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世界平和を
大樹
すばらしき人生93

今年ことしは、梅雨つゆながかったためか残暑ざんしょきびしい日々ひびつづいております。新型しんがたコロナウイルスが蔓延まんえんして八ヶ月かげつとうとしております。令和れいわというしん時代じだいにこのようなかたちで、日常にちじょう生活せいかつ支障ししょうをきたすとは想像そうぞうもつきませんでした。わたしたちにとって、かつての生活せいかつがいかにいものであったか、あらためて感謝かんしゃ気持きもちをたないといけないとおもいます。


 九がつ開催かいさい予定よてい秋季しゅうき彼岸ひがん先祖せんぞ法要ほうようかいですが、三みつ密閉みっぺい密集みっしゅう密着みっちゃく)のなかで密集みっしゅう部分ぶぶんがクリアできないため、法話ほうわ参拝さんぱい中止ちゅうしとさせていただきます。ご先祖せんぞさまのご供養くよう宣教師せんきょうし全員ぜんいんおこなわせていただきます。どうかご理解りかいうえ、ご協力きょうりょくほどねがいいたします。


 わたしがサラリーマンのときでした。四国しこく責任者せきにんしゃをしておりました。四国しこくけんけんのなかでも日本一にほんいちひろ岩手県いわてけんとほぼおな面積めんせきです。四国しこくのなかに日本一にほんいちせま香川県かがわけんがあります。わたし源平げんぺい合戦かっせん有名ゆうめい高松市たかまつし屋島やしまにほどちかいところにんでおりました。


 市内しない美術館びじゅつかんどおりに事務所じむしょがありました。四国しこく全体ぜんたいで二十めいほどの部下ぶかがおりました。わたし赴任ふにんしたのが平成へいせい十一ねんがつでした。丁度ちょうど、ミレニアム問題もんだいのさなかでした。二十一世紀せいきになるとコンピューターが誤作動ごさどうこすのではないかとうわさされておりました。わたしは、一九九九ねんがつにちにTしゃとの医薬品いやくひんのアライアンス(提携ていけい)の会議かいぎ東京とうきょうであり、心配しんぱいしながら高松空港たかまつくうこうより上京じょうきょうしたおもがありました。実際じっさい、ミレニアム問題もんだいなにこらず一安心ひとあんしんしたおもがあります。


 当時とうじ、T課長かちょう高知県こうちけん担当たんとうしており仕事しごとのスピードはとてもはやかったのですが、すこ丁寧ていねいさにけるところがありました。かれ部下ぶかのHさんがとても優秀ゆうしゅうで、てきぱきと仕事しごとをしておりました。部下ぶか優秀ゆうしゅうなら管理かんりしょく多少たしょう能力のうりょくひくくてもげに影響えいきょうるものではありません。重要じゅうようなことは、いかに優秀ゆうしゅう部下ぶかそだてるかということが管理かんりしょくとしてのおおきな仕事しごとなのです。


 そして、翌年よくねん組織そしき変更へんこうがありました。わたしは、その優秀ゆうしゅうなHさんを課長かちょう抜擢ばってきし、前任ぜんにんのK課長かちょう福井県ふくいけん転勤てんきんさせました。高知県こうちけん福井県ふくいけん規模きぼおなじぐらいです。わたしは、心機しんき一転いってんかれ成長せいちょうしてくれるのを期待きたいしてのことでした。


 かれはなんと高知県こうちけんに七ねん単身赴任たんしんふにんをしており、かれ本音ほんねはや転勤てんきんしたいということでした。福井県ふくいけんかれ出身しゅっしんでしたので、ふるさと人事じんじをしました。本人ほんにんよろこんで転勤てんきんけました。


 人間にんげんというのは環境かんきょうわれば、やるもでき、たのしんで仕事しごとができるようになります。かれをよく観察かんさつしてみると環境かんきょうわったことで、いままでとは別人べつじんのごとくバリバリと仕事しごとおこな成果せいかられることができたのです。


 仕事しごと環境かんきょうえてあげることが、かれにとってモチベーション(やる)をたかめることができたのです。人間にんげんが、本気ほんきになればどんなことでもやりげることができます。ダメもとというぐらいの気迫きはくがあれば、どんな苦難くなんえられます。成功せいこうするか、しないかは、そのひと本気ほんきモードとふか相関そうかんがあるのです。


 さて、仏教ぶっきょうかんすることですが、一般的いっぱんてき人間にんげんにとって「ぜん行為こういをする」ということはたりまえのことです。宗教しゅうきょう関係かんけいのない人々ひとびとでもぜん行為こういをするべきだとおもっております。この行為こういは、人生じんせいにおいてとても重要じゅうようなことです。善行ぜんこう反対はんたいあく行為こういです。あく行為こういをしてよいかとたずねれば、当然とうぜん、ダメという言葉ことばかえってきます。


