新型コロナウイルスが世界的に蔓延し、新しい生活様式にも少し慣れてきた今日この頃です。十月に入り暑さも収まってきております。人間の活動自体がコロナウイルスの拡散になるため、不要・不急な外出はなるべく控えることが賢明です。
ワクチンや新薬もまだしばらく時間がかかりそうです。三密を避け感染しないようにしなければいけません。コロナに感染しない、感染させないと思うことが大事ではないでしょうか。自分だけでなく相手のことを「思いやる」という慈悲のこころを強く持つことが、とても大切なのです。
最近の報告では一度、感染して免疫ができたと安心していたら、また新たなDNAのコロナウイルスに感染した事例もあります。本当に先の見えない厄介なウイルスとの闘いは、しばらく続きそうです。
私たちにできることは、朝のお努めで信者の皆さまが感染しないように、祈りを捧げることです。どうかご自愛くださいますようお願いいたします。
秋季彼岸先祖法要会並びに萬霊供養塔慰霊祭では、ご先祖さまのご供養を宣教師全員で無事執り行いました。信者の皆さまには法話並びに参拝の中止にご協力していただきありがとうございました。コロナ禍において次回開催予定の立教四十七年祭も読経のみの開催となります。恒例の来賓挨拶・法話・落語・和太鼓・餅投げ・参拝を中止させていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
私がサラリーマンだった時のことです。静岡県の責任者をしておりました。毎年、部下が増員され最終的に十名のチームとなりました。当時、インスリンを販売している会社はおもに二社でした。私が赴任した時の静岡県のインスリンのマーケットシェア(市場占有率)は五十五%でした。八年で二十%をシェアを増やし七十五%まで伸ばしました。このような寡占状態になると、あまり宣伝しなくても自然と売り上げは右肩上がりとなります。
マーケットシェアを上げるには、やはり優秀な部下が必要なのです。上司を生かすも殺すも部下次第です。私は、本当に優秀な部下に恵まれました。その結果、マーケットシェアを獲得し売り上げが増えたのです。
会社では部下を選ぶことができません。部下も上司を選べません。しかし、私の上司が優秀な人材を手当てしてくれなければ、全く違った展開になったと思います。Hさんはとても優秀でした。「夜討ち朝駆け」と言って、とにかくスピーディで正確で、クロージング(商談成立)まで卒なくできるのです。
彼が懇意にさせていただいたS総合病院のN先生と競争相手の担当者に聞こえるように「ガセネタ(偽情報)」を先生と組んで流したものでした。それを聞いた競争相手の担当者は、間違った情報を会社に報告したのです。嘘のような本当の話です。
営業というものは、競争相手から良い人だと言われたらダメなのです。社内で言われるのは良いですが、社外の人から言われてはいけないのです。仕事は、取るか取られるかで殆ど決まります。つまり優勝劣敗なのです。
成長ホルモンは先発三社と後発三社の激しい競争でした。成長ホルモンの世界は一例がとても大事です。一例、一例の積み重ねが重要なのです。言葉はとても難しいと思います。先生に一例切り替えてくださいと、喉から手が出るほど欲しいのですが、その言葉を口に出すことはなかなかできないものです。切り替える時のメリットとデメリットがあります。切り替えるための大義がないと無理なのです。
私が静岡市のS病院を担当していた時に、会社の製剤で濃度が三倍の薬液の成長ホルモン製剤がありました。体重あたりに注射の量が定められております。私は、背が伸びてきて体重の増えた子供さんの製剤を注射量が三分の一で痛みの軽減になりますという内容をM先生に伝え、体重が増えたら切り替えてもらえるようなシステムをつくったのです。注射量が減り痛みの軽減になるという患者さまのメリットと体重が増えることで使用量が増えることが会社のメリットになるのです。
富士市でJ病院の小児科部長をされていたS先生が、市内で開業されることになり、成長ホルモンの患者さまを一例診ておられました。先生は成長ホルモン療法についてあまり知識がなく、診ておられる患者さまの成長ホルモンの継続申請書を出されて回答がありました。治療継続ができなくなったと私に連絡が入りました。私は、その継続申請書を調べたところ、先生は重大なミスをされておられました。それは、本来申請書には骨年齢(手の手根骨)を記載するところに患者さまの暦年齢を記入されました。私は先生に骨年齢と暦年齢を書き間違えましたという理由をつけ再度申請してくださいと伝えました。すると、結果は治療の継続に繋がったのです。
