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世界平和を
大樹
すばらしき人生92

今年もまた暑(あつ)い夏がやってまいりました。見えない敵(てき)、新型(しんがた)コロナと戦(たたか)う日々が続いております。ソーシャルディスタンス〔社会的距離(しゃかいてききょり)〕を保ちながら、日常の活動(かつどう)も新しい生活様式(せいかつようしき)へと変化してまいりました。


 ワクチンや治療薬(ちりょうやく)が開発(かいはつ)されるまで、感染(かんせん)が拡大(かくだい)すれば、活動を「自粛(じしゅく)」、縮小(しゅくしょう)すれば「解除(かいじょ)」の繰(く)り返しがとても重要(じゅうよう)であると思います。一般的な感染症(かんせんしょう)は暑くなると減少(げんしょう)するのですが、今のこの状況が高温多湿(こうおんたしつ)のためにパンデミック〔感染爆発(かんせんばくはつ)〕が抑(おさ)えられているのか、気温に関係なく感染するものなのかどうかわかりません。


 自分にできる最大限(さいだいげん)の防止対策(ぼうしたいさく)をしていても感染してしまったとしたらやむを得ないと思います。未知なる新型コロナを「正(ただ)しく恐(おそ)れる」ことの重要性を理解(りかい)しないといけません。


 自分は感染してもかまわないという身勝手(みがって)な発想(はっそう)は、必ず他人に感染を広げます。慈悲(じひ)のこころを強く持ち人の迷惑(めいわく)にならない努力が必要とされております。信者の皆さまが感染(かんせん)しないようにと、毎朝、お勤(つと)めをさせていただいております。一日も早い終息(しゅうそく)に期待(きたい)したいと思っております。


 先般の盆施餓鬼先祖大法要会も、新型(しんがた)コロナウイルスのことを考慮(こうりょ)し三密(さんみつ)の中の密集(みっしゅう)という部分がどうしてもクリアできませんでしたので、法話並びに参拝の中止をさせていただきました。誠に申し訳ありませんでした。ご先祖さまへのご供養は、私たち宣教師で粛々(しゅくしゅく)と執(と)り行わさせていただきました。


 今後の祭事、行事も参拝が可能になるかは誰にもわかりません。世界や日本の状況を見ながら、注視(ちゅうし)してまいりたいと思っております。


 私がサラリーマンだった時のことです。静岡県の責任者(せきにんしゃ)をしておりました。部下(ぶか)もいろいろおりました。能力(のうりょく)の高(たか)い人、普通(ふつう)の人、低(ひく)い人、努力(どりょく)する人、普通の人、しない人、向上心(こうじょうしん)の高い人、普通の人、低い人、と人間にはいろんなタイプがあります。一番仕事ができるのは、全部高い人と思いがちですが、現実はそうではありません。まず、三拍子(さんびょうし)揃った人はおりません。


 能力(のうりょく)があり努力(どりょく)する人は向上心の高い人です。逆に能力があっても努力しない人は向上心の低い人です。本来ですとたゆまぬ努力をするのが一般的ですが、能力が高いと、ついつい努力をしなくなります。能力が低いと一生懸命努力(いっしょうけんめい)しないと落ちこぼれてしまいます。従いまして、すべて満点(まんてん)という人はこの世の中には存在しないのです。


 私の部下のHさんは、能力も高く、努力家で向上心もありました。静岡市で下垂体性小人症(かすいたいせいしょうじんしょう)がご専門(せんもん)のK先生から信頼(しんらい)をいただき、症例(しょうれい)もどんどん増(ふ)やしてもらいました。一人の患者(かんじゃ)さまで年間三百万円ほど薬剤(やくざい)を使用していただきました。その症例が百例ございました。彼は、成績(せいせき)を伸ばし会社に貢献(こうけん)しました。


 能力(のうりょく)や努力(どりょく)はとても大事ですが、それだけでは実績(じっせき)を伸(の)ばすことはできません。人間は性格(せいかく)が良くなければなりません。そして、いかに相手(あいて)の立場(たちば)に立ってものごとを考え、活動できるかです。Hさんは能力、努力、性格が良いということが成功(せいこう)に結(むす)び付いたのではないでしょうか。性格が良いということは、相手(あいて)に信頼(しんらい)されるという大事なところです。


 反対にWさんという方がおりました。彼は私より一つ年上でした。年上の部下というのは結構(けっこう)やりにくいことがあります。能力はそこそこなのですが、努力が足りないタイプでした。言(い)い換(か)えれば雑(ざつ)に仕事をすることが散見(さんけん)されました。そして、性格もあまりよくないように私には映(うつ)りました。


 そんな状況(じょうきょう)では良い成果(せいか)を出すことはできません。結果的(けっかてき)に悪い評価(ひょうか)を付けざると得(え)ませんでした。最終的(さいしゅうてき)には、評価されないということが不満(ふまん)となり退社(たいしゃ)されました。当時四十歳代後半で次の職場(しょくば)が見つかったかどうかわかりません。


