新型(しんがた)コロナ関連(かんれん)のニュースが毎日テレビや新聞で報道(ほうどう)されております。世界に目をやれば、貧困層(ひんこんそう)に患者(かんじゃ)が多いということに気づきます。アメリカやブラジルの特徴(とくちょう)として、一つの家に家族(かぞく)だけでなく親戚(しんせき)などが狭(せま)い部屋で接触(せっしょく)するような生活が感染拡大(かんせんかくだい)を引き起こしております。日本と外国では生活様式(せいかつようしき)が違(ちが)う点も感染状況に影響(えいきょう)があるように思われます。
私たちは、コロナのことを理解(りかい)し「正(ただ)しく恐(おそ)れる」という行動が必要となってきます。目に見えないコロナウイルスに対し無知(むち)でただ恐(おそ)れることも、あるいは無知で何も恐れないことも、どちらも正しくありません。このウイルスの特性(とくせい)を熟知(じゅくち)した上で、新たな生活様式(せいかつようしき)へと転換(てんかん)することが大事だと思います。「ソーシャルディスタンス」といって社会的距離(しゃかいてききょり)を保(たも)つことが感染防止(かんせんぼうし)に繋(つな)がってまいります。
いろんな面で弊害(へいがい)がありますけど、早期(そうき)のワクチン開発(かいはつ)や新薬開発(しんやくかいはつ)を待つより仕方がありません。過去から考えますと人間とウイルスの戦いは、すべて人間の勝利(しょうり)に終わっております。こういう時こそ世界中の英知(えいち)を出し合ってコロナに打ち勝つことを期待(きたい)したいと思います。
法公会としても信者の皆さまが感染(かんせん)しないように、毎日お祈りをさせて頂いております。私たちにできることは、個人個人がコロナウイルスを「正(ただ)しく恐(おそ)れる」ことを実践(じっせん)していただきたき、節度(せつど)ある行動がご自身の身を護(まも)る最大の武器(ぶき)となるでしょう。
先般の教祖祭は、このような状況を踏(ふ)まえ「不要(ふよう)・不急(ふきゅう)」の外出を避けるということで、信者さまの参拝・抽選会(ちゅうせんかい)を中止させて頂きました。なお、今後の祭事・行事等は安全宣言(あんぜんせんげん)が出るまで、しばらくは自粛(じしゅく)する予定であります。どうかご理解の上ご協力をお願い致します。
私がサラリーマンの時でした。私は中途採用(ちゅうとさいよう)で平成二年にN社に入社し静岡県東部・中部を一人で担当することになりました。そして、二年後に管理職(かんりしょく)として部下一人とそのポジションに就(つ)きました。その後、静岡県全体が私の担当エリアとなり、大学病院もでき緊張感(きんちょうかん)をもって仕事に就いておりました。
当時、弊社の製品はY社が販売をしておりました。M社長よりMR〔営業〕も積極的(せっきょくてき)に増(ふ)やしており自社販売(じしゃはんばい)できるかと質問(しつもん)をされ、私は確実(かくじつ)に自販(じはん)〔自社販売〕できると提言(ていげん)しました。Y社には年間約五十億円の販売手数料(はんばいてすうりょう)を支払っており、経費(けいひ)の削減(さくげん)になることも会社としては重要(じゅうよう)なことであり、自販ということが社員のモチベーション〔やる気〕を出させる効果(こうか)もあり、一石二鳥(いっせきにちょう)なのであります。
そして、平成九年にいよいよY社から販売権(はんばいけん)を獲得(かくとく)し自販(じはん)を成功させました。Y社も自社製品でないものはあまり力を入れないのです。当然、自社主力品が中心となり活動しているわけですから、仕方のないことです。
そういう中、毎年部下が一人、二人と増え九年後には十人まで増えました。この頃は、中途採用(ちゅうとさいよう)と新卒採用(しんそつさいよう)とあり、中途のほうが即戦力(そくせんりょく)として結果(けっか)が早いので優秀(ゆうしゅう)な人材とのめぐりあわせが会社を左右しておりました。
中途採用のHさんは、静岡に配属(はいぞく)となりました。とても優秀(ゆうしゅう)で非(ひ)の打(う)ちどころがない逸材(いつざい)でした。彼には私が考えていることが解(わか)るのです。人のこころを読むという洞察力(どうさつりょく)があり、人の話をよく聞くことができ、課題(かだい)に対して迅速(じんそく)に対応できるという能力(のうりょく)を備(そな)えておりました。
「聞(き)き上手(じょうず)」は「話(はな)し上手(じょうず)」以上の仕事ができるということは一般的にはよく知られたところです。彼には持って生まれた最高(さいこう)のセンスという武器(ぶき)があったのです。
新卒(しんそつ)の場合は、すべて教えないと活動できません。時間(じかん)と忍耐(にんたい)が必要となってきます。しかし、中途の方は営業の基礎(きそ)はできているため、目標を明確(めいかく)にするだけで、勝手に判断(はんだん)して、成果(せいか)を出すことができるのです。
そして、Mさんは、才能(さいのう)だけで成功(せいこう)したわけではありまえせん。一にも二にも努力(どりょく)という二文字を実践(じっせん)しておりました。人間が成功を収(おさ)めるということは、一%の才能と九十九%の努力なのです。「ローマは一日にして成(な)らず」という諺(ことわざ)があるように努力の積み重ねが成果(せいか)を引き出し成功へと導(みちび)いてくれるのであります。
