今年は、梅雨が長かったためか残暑の厳しい日々が続いております。新型コロナウイルスが蔓延して八ヶ月が経とうとしております。令和という新時代にこのような形で、日常の生活に支障をきたすとは想像もつきませんでした。私たちにとって、かつての生活がいかに良いものであったか、あらためて感謝の気持ちを持たないといけないと思います。
九月に開催予定の秋季彼岸先祖法要会ですが、三密(密閉・密集・密着)のなかで密集の部分がクリアできないため、法話・参拝は中止とさせていただきます。ご先祖さまのご供養は宣教師全員で執り行わせていただきます。どうかご理解の上、ご協力の程お願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。四国四県は県のなかでも日本一広い岩手県とほぼ同じ面積です。四国のなかに日本一狭い香川県があります。私は源平合戦で有名な高松市の屋島にほど近いところに住んでおりました。
市内の美術館通りに事務所がありました。四国全体で二十名ほどの部下がおりました。私が赴任したのが平成十一年四月でした。丁度、ミレニアム問題のさなかでした。二十一世紀になるとコンピューターが誤作動を起こすのではないかと噂されておりました。私は、一九九九年九月九日にT社との医薬品のアライアンス(提携)の会議が東京であり、心配しながら高松空港より上京した思い出がありました。実際、ミレニアム問題は何も起こらず一安心した思い出があります。
当時、T課長が高知県を担当しており仕事のスピードはとても速かったのですが、少し丁寧さに欠けるところがありました。彼の部下のHさんがとても優秀で、てきぱきと仕事をしておりました。部下が優秀なら管理職は多少能力が低くても売り上げに影響が出るものではありません。重要なことは、いかに優秀な部下を育てるかということが管理職としての大きな仕事なのです。
そして、翌年に組織変更がありました。私は、その優秀なHさんを課長に抜擢し、前任のK課長を福井県に転勤させました。高知県も福井県も売り上げ規模は同じぐらいです。私は、心機一転、彼が成長してくれるのを期待してのことでした。
彼はなんと高知県に七年も単身赴任をしており、彼の本音は早く転勤したいということでした。福井県が彼の出身地でしたので、ふるさと人事をしました。本人は喜んで転勤を受けました。
人間というのは環境が変われば、やる気もでき、楽しんで仕事ができるようになります。彼をよく観察してみると環境が変わったことで、今までとは別人のごとくバリバリと仕事を行い良い成果を得られることができたのです。
仕事の環境を変えてあげることが、彼にとってモチベーション(やる気)を高めることができたのです。人間が、本気になればどんなことでもやり遂げることができます。ダメ元というぐらいの気迫があれば、どんな苦難も乗り越えられます。成功するか、しないかは、その人の本気モードと深い相関があるのです。
さて、仏教に関することですが、一般的に人間にとって「善行為をする」ということは当たり前のことです。宗教に関係のない人々でも善行為をするべきだと思っております。この行為は、人生においてとても重要なことです。善行為の反対は悪行為です。悪行為をしてよいかと尋ねれば、当然、ダメという言葉が返ってきます。
「善行為をしましょう」という言葉は、よく使われております。仏教の場合は、善行為をするだけでは意味がありません。まず、智慧を開発しないと意味がないのです。たとえば、何か行動する時には、目的が必要です。そしてその目的を達成しなければなりません。
しかし、仏教は大衆の意見によって「善行為をするべきだ」と言っているわけではないのです。善行為をすることで智慧が現れるか否かということが、とても重要なところです。
善行為をしているが智慧が現れない、という場合は、無知から脱出していないという意味になります。無知だから人生で成功しました、無知だから幸福になりました、無知だから苦しみを乗り越えました、とは言えないのです。
人生の悩み苦しみの原因、不幸の原因、失敗の原因は、すべて無知から始まります。従って、善行為によって無知を戒めて智慧を開発しなくてはいけないのです。
お釈迦さまは、災難、災害、不幸、苦難たるものは、すべて無知から、あるいは愚か者から発生するのである、と説かれております。智慧からは、災難も災害も苦難も不幸も起きません。ですから、この世の中で何か悪いこと、何か理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起きると、いつでも手綱を握っているのは無知と愚か者なのです。
善行為とはどんなものか、悪行為とはどんなものかと、区別することは難しいことです。善悪については、人の考え方はまちまちで、曖昧なのです。お釈迦さまは明確に判断する方法を教えております。その中でとても大事なことは、「慈しみ」です。生命をどれくらい慈しむことができるかによって、自分が善い人間か悪い人間か、また智慧がある人間かない人間か、区別できるのです。
智慧があるとは、どんな大学を出て、いかに高学歴であるかということではありません。一緒に生きている仲間をどのくらい助けるか、どのくらい生活を楽にしてあげるか、どのくらい苦しみを減らそうとがんばっているか。自分のことを後回しにしてがんばる人々は、当然、尊い人々です。その人々を「智慧のある人」というのです。
従って、定義は簡単です。慈しみがある人は善人です。智慧も現れます。慈しみがない人のことを悪人だと言わざるをえないのです。智慧のない人は愚か者の極みなのです。仏教は愚か者と賢者の区別を説く教えなのであります。