 能力(のうりょく)は努力次第(どりょくしだい)で開発(かいはつ)することができます。まずは、向上心(こうじょうしん)があるかないかによって、その後の人生が決まります。向上心があれば努力、努力、努力の積み重ねで能力は高まります。向上心のより高い人ほど能力を高めることができ、必ず成功(せいこう)へと繋(つな)がるものと信じております。


 さて、仏教では、人間にはブレーキとハンドルがないから付けなくてはいけませんと言います。智慧(ちえ)を持つことで、うまく機能(きのう)するハンドルを付けることができます。お釈迦さまは、「こんなふうにすれば、あなたの人生を正しい方向に向けて運転(うんてん)できますよ」と、どの方向に進むべきかを教えております。


 その教えの一つを挙(あ)げてみましょう。簡単(かんたん)なことです。私たちが、どのようにして一日を過(す)ごしたかを考えることです。こんなに小さな習慣(しゅうかん)が、すばらしいハンドルとなります。朝、今日は一日どのようにして過ごすか、と考えてみます。夜、今日一日がどうだったのか、また考えます。そして、注意深(ちゅういぶか)く、その日の自分を反省(はんせい)してみます。それだけで人生はうまくいくものです。


 今日一日が良い日であったか、良くない日であったかという自分自身を評価(ひょうか)することです。よくできました、まあまあでした、最悪(さいあく)でした、というふうに一日を振(ふ)り返(かえ)ることが重要なのです。そんなシンプルな習慣(しゅうかん)で人生をより輝(かが)かせることができるのです。


 問題(もんだい)なのは、ブレーキもハンドルも機能(きのう)しなくなる時です。それは、計画(けいかく)を立てる時に起こります。計画的にやってください、と言われても、人間は、時間軸(じかんじく)で計画を立てるので、実はうまくいかないのです。


 「将来(しょうらい)」何々(なになに)をします。というように、人間の頭の中は時間のことが引っかかっております。過去のことに足を引(ひ)っ張(ぱ)られ、将来のことで頭がいっぱいになります。過去(かこ)を悔(く)やみ、将来のことについて夢(ゆめ)を抱(いだ)き、そんなことが頭の中をぐるぐるまわっております。過去と未来にとらわれて、現実(げんじつ)を生きることができなくなるのです。


 お釈迦さまは、「過去は終わったし、未来はわからない」とおっしゃいました。仏教では大切な教えです。「今(いま)」を生きていないと思う人たちには、問題が起きるものです。過去はもうすでに終わったことです。そして、将来のことは全くわかりません。どちらも今の私たちには関係ありません。


 成功したいと思う人は、今を生きてみてください。大災害(だいさいがい)が起(お)きたとしても、一秒で過去のことになってしまう。もし、何もかもすべてを失ってしまったとしたら、次の瞬間(しゅんかん)、どうすれば良いのかと考えればいい。もちろん、津波(つなみ)で大損害(だいそんがい)を受けて、不幸のどん底にいる時に、すぐに頭を切り替えて何をすれば良いかを考えなさい、と言われてもなかなかそうもいきません。だから、幸福な時に考える訓練(くんれん)をしなければいけないのです。「昨日までは、良かった」と言っても、もう昨日は過(す)ぎた過去(かこ)でしかないのです。


 今を生きるというものは、そんなに簡単(かんたん)にできることではありません。私たちが持っている固定(こてい)の価値観(かちかん)という概念(がいねん)を捨(す)てる勇気(ゆうき)が必要なのです。過去はもう終わったのです。その日その日で何とか生きてみれば良いのです。今日やるべきことをやる。はい、今日一日できました。翌日になれば、今日はこれをやる。はい、今日もできました。と、この積(つ)み重(かさ)ねを毎日毎日やっていたら、三年もたてば、多くのことが達成(たっせい)できるようになるでしょう。何の負担(ふたん)もなく、気がつけば軽々(かるがる)と生きていることになるのです。


 従って、これからは「今日を充実(じゅうじつ)して生きる」ということを常に考えていくことが大事なのです。「これが正しい」といったような、余計な価値観(かちかん)を持つことは、こころの負担(ふたん)になるだけです。人生を重(おも)くしてしまいます。


 でこぼこで山があって、いろいろな障害(しょうがい)があって大変な世の中でも、その日、その日を空気みたいにたんたんと生きれば良いのです。幸福に生きること自体が、人間にとって人生の最大(さいだい)の目的です。しかし、最初から幸福になるという結果(けっか)を期待(きたい)すると、かえって不幸に陥ります。


 幸福は、将来訪(しょうらいおとず)れるものではないのです。今日、今、幸福に生きてみようと努力することが、失敗しない正しい生き方なのです。過去や未来にとらわれず、今日できることをこつこつとやっていくのです。価値観とは常に変わるものであり、変わらないと時代(じだい)に乗(の)り遅(おく)れてしまいます。


