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世界平和を
大樹
すばらしき人生90

新型(しんがた)コロナウイルスの蔓延(まんえん)により、世界的なパンデミック〔感染爆発(かんせんばくはつ)〕が発生しました。未知なる生命体との遭遇(そうぐう)により私たちの日常が大きく変わりました。皆さまは、いかがお過ごしでしょうか。世間では人と人とが密集(みっしゅう)しないように「ソーシャルディスタンス」といい社会的距離(しゃかいてききょり)をとること、部屋を換気(かんき)して密閉状態(みっぺいじょうたい)をなくすこと、そして、密着(みっちゃく)しないことが政府のいう「三密(さんみつ)」を避(さ)けるということです。


 実際に「ステイホーム」といわれてもそれなりに仕事がある方やなくても買い物など生活必需品(せいかつひつじゅひん)を備(そな)えなければ生活がままならない状況です。日本の医療(いりょう)は世界最高水準(せかいさいこうすいじゅん)であると誰もが思っておりました。しかし、今回のコロナの件で感染症(かんせんしょう)にかかわる事例(じれい)について、いかに脆弱(ぜいじゃく)であるかがよくわかりました。


 そして、今回のコロナでは医療機関(いりょうきかん)でのICU(アイシーユー)〔集中治療(しゅうちゅうちりょう)〕のベッドが少ないこともわかりました。確かに高度医療(こうどいりょう)は先進国(せんしんこく)でもトップクラスと思いますが、過去の経験値(けいけんち)にたよりすぎて、未来を予測(よそく)する想像力(そうぞうりょく)が少し足(た)らなかったのではないかと思います。とにかく一日でも早い終息(しゅうそく)を迎(むか)えたいものです。


 先般の釈尊降誕祭の参拝は、お断りさせて頂き、皆さまにはご協力ありがとうございました。六月の教祖祭も同様にコロナの影響で参拝と抽選会(ちゅうせんかい)は取りやめさせて頂きます。何よりも信者の皆さまが感染(かんせん)しないことが大事であります。私も毎朝のお務(つと)めには必ず皆さまが感染しないようにお祈りしております。どうかご理解の上、宜しくお願い致します。


 私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。私たち営業は売り上げを伸ばし続けないといけません。上司(じょうし)に報告(ほうこく)・連絡(れんらく)・相談(そうだん)ができなければ、営業には不向(ふむ)きです。まずは、報(ほう)・連(れん)・相(そう)が大事です。ものを相手にする仕事なら問題ないと思いますが、そういう営業での基本(きほん)が大事であります。


 仕事というのは、どんなことでも明(あか)るく、楽(たの)しんで、喜(よろ)んで、しかもスピーディーでないといけません。そういう人は、必ず正確(せいかく)・正直(しょうじき)・素直(すなお)・懸命(けんめい)に仕事ができるのです。


 成功(せいこう)する人、失敗(しっぱい)する人はこのような基本ができているか、できないかの違(ちが)いです。そして、メンタルの強さも必要です。失敗する人は、苦難(くなん)を避(さ)け、楽(らく)なほうへ、楽なほうへと流されてしまう人です。要するにメンタルが弱いということなのです。


 あきらめの早い人も成功できません。「七転(ななころ)び八起(やお)き」の精神(せいしん)が強い自分を形成(けいせい)するのです。どんなことにもあきらめずにチャレンジするという強いこころを持たないといけません。そして、いま与えられている目標(もくひょう)より更(さら)に高い目標を立てることが、更なる自分を伸(の)ばす秘訣(ひけつ)です。会社から課(か)せられた目標以上の目標を完遂(かんすい)することなのです。


 部下のNさんはとても優秀(ゆうしゅう)でした。私は、いつも仕事をしている時に部下(ぶか)の眼(め)を注意して見ております。人間の眼差(まなざ)しは不思議(ふしぎ)なもので、輝(かがや)いている時は戦闘(せんとう)モードになっている時です。「目(め)は口(くち)ほどに物(もの)を言(い)う」という諺(ことわざ)があるように、すべては眼でわかるのです。