「生きる」とはどうゆうことか。善行為といっても、生きる上での善行為が前提であって生きていることが、まず大事です。生きている人が善行為や悪行為をします。生きるということを忘れてはいけません。世の中にはそれを忘れている人もいます。生きていることが前提なのです。この土台は壊せません。生きることを支えなければいけない。土台を壊すのは、明らかに愚かな行為です。
私たちは何をするにしても、まず生きているのです。シンプルに聞こえますが、それは究極の前提です。生きているから話ができるのです。何を話すかはそのあとです。生きていなければ話すこともありません。善行為も悪行為もありません。「生きるとは何なのか」と、まず考えなければ、先に進みません。
生きるということを難しく考えないで下さい。とても簡単なことです。生きるということは私たちがしているさまざまな無数の行為のことです。意識しようがしまいが、いろんな行為が起こっております。呼吸をする、血液が循環する、見る、聞く、話す、座る、歩く、食べる、寝るなどすべて行為です。いろいろとやっております。それが生きることなのです。
「生きる」という、その箱を開けてみましょう。開けずに、「これは神さまから授かったもので」とか、「これはすばらしい魂で尊いものだ」などと言っても、ただの感想以外の何ものでもありません。まず、箱を開けるとその答えはすぐにわかります。
お釈迦さまが、「生きる」という箱を開けてみたら、すべてこのような「行為」だったというわけです。呼吸も行為、考えることも行為、寝ることも行為、聞くことも行為です。それを「生きる」というのです。その働きが止まったら死んだということになります。
そして、「善行為」、「悪行為」とは、その行為が善いか悪いかを判断することです。生きることを破壊する行為はいけません。私たちの細胞すべてに酸素が必要です。肺は体の中に酸素を取り込んでくれます。心臓は体中に血液を循環させるポンプの働きをします。血液は酸素や栄養分を運んで、いらないものはゴミ処理である腎臓がろ過してくれます。
考えると人間の身体はよくできております。このように体の中で起こる行為がお互いに調和して、補い合って、協力して働いていれば、私たちは何事もなく、健康で無事に生きていけるのです。
身体に異常が起きると、健康が損なわれてしまいます。細胞には寿命があります。一定の時期を過ぎると死んでしまいます。そこで、一つ新しい細胞を作っておかねばなりません。ところが、新しい細胞が次から次へと生まれることがあります。壊れた細胞の代わりではなく、勝手に生まれる細胞があります。それを一般的に「がん細胞」といいます。がん細胞が困ったものです。なぜかというと、他の細胞と調和していないからです。
私たちはご飯を食べなければ生命を維持できません。体に必要な量以上を食べると調和が崩れます。やがて病気にもなります。そうして行為は悪行為です。適量を食べることで、自分の身体が上手く調和を保って働きます。それが善行為です。偏食・多食は悪行為です。私たちが規則正しく生きることが善行為になります。
では智慧はどうでしょうか。身体の調和を保つ目的で規則正しく生きているのだと理解するところが「智慧」なのです。宗教だからという理由で規則正しくしても、智慧にはなりません。「調和がなければ命もない」という事実を理解すれば、そこで智慧が入るということなのです。
生きていく上で、まわりとの調和がとても重要です。そして、節度をもって、無理しないことです。私たちはこころを育て「慈しみ」を自然にできるようになることが、智慧の開発に繋がります。常に自分を高めていく努力が必要なのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法の力を信じ、行住坐臥いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱える時に功徳があるとおっしゃいました。この教えを深く、深く信じる信心の強さが大きいほど功徳も大きいと仰せです。妙法を唱えることで、不慮の事故や災難から免れることができる。そして、大難が小難に小難が無難へと罪障を消滅させることが重要なのです。
三徳『慈悲』『誠』『堪忍』の実践が私たちの人格を高めてくれる。人格が高まれば運命も変わります。私たちが、なにかをする時、そのすることが人格を高めるためになることなのか、ならないのかを考慮しながら生きることが大事です。
生きるということが、苦しい、つらいと思うのは、何かに執着があるから起こります。人間は、執着が強いと自分を変えることを恐れます。今の自分を変えたくないという意思が生まれるのです。その思いが更に苦しみを生みます。やがて、負のスパイラル(悪循環)に陥ります。
お釈迦さまは、諸行無常を説かれました。常にこの世の中は変化しております。自分を変えるには執着という余分な荷物を捨てないといけません。人間は、最初からものには執着できないのです。執着できないものに執着するから苦しみが生まれるわけです。そして、三大煩悩(三毒)の貪(貪欲)・瞋(瞋恚)・痴(愚痴)が私たちを苦しめる原因です。
嫉妬や怒りなどの代わりに慈しみの精神、欲の代わりに無執着のこころを持つことがとても大事であります。私たちも環境の変化に対応できるように三徳の実践と三毒からの脱却が望ましいのであります。日々の努力精進で”すばらしき人生”への階段を昇りたいと思っております。
合 掌