 仏教では、「がんばる」ということを「精進(しょうじん)」といいます。八正道(はっしょうどう)の一つでもある「精進」で、努力するという意味です。努力しない人、つまり、がんばらない人は、怠(なま)け者(もの)です。怠けはお釈迦さまが決して認(みと)めない行為です。しかし、精進するという意味を叶(かな)わない夢(ゆめ)を抱(いだ)いて、将来の幸福を目指(めざ)して、がむしゃらにがんばることは推奨(すいしょう)できないのです。


 正しいのは、「いい加減(かげん)にがんばる」ことです。いい加減とは、誤解(ごかい)しやすい言葉です。大雑把(おおざっぱ)で手(て)を抜(ぬ)いて、という意味合(いみあ)いでも使っているからです。しかし、本来の意味は、いい加減を保って行動することです。いい加減とは、やりすぎず、手を抜かないことで、怠(なま)けることもしないで、期待(きたい)する結果(けっか)が出るように、適切(てきせつ)に努力することです。従って、常に「いい加減にがんばる」ことなのです。


 今日一日を幸福で明るく充実(じゅうじつ)して生きてみるという信条(しんじょう)があれば、いい加減にがんばることができるのです。やりすぎも手抜(てぬ)きもやめることを仏教では「中道(ちゅうどう)」といいます。中道を保ってがんばるのです。ですから八正道(はっしょうどう)の中に「正精進(しょうしょうじん)」があるのです。がんばることは中道でなければならないのです。


 なぜ怠(なま)けが悪いのでしょうか。たまには怠けても良いのではないでしょうか。しかし、私たちにはそんなことをいっている余裕(よゆう)も暇(ひま)も、人生にはありません。人生とは、瞬間瞬間(しゅんかんしゅんかん)変化して、新しいものに変わるのです。昨日と同じ生き方で、今日を過ごすことはできません。人生は変わったのです。自分にとって、今日という日は初めての人生です。予測(よそく)・想定(そうてい)できるものではありません。何が起きても、不幸にならないように、失敗しないように、後悔(こうかい)しないように、今日一日をがんばらなくてはならないのです。


 人生には本当に休む暇(ひま)がないのです。休んだら必ず不幸になってしまいます。そして、人生は失敗に終わってしまいます。だからこそ、怠(なま)けは良くないのです。ただ、やりすぎには注意が必要です。


 専業主婦(せんぎょうしゅふ)として家事をしても、会社で仕事をしても、学校で勉強しても、毎日が大変です。休む暇はないのです。手抜(てぬ)きは危険(きけん)です。この現実(げんじつ)を勘違(かんちが)いして、毎日は闘(たたか)いだという人もいます。闘いといえば、ライバルに負けないということが必須(ひっす)です。しかし、専業主婦が家事をやっている時も、会社員が職場で仕事をしている時も、誰とも闘(たたか)ってはいないのです。闘うというならば、怠(なま)けに陥(おちい)りやすい自分と闘わなくてはいけないのです。ライバルは、他人ではなく、自分自身なのです。


 人生は後ろには行けません。飛行機と同じでバックはできないのです。前進することしかできません。「いい加減」ということを念頭(ねんとう)において前進すると、すばらしい未来が開(ひら)けてくるのであります。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの重要性(じゅうようせい)を説かれました。深(ふか)く深く信心(しんじん)することが大事であります。そして、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)いついかなる時も妙法蓮華経の五文字を唱(とな)える時に大きな功徳(くどく)があると仰(おお)せです。常に妙法を唱えていれば、不慮(ふりょ)の事故(じこ)や災難(さいなん)から免(まぬか)れることができるとおっしゃいました。そして、大難(だいなん)が小難(しょうなん)に小難が無難(ぶなん)へと罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)できると仰せです。


 お釈迦さまは、諸行無常(しょぎょうむじょう)を説かれました。この世の中は常に変化をしております。自分の身体も毎日毎日新しい細胞(さいぼう)に変わっていきます。これが、私たちが「生きている」ということです。変化がなくなれば「死」ということになります。


 周りの環境(かんきょう)も常に変化をしております。私たちから執着(しゅうちゃく)がなくなれば、変化に対応できるのですが、なかなか難(むずか)しいことです。お釈迦さまは、執着があるから「苦(くる)しみ」「悩(なや)み」があると説かれました。「こうあるべきだ」と思う執着(しゅうちゃく)を一つでも減(へ)らすことが大事です。


 『慈悲(じひ)』 『誠(まこと)』 『堪忍(かんにん)』の三徳(さんとく)の実践(じっせん)が私たちのこころを育(そだ)ててくれるのです。三徳の中でも『慈悲』はとても重要です。私たちは、いかに慈(いつく)しみを育てることができるのかが、今後の私たちの人生を大きく変えることでしょう。私たちは毎日が精進(しょうじん)であります。日々、自分を磨(みが)くことで『すばらしき人生』へと高めていただきたいと思っております。


合 掌


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