 Nさんは、いつも優(やさ)しい眼(め)をしておりました。笑顔(えがお)が素敵(すてき)であるということは眼から優(やさ)しさがこぼれるといった表現(ひょうげん)でいいのかわかりませんが、その優しい眼の中に眼光鋭(がんこうするど)いものがあったと思います。結果、グングン成績(せいせき)を伸ばし首都圏(しゅとけん)へと送り出すことができたのです。


 また、いつも斜(しゃ)に構(かま)えた雰囲気(ふんいき)のKさんは、とても個性的(こせいてき)でした。先生と深(ふか)い付き合いができるか、全くできないか両極端(りょうきょくたん)でした。営業(えいぎょう)にはあまり向いていないようです。理想(りそう)はまんべんなくできたほうが良いのですが、彼はNさんとは違う眼(め)をしておりました。彼は獲物(えもの)を狙(ねら)うハンターの眼でした。ですから、敵味方(てきみかた)ができてしまい、すべての医者に気に入られることはなかったのです。


 普段(ふだん)の何気(なにげ)ない行動(こうどう)から、その人の本質(ほんしつ)を見るためには、眼(め)をよく観察(かんさつ)すると仕事の善(よ)し悪(あ)しがわかるものです。常に自分を高める努力(どりょく)と、どんなふうに見られているのかを考えて生きることが成功(せいこう)へと繋(つな)がっていくものと思います。


 さて、仏教では「いい加減(かげん)に生きよ」と言っております。私たちはいい加減と聞くと悪(わる)い言葉(ことば)のイメージがあります。やりすぎたり暴走(ぼうそう)し始(はじ)めると「いい加減にしろ」と言われます。本来この言葉はネガティブ〔マイナス的〕な言葉ではなく、意識(いしき)を調整(ちょうせい)しなさい、という意味なのです。


 日常生活に忙(いそが)しくしていると、知らず知らず調子(ちょうし)に乗ってしまいます。調子に乗ると周(まわ)りが見えなくなります。周りでいろいろなトラブルが起(お)こる可能性(かのうせい)も大きいのに、本人は気づかない。それはとても危険(きけん)な状態(じょうたい)なので、自分をしっかりとコントロールしなさい、ということなのです。


 仏教では中道(ちゅうどう)をいきなさいと説いております。極端(きょくたん)な生き方は良くないということです。一つには、流(なが)れに身(み)を任(まか)せて、何となく生きていると活気(かっき)もなく怠(なま)け中心の生き方になります。これは人間の破滅(はめつ)への道です。そして、もう一つは調子(ちょうし)に乗って走り出すことです。これもまた破滅への道となります。単に極端な生き方を避(さ)け真(ま)ん中(なか)を取(と)るのではなく、自分の生き方を効率(こうりつ)よく管理(かんり)するためには、「いい加減(かげん)に生きる」ことが欠かせないのです。


 生活のすべてにおいて「加減」、つまり、意識(いしき)を調整(ちょうせい)するという問題を考えなければなりません。人生楽(じんせいたの)しく生きようとあれやこれやと工夫(くふう)して、人はさまざまなものをつくり出してきました。その目的(もくてき)は、より楽(たの)しく、より楽(らく)に生きようとすることです。その考え方自体(じたい)は人間の基本的(きほんてき)な欲望(よくぼう)ですからかまいません。ただ、人間にはブレーキとハンドルがついていないのです。つまり、人間には意識(いしき)を調整(ちょうせい)する機能(きのう)がついていないのです。


 「いい加減(かげん)に生きる」ということは、人生を適当(てきとう)に生きてください、という意味ではありません。自分の考え方に、ブレーキとハンドルをつけることです。一度つけたら二度とはずさないことです。つまり、「意識(いしき)」を自分で調整(ちょうせい)することです。


 人間には欲(よく)があります。欲には上限(じょうげん)はありません。いろんなものが「欲(ほ)しい」と思いどんどんため込(こ)む。お金、土地、家、車、洋服などをため込む。ものを持つことでさらに物欲(ぶつよく)は深(ふか)まり、使うこともないのに、もっともっと、と要求(ようきゅう)が膨(ふく)らんでくると苦しみが増えてしまう。