 「ぜん行為こういをしましょう」という言葉ことばは、よく使つかわれております。仏教ぶっきょう場合ばあいは、ぜん行為こういをするだけでは意味いみがありません。まず、智慧ちえ開発かいはつしないと意味いみがないのです。たとえば、なに行動こうどうするときには、目的もくてき必要ひつようです。そしてその目的もくてき達成たっせいしなければなりません。


 しかし、仏教ぶっきょう大衆たいしゅう意見いけんによって「ぜん行為こういをするべきだ」とっているわけではないのです。ぜん行為こういをすることで智慧ちえあらわれるかいなかということが、とても重要じゅうようなところです。


 ぜん行為こういをしているが智慧ちえあらわれない、という場合ばあいは、無知むちから脱出だっしゅつしていないという意味いみになります。無知むちだから人生じんせい成功せいこうしました、無知むちだから幸福こうふくになりました、無知むちだからくるしみをえました、とはえないのです。


 人生じんせいなやくるしみの原因げんいん不幸ふこう原因げんいん失敗しっぱい原因げんいんは、すべて無知むちからはじまります。したがって、善行ぜんこうによって無知むちいましめて智慧ちえ開発かいはつしなくてはいけないのです。


 お釈迦しゃかさまは、災難さいなん災害さいがい不幸ふこう苦難くなんたるものは、すべて無知むちから、あるいはおろものから発生はっせいするのである、とかれております。智慧ちえからは、災難さいなん災害さいがい苦難くなん不幸ふこうきません。ですから、このなかなにわるいこと、なに理不尽りふじんなこと、不公平ふこうへいなこと、人々ひとびと不幸ふこうまねくことがきると、いつでも手綱たづなにぎっているのは無知むちおろものなのです。


 善行ぜんこうとはどんなものか、あく行為こういとはどんなものかと、区別くべつすることはむずかしいことです。善悪ぜんあくについては、ひとかんがかたはまちまちで、曖昧あいまいなのです。お釈迦しゃかさまは明確めいかく判断はんだんする方法ほうほうおしえております。そのなかでとても大事だいじなことは、「いつくしみ」です。生命せいめいをどれくらいいつくしむことができるかによって、自分じぶん人間にんげんわる人間にんげんか、また智慧ちえがある人間にんげんかない人間にんげんか、区別くべつできるのです。


 智慧ちえがあるとは、どんな大学だいがくて、いかにこう学歴がくれきであるかということではありません。一緒いっしょきている仲間なかまをどのくらいたすけるか、どのくらい生活せいかつらくにしてあげるか、どのくらいくるしみをらそうとがんばっているか。自分じぶんのことを後回あとまわしにしてがんばる人々ひとびとは、当然とうぜんとうと人々ひとびとです。その人々ひとびとを「智慧ちえのあるひと」というのです。


 したがって、定義ていぎ簡単かんたんです。いつくしみがあるひと善人ぜんにんです。智慧ちえあらわれます。いつくしみがないひとのことを悪人あくにんだとわざるをえないのです。智慧ちえのないひとおろものきわみなのです。仏教ぶっきょうおろもの賢者けんじゃ区別くべつおしえなのであります。


 「きる」とはどうゆうことか。善行ぜんこうといっても、きるうえでの善行ぜんこう前提ぜんていであってきていることが、まず大事だいじです。きているひとぜん行為こういあく行為こういをします。きるということをわすれてはいけません。なかにはそれをわすれているひともいます。きていることが前提ぜんていなのです。この土台どだいこわせません。きることをささえなければいけない。土台どだいこわすのは、あきらかにおろかな行為こういです。


 わたしたちはなにをするにしても、まずきているのです。シンプルにこえますが、それは究極きゅうきょく前提ぜんていです。きているからはなしができるのです。なにはなすかはそのあとです。きていなければはなすこともありません。善行ぜんこうあく行為こういもありません。「きるとはなになのか」と、まずかんがえなければ、さきすすみません。


 きるということをむずかしくかんがえないでください。とても簡単かんたんなことです。きるということはわたしたちがしているさまざまな無数むすう行為こういのことです。意識いしきしようがしまいが、いろんな行為こういこっております。呼吸こきゅうをする、血液けつえき循環じゅんかんする、る、く、はなす、すわる、あるく、べる、るなどすべて行為こういです。いろいろとやっております。それがきることなのです。


 「きる」という、そのはこけてみましょう。けずに、「これはかみさまからさずかったもので」とか、「これはすばらしいたましいとうといものだ」などとっても、ただの感想かんそう以外いがいなにものでもありません。まず、はこけるとそのこたえはすぐにわかります。


 お釈迦しゃかさまが、「きる」というはこけてみたら、すべてこのような「行為こうい」だったというわけです。呼吸こきゅう行為こういかんがえることも行為こういることも行為こういくことも行為こういです。それを「きる」というのです。そのはたらきがまったらんだということになります。