仕事は、常に誠意をもって行うことです。誠意が伝われば信頼を得られます。どんな時も一生懸命に取り組み、自分の持てる力を発揮できれば、納得のいく仕事ができるのです。そして、うまくいかなくなった時は、逆転の発想が必要なのです。要するに、押してもだめなら、引いてみるです。すべてが順調にいくということはあり得ません。どんな時でもあきらめずに前向きにしていれば、チャンスは必ずやってきます。そのチャンスを捉まえた人が成功者なのであります。
さて、仏教では、善行為を行い悪行為はやめなさいと説いております。そして、道徳的に生きることを薦めております。人間というのは自分にとって良いことは善で、都合の悪いことは悪として捉えがちです。しかし、何が自分にとって本当に良いことなのか、何が本当に悪いことなのか、わかっているのでしょうか。それさえもわかっていないのです。人間は、ただ生まれてきただけです。生まれてきて、世の中の人の言うことを学んだだけで、智慧があるわけではありません。人に教わることを覚える、ただそれだけです。
私たち人間は、何も知らずに生まれても自我は初めからあるのです。赤ちゃんにもあります。「私」という自我がある場合は、当然、その自我に都合が良いもの、悪いものも現れてくるのです。人の自我の程度によって、それらがさまざまに変化するのです。
しかし、客観的にみると、自我の判断が疑われます。例えば、子供は「勉強しなさい」と言われるのはいやです。ゲームのほうがおもしろいと思って、勉強はやりたくない。大人は、「ゲームをしてはいけない」と言います。すると子供は、「こんなことを勉強して、本当に役に立つのか」と聞きます。大人にも答えはないので答えられません。結局、漠然とした善悪観は持っていても、何が善で何が悪か、世の中の人は誰も明確に答えられません。
皆さまもご自身のこころに聞いてみてください。自分が持っている能力を発揮して楽しく仕事をしたいと誰もが思います。しかし、自分にとってどんな仕事が良いか悪いかわからない。それは自我から発生する悲しい結果なのです。
自我には、何が良いか悪いかわからない。自分にとって悪いものを良いものだと勘違いするし、自分にとって良いものを、いとも簡単に悪いものだと判断してしまう。自我は感情で判断します。感情が入ると、人は必ず間違った判断をするのだとお釈迦さまは言われます。その感情とは、欲や怒り、嫉妬、憎しみのことです。それですべてを決めてしまうのです。
仏教の経典にある「自業自得」という言葉はとても重要な意味を持ちます。自分の行った行為が結果として自分自身に返ってくるという意味です。人は善行為をすると繁栄して幸福になります。まず、善行為をすると、他人がその恩恵を受けます。他人に愛されます。守られます。支えられます。自分としても、良い生き方をしているのだ、という充実感が生まれます。自信があって、安心したこころで生きられます。不安も恐怖感もなくなります。それも自業自得なのです。
自業自得の法則は、生命に関わる法則です。大自然には関係のないことです。たとえば、東日本大震災で東京電力の福島第一原発が破壊され、まわりに放射能が漏れました。人間と他の生命にとってはとんでもない危険なことです。しかし、生命の存在しない大自然にとっては全く影響のないことです。痛くもかゆくもありません。放射能のせいで半径二十キロ圏内は立ち入り禁止となりました。私たち人間が危険を省みることなく、欲だけに目が眩んで原発をつくったのは人間です。その悪影響も、人間が受けなくてはいけないのです。これも自業自得の法則です。
善行為についても、意志がとても大事なのです。どれぐらい自我の気持ちを抑えられるのか、ということで善行為の大小は決まります。例えば、ホームレスの人が義援金として千円寄付したとしましょう。それはその人が持っている全財産だとしましょう。全財産を寄付する時は、強く自我を抑えなくてはならないのです。自分のことを中心に考える人にはできないことです。天文学的な財産を寄付する人々は、全財産を寄付する、ということには多くの場合、ならないのです。従って、善行為の場合は金額の大小ではなく、自我の気持ちをどこまで抑えられるか、ということになります。
しかし、私たちの意志というものは、いつでも欲で汚れております。きれいな服を着たい、おいしいものを食べたいと常に思っております。私たちには意志があるけど、その意志は「貪・瞋・痴」で汚れております。「貪」というのは欲、「瞋」は怒り、「痴」は愚痴です。ですから、私たちの行為は、殆どが悪行為になってしまうのです。「貪・瞋・痴」で生きている限り、悪