとその辺をうろうろしているのです。


 そこで葬式(そうしき)をする意味があるのです。「あなたはもう亡くなりました。この世とは何の関係もありません。早くもっと良い境涯(きょうがい)へ生まれ変わる準備(じゅんび)をしたほうがいいですよ」というメッセージが伝わることが大事なのです。そうすると亡くなった方も、「そうか、自分は死んだ人間なのだ。じゃあ、しかたないね」と気づくのです。


 自分が死んだことに気づけば、欲(よく)や執着(しゅうちゃく)は多少減(へ)っていきます。そのことによって餓鬼道(がきどう)よりは少しは良いところへ生まれ変わる可能性もあります。そうしたことを教えてあげるのが、仏教では亡くなった方への回向(えこう)となるのです。どんなにすばらしい人生を送っても、どんなに人から尊敬(そんけい)されるような一生を送っても、死ぬ瞬間(しゅんかん)のこころの状態というのは傍(はた)からはわかりません。死ぬ瞬間のこころの状態は本人にもわかりません。どんな幸せな境涯(きょうがい)に生まれ変わることは誰にもわからないのです。


 私たちはいつ死んでも餓鬼道(がきどう)に生まれ変わらないよう、悔(く)いのないような人生を送ることです。そして、幸せな境涯に生まれ変われることができるよう準備をしておくことが、この世の中を生きていくうえで最も大切な道となるのです。


 そのためにも怒(いか)りや、わがまま、高慢(こうまん)、苛立(いらだ)ち、悩(なや)み、憂(うれ)いといったこころの煩悩(ぼんのう)を、慈悲(じひ)のこころ、清(きよ)らかなこころに変えていかなければならないのです。


 教祖・杉山辰子先生は法華経を信じるこころの強さによって功徳(くどく)の大きさが違(ちが)うと説かれております。深く、深く信じることがとても大事なのです。妙法(みょうほう)の不思議(ふしぎ)な力を信じて生きることでこころの安心と安(やす)らぎをいただけるのです。


 そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱(とな)えるようにと言われました。そうすれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰(おお)せです。


 『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』三徳(さんとく)の実践(じっせん)がとても大事です。実践しなければ意味がないということです。私たちは、三徳を実践することでこころが清(きよ)らかになるのです。その積み重ねにより人格(じんかく)を高めることができるのです。


 そして、自然(しぜん)の法則(ほうそく)に逆(さか)らわないよう生きることです。執着(しゅうちゃく)のない生き方をすれば自然に妙法という黄金の川の流れに入っていけるのです。それを継続(けいぞく)することが『すばらしき人生』の階段(かいだん)へと通(つう)ずるのであります。


合 掌


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