 「加減(かげん)」を忘れてしまうと、気づかないうちに限界(げんかい)を超(こ)えて暴走(ぼうそう)するおそれがあります。欲(ほ)しいものはお金がなくても分割(ぶんかつ)で買う時があります。気に入ったものを何度も同じ調子で買ってしまうと、自分の支払(しはら)い能力(のうりょく)を超(こ)えてしまうこともあります。大事な用事なので、少々の金額ならローンに手を出しても危険(きけん)はないですが、簡単(かんたん)にお金が手に入ると調子(ちょうし)にのって人生を破滅(はめつ)に追(お)い込(こ)む暴走(ぼうそう)をしてしまいがちなのです。私たちは、つい度を超してしまうという癖(くせ)のある生き物です。「いい加減」という大事なことをこころの中に焼(や)きつけないといけません。


 なぜ人間は必死(ひっし)にがんばって幸福(こうふく)を築(きず)かなくてはいけないのでしょうか。自然のままで幸福とやすらぎを享受(きょうじゅ)することはできないのでしょうか。お釈迦さまは、生きることは本来、「苦(く)」であると説(と)いておられます。人間は、自然のままで幸福にはなれない運命(うんめい)なのです。努力(どりょく)しなくてはいけないのです。しかし、もっともっと欲(ほ)しい、という上限(じょうげん)のない物欲(ぶつよく)を満(み)たすことは、果(は)たして幸福といえるでしょうか。そのような幸福を求めることは、苦しみに陥(おちい)るだけの結果に終わってしまいます。だから人生にはブレーキとハンドルが必要なのです。


 幸福の条件(じょうけん)にも上限(じょうげん)があります。この条件は人によって変わります。それぞれの個人に管理(かんり)できる範囲(はんい)の幸福があるのです。たとえば、平社員(ひらしゃいん)で精一杯(せいいっぱい)の能力(のうりょく)の人が社長(しゃちょう)の座(ざ)を目指(めざ)しても意味(いみ)がありません。そういう人が社長になっても、不幸(ふこう)になるだけです。自分の能力(のうりょく)の限界(げんかい)を越(こ)してはいけないのです。能力のある社長が、いくつもの会社を同時に経営(けいえい)することもあります。ですから、上限(じょうげん)は能力(のうりょく)によって違(ちが)います。


 だからと言って、自分の能力の上限を守って生きたとしたら、幸福になれるでしょうか。それは、一時的(いちじてき)な幸福(こうふく)を感(かん)じるだけです。安定(あんてい)した幸福にはなりません。人は老(お)います。病気にもなる。愛(いと)しいものから離(はな)れる。期待(きたい)はずれの災難(さいなん)などに遭遇(そうぐう)します。そして、やがて死にます。これらは苦です。だから仏教は、人に日常の生き方をただすことだけでなく、一切(いっさい)の苦(くる)しみを乗(の)り越(こ)える方法を説いているのです。人生のブレーキとハンドルを正しく使えば、幸福に生きられるようになるのです。


 そういう意味で、「いい加減(かげん)」は、人生をバランスよく管理(かんり)して、危険(きけん)と不幸(ふこう)を避(さ)けて生きることです。それほど難(むずか)しいことではありません。まずは落(お)ち着(つ)いて理性(りせい)を保(たも)っていれば、簡単(かんたん)に実現(じつげん)できます。言(い)い換(か)えるなら感情(かんじょう)に負けないようにするということです。


 「いい加減」というのは、智慧(ちえ)の言葉で、仏教にしてみればとても大事なところです。皆さまも、これからの人生にブレーキとハンドルをつけましょう。そうしないと、苦しみが減(へ)ることはありません。増(ふ)えるばかりです。