 そして、「善行ぜんこう」、「あく行為こうい」とは、その行為こういいかわるいかを判断はんだんすることです。きることを破壊はかいする行為こういはいけません。わたしたちの細胞さいぼうすべてに酸素さんそ必要ひつようです。はいからだなか酸素さんそんでくれます。心臓しんぞう体中からだじゅう血液けつえき循環じゅんかんさせるポンプのはたらきをします。血液けつえき酸素さんそ栄養えいようぶんはこんで、いらないものはゴミ処理しょりである腎臓じんぞうがろしてくれます。


 かんがえると人間にんげん身体しんたいはよくできております。このようにからだなかこる行為こういがおたがいに調和ちょうわして、おぎなって、協力きょうりょくしてはたらいていれば、わたしたちは何事なにごともなく、健康けんこう無事ぶじきていけるのです。


 身体しんたい異常いじょうきると、健康けんこうそこなわれてしまいます。細胞さいぼうには寿命じゅみょうがあります。一定いってい時期じきぎるとんでしまいます。そこで、ひとあたらしい細胞さいぼうつくっておかねばなりません。ところが、あたらしい細胞さいぼうつぎからつぎへとまれることがあります。こわれた細胞さいぼうわりではなく、勝手かってまれる細胞さいぼうがあります。それを一般的いっぱんてきに「がん細胞さいぼう」といいます。がん細胞さいぼうこまったものです。なぜかというと、ほか細胞さいぼう調和ちょうわしていないからです。


 わたしたちはごはんべなければ生命せいめい維持いじできません。からだ必要ひつようりょう以上いじょうべると調和ちょうわくずれます。やがて病気びょうきにもなります。そうして行為こういあく行為こういです。適量てきりょうべることで、自分じぶん身体しんたい上手うま調和ちょうわたもってはたらきます。それが善行ぜんこうです。偏食へんしょく多食たしょくあく行為こういです。わたしたちが規則きそくただしくきることが善行ぜんこうになります。


 では智慧ちえはどうでしょうか。身体しんたい調和ちょうわたも目的もくてき規則きそくただしくきているのだと理解りかいするところが「智慧ちえ」なのです。宗教しゅうきょうだからという理由りゆう規則きそくただしくしても、智慧ちえにはなりません。「調和ちょうわがなければいのちもない」という事実じじつ理解りかいすれば、そこで智慧ちえはいるということなのです。


 きていくうえで、まわりとの調和ちょうわがとても重要じゅうようです。そして、節度せつどをもって、無理むりしないことです。わたしたちはこころをそだて「いつくしみ」を自然しぜんにできるようになることが、智慧ちえ開発かいはつつながります。つね自分じぶんたかめていく努力どりょく必要ひつようなのです。


 教祖きょうそ・杉山辰子先生せんせい妙法みょうほうちからしんじ、行住坐臥ぎょうじゅうざがいついかなるときも「妙法蓮華経」の五文字もじとなえるとき功徳くどくがあるとおっしゃいました。このおしえをふかく、ふかしんじる信心しんじんつよさがおおきいほど功徳くどくおおきいとおおせです。妙法みょうほうとなえることで、不慮ふりょ事故じこ災難さいなんからまぬかれることができる。そして、大難だいなん小難しょうなん小難しょうなん無難ぶなんへと罪障ざいしょう消滅しょうめつさせることが重要じゅうようなのです。


 三徳さんとく慈悲じひ』『まこと』『堪忍かんにん』の実践じっせんわたしたちの人格じんかくたかめてくれる。人格じんかくたかまれば運命うんめいわります。わたしたちが、なにかをするとき、そのすることが人格じんかくたかめるためになることなのか、ならないのかを考慮こうりょしながらきることが大事だいじです。


 きるということが、くるしい、つらいとおもうのは、なにかに執着しゅうちゃくがあるからこります。人間にんげんは、執着しゅうちゃくつよいと自分じぶんえることをおそれます。いま自分じぶんえたくないという意思いしまれるのです。そのおもいがさらくるしみをみます。やがて、のスパイラル(あく循環じゅんかん)におちいります。


 お釈迦しゃかさまは、諸行しょぎょう無常むじょうかれました。つねにこのなか変化へんかしております。自分じぶんえるには執着しゅうちゃくという余分よぶん荷物にもつてないといけません。人間にんげんは、最初さいしょからものには執着しゅうちゃくできないのです。執着しゅうちゃくできないものに執着しゅうちゃくするからくるしみがまれるわけです。そして、三大さんだい煩悩ぼんのう(三どく)のどん(貪欲どんよく)・じん(瞋恚しんい)・(愚痴ぐち)がわたしたちをくるしめる原因げんいんです。


 嫉妬しっといかりなどのわりにいつくしみの精神せいしんよくわりに執着しゅうちゃくのこころをつことがとても大事だいじであります。わたしたちも環境かんきょう変化へんか対応たいおうできるように三徳さんとく実践じっせんと三どくからの脱却だっきゃくのぞましいのであります。日々ひび努力どりょく精進しょうじんで”すばらしき人生じんせい”への階段かいだんのぼりたいとおもっております。


合 掌


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