仏教では「私のもの」という考え方は妄想概念(もうそうがいねん)であって、現実(げんじつ)ではないと説(と)いております。「私のもの」と言えるものはこの世に何一つ存在(そんざい)しないのです。と言ってもその意味はなかなか理解(りかい)できないものです。私たちは、まずこの身体は「自分の身体」であると思っております。ほかにも「私のもの」がたくさんあります。私の服、私の家、私の車、私の家族、私の子供などたくさんあります。
問題は、この「私の」という言葉なのです。「私の」という思いが限りない悩(なや)みや苦(くる)しみを引き起こします。「私の」「私の」という感情(かんじょう)が強ければ強いほど悩み苦しみが大きくなるのです。
仏教でいう「私のものと言えるものは何一つない」ということはどういうことかと考えますと、私たちは生まれる時には何も持たずに生まれてきます。身体をかくす布一枚くらい持って生まれればよかったのに、全くの裸(はだか)で生まれてきます。
生まれた時のことを念頭(ねんとう)に置いて生きていかなければならないのです。人間として最初は一つの細胞(さいぼう)から始まります。身体が成長して、細胞を約六十兆個もつ身体になります。しかし、それを構成(こうせい)するものは、外部から取(と)り込(こ)まれたものです。ですから、身体全体も借りものということになります。従って、最後は、この身体は返さなければならないのであります。
私のものという妄想概念(もうそうがいねん)を捨(す)てましょう。代わりに「借りものの正しい使い方」を学ばないといけません。理性(りせい)で理解(りかい)することが重要なのです。人間の最初の一個の細胞(さいぼう)さえも借りたものです。身体を構成(こうせい)する法則(ほうそく)に従(したが)わなければならないのです。足がもっと長くなってほしい、小顔(こがお)になりたいと希望しても身体はそれに応じてくれません。わがままを言わずに、無理(むり)をせずに、節度(せつど)をもって生きることが上手に生きるということです。
人間はすいぶんのんきに生きております。私は健康だ、私にはお金がある、愛する家族がいる、安定した仕事がある、充分な収入がある、私には信頼している人々がいる、などと考えて安心感(あんていかん)に浸(ひた)っているのです。そこで安心神話(あんしんしんわ)が崩(くず)れたら、途方(とほう)に暮(く)れてしまうのです。どうすれば良いのかわからなくなってしまうのです。そして、無気力(むくりょく)になり、落ち込み、嘆(なげ)くのです。そして、救済(きゅうさい)を求めたり、こころの安らぎを求めるのです。
なぜ不幸に遭遇(そうぐう)するまで待っているのでしょうか。なぜ甚大(じんだい)な災害(さいがい)に遭(あ)ってから、ものは壊(こわ)れるのだと気づくのでしょうか。不幸に遭遇(そうぐう)する前に、人生が順調(じゅんちょう)にいっている間に、真理(しんり)に目を覚(さ)ましたほうが幸せなのです。
人の悲しみは「私の」という妄想概念(もうそうがいねん)から生まれるものです。「私の」という概念は、人の幸福、こころの安らぎ、精神(せいしん)の安定(あんてい)を破壊(はかい)する悪魔(あくま)なのです。自分のこころから「私の」という妄想概念を取り除いてみてください。それだけで、幸福の扉(とびら)は開(ひら)くのです。
なぜ、私たちは、うまく人生のハンドルを切れないのでしょうか。なぜ、不幸にならないように人生のブレーキをふめないのでしょうか。私たちはいつから、人生のブレーキもハンドルも持たなくなったのでしょうか。実は、「いつから」なくなったのではなく、人生には、はじめからブレーキもハンドルもないのです。だから、私たちは、外からあえてブレーキとハンドルをつけてもらわなければならないということです。それで、事故(じこ)を起こさず目的地(もくてきち)まで行けるようになるのです。
仏教では「解脱(げだつ)」という目的地があります。そこまでは運転できるはずなのですが、ブレーキとハンドルがなければ、「解脱(げだつ)」に到着(とうちゃく)する前に事故(じこ)を起こしてしまいます。
どこで私たちは暴走(ぼうそう)してしまうのでしょうか。それは、生まれた時からなのです。私たちは、暴走するよう生まれるのです。暴走は当たり前なのです。いくらでも暴走するようにできています。とはいえ、人間は、暴走(ぼうそう)できる機械(きかい)ではありません。暴走するとすぐに壊(こわ)れてしまいます。ブレーキとハンドルがなければ、目的地に行く前に壊れてしまいます。
そもそも人間にはブレーキがないので、暴走は仕方ありません。しかし、こういう場面で暴走します。まずは、「感情(かんじょう)」です。感情は、本来ならありがたいものです。友達と遊ぶこと、テレビを見ること、おいしいものを食べることなど人間には楽しいことがたくさんあります。感情がなければ、楽しさもありません。しかし、この「感情(かんじょう)」が怪(あや)しいのです。感情が割(わ)り込(こ)むと、ついつい暴走(ぼうそう)をするのです。