 たとえば、楽(らく)をしようと思って原発(げんぱつ)をつくりましたが、ブレーキがないために大変な苦しみが生まれました。日本ではほとんどの原発は海の近くにあります。科学者(かがくしゃ)たちは日本が地震大国(じしんたいこく)であることと、津波(つなみ)がいつだって起こりえることは知っていても、そうゆうことは後回(あとまわ)しにします。地震や津波もせいぜいこの程度だろうから、被害(ひがい)はない、原発をつくっても問題ない、と言っていたのです。自然の災害は自然におさまりますが、人間が起こす災害は自然におさまりません。人間がやることは、人間が管理(かんり)するべきなのです。


 伝染病(でんせんびょう)は人間の力である程度(ていど)、防(ふせ)ぐことができるようになったといっても、新しい病気はどんどん生まれます。今の人間は、ナマの食材(しょくざい)を食べたことにより死にいたるケースもあります。細菌(さいきん)は世の中にたくさんあって、本来(ほんらい)は身体(からだ)の防御作用(ぼうぎょさよう)がはたらいて退治(たいじ)するのです。贅沢(ぜいたく)な無菌(むきん)のものばかり食べていたせいで、ブレーキが壊(こわ)れてしまったのではないでしょうか。今に加工食品(かこうしょくひん)しか食べられなくなって、自然のものを食べると体調(たいちょう)が悪(わる)くなるようになってしまうかも知れません。


 贅沢三昧(ぜいたくざんまい)できるようになってから、身体の遺伝子(いでんし)が退化(たいか)しているかのようです。太陽にあたったらアレルギーが、花粉(かふん)を吸(す)ったらアレルギーが出たりします。自分たちの贅沢(ぜいたく)な生活習慣(せいかつしゅうかん)のせいで身体が退化(たいか)していると理解(りかい)して、自分なりに食生活などに気を付けることが大事であります。


 なぜ人間の身体が細菌(さいきん)を撃退(げきたい)できなくなっているのでしょうか。抗生物質(こうせいぶっしつ)や抗菌剤(こうきんざい)の使い過(す)ぎで、ブレーキとハンドルがなくなったのです。抗生物質や抗菌剤が効(き)かない菌(きん)も現れてきました。ウイルスも細菌も、人間の攻撃(こうげき)から身(み)を守るために対応しているだけなのです。私たちはその事実(じじつ)を踏(ふ)まえた上で、ウイルスに対する安全対策(あんぜんたいさく)を練(ね)らなくてはなりません。ハンドル操作(そうさ)をしないとうまくいかないものなのです。


 私たち人間は、ついつい感情(かんじょう)で生きてしまうものです。そうすると苦(くる)しみをつくってしまいます。常に「いい加減(かげん)に生きる」という言葉を思い出し、感情に負けない智慧(ちえ)をつけることが、仏教が説いている最良(さいりょう)の生き方なのです。


 お釈迦さまは、「ものごとをありのままに見る」ことの大切さを説かれました。そこには一切(いっさい)の執着(しゅうちゃく)もなく欲(よく)もなく生きることができると説(と)かれました。三大煩悩(さんだいぼんのう)の貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)をお釈迦さまの智慧(ちえ)でもって良い方向にかえることを「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」といいます。欲に支配(しはい)されている人間のこころを清(きよ)らかにするために、煩悩を少なくすることがとても大事なのであります。


 教祖・杉山辰子先生は、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱(とな)えると功徳(くどく)があると仰(おお)せです。そして、この教(おし)えを深(ふか)く信(しん)じることでさらに功徳が大きくなると言われました。人生にはいろんな苦しみや悩(なや)みがあります。お題目(だいもく)を唱えることで、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰せです。妙法を唱えれば大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)させることができるのです。声を出しても構(かま)いませんが、こころの中で常に妙法(みょうほう)を唱える習慣(しゅうかん)を身につけましょう。そうすれば必ずご守護(しゅご)がございます。


 そして、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)が私たちのこころを育ててくれるのです。三徳を実践(じっせん)しないと意味がないということです。日頃の生活の中で三徳を実践し自分を高める努力によって『すばらしき人生』へと昇(のぼ)りたいと思っております。


合 掌


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