例えば、商売を始めたとします。少しずつ利益(りえき)が出て軌道(きどう)に乗り始めました。この商売はうまくいきそうなので、事業を拡張(かくちょう)しよう、ということになりました。そのために、店舗(てんぽ)を増やすこととなりました。そうすると、また資金(しきん)が必要になりますから、銀行から借(か)りなくてはなりません。借りたお金は利息(りそく)をつけて返済(へんさい)しなければならない。少しぐらい商売がうまくいったからといって、借金(しゃっきん)を返済していくことは大変です。借金が倍(ばい)に増えれば、それを返済するために、倍働(ばいはたら)かなくてはなりません。一人で商売はできませんから、人も雇(やと)わなければならない。返済するためには、また必死になって働かなくてはならないのです。結局、返しては借りる、借りては返す、を繰り返す悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)ります。
少し商売がうまくいくと、欲がどんどん出てきます。はじめは、自分一人でやっていたお店だとしても、次々に支店を出していき、日本全国チェーン店の展開(てんかい)を始めたり、さらにうまくいきだすと、海外にも進出、株式上場(かぶしきじょうじょう)と、どんどん上を目指すようになります。きちんとしたベースがあって、それを固(かた)めながら進めていくのであれば良いのですが、計画性(けいかくせい)もなく行きあたりばったりで暴走(ぼうそう)する経営者(けいえいしゃ)たちも世の中には多いものです。
そういうビジネスのやり方では、自然災害(しぜんさいがい)や経済危機(けいざいきき)などで、世界情勢(せかいじょうせい)が少し変動(へんどう)するだけで、すべてゼロになってしまうこともあります。そして、経営破綻(けいえいはたん)し、大変なダメージを受けることになります。家族を養(やしな)うために商売を始めたとしても、欲にかられて突っ走るだけでは、大きな借金を抱えてしまうだけです。欲だけで生きていると、常に暴走してしまいます。
私たち人間には感情(かんじょう)があります。これが暴走の根本的な原因なのです。感情があるから人間は暴走するのです。暴走を続ける人ばかりになってしまえば、もうこの世は終わりです。私たち一人ひとりが、暴走しないように工夫(くふう)しなければなりません。
そのためには、暴走を起こす根本(こんぽん)である「感情(かんじょう)」というものを除いて、その代わりに「理性(りせい)」を取り入れることが必要です。この「理性」がブレーキになるのです。そして、そのハンドルとは、「どう生きるべきか」ということのために必要な装置(そうち)なのであります。感情(かんじょう)に支配(しはい)されない生き方を、この法華経から学ぶことが極(きわ)めて重要(じゅうよう)であります。
教祖・杉山辰子先生は、法華経を深(ふか)く信(じん)じて、信じて、信心(しんじん)することで功徳(くどく)の大きさが違うとおっしゃいました。そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法(みょうほう)の力を信じ妙法蓮華経の五文字を唱(とな)えると、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができると仰(おお)せです。
さらに、『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)がなにより大事と仰せです。実践すれば、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)にと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できると仰(おお)せです。
そして、三毒〔貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)〕を減(へ)らすことがとても重要と説かれました。貪欲(どんよく)〔目先欲〕は貧乏(びんぼう)の基(もと)、瞋恚(しんい)〔怒(いか)り〕は病気災難(びょうきさいなん)の基、愚痴(ぐち)〔不足(ふそく)〕は不和不運(ふわふうん)の基であると仰(おお)せです。この三毒が生じた時は、毒(どく)を飲(の)んでいる時と思え、毒矢(どくや)が刺(さ)さっている時と思え、と三毒(さんどく)の恐ろしさを私たちに教えて下さいました。
また、「祈(いの)りとして叶(かな)わざるはなく」「罪(つみ)として滅(めっ)せざるはなく」「福(ふく)として来(き)たざるはなく」「理(り)として現(あらわ)れざるはなし」と教祖さま語録(ごろく)にあるように、この妙法を深く信ずることが必ず幸福へと通(つう)ずるのであります。
私たちも、三徳(さんとく)の実践(じっせん)をすることによって、こころを育(そだ)てることができ、その結果、人格(じんかく)を高めることができるのです。人格が高まれば解脱(げだつ)の状態に少しでも近づくことができます。日々精進・生涯精進することにより『すばらしき人生』へと高めてまいりましょう。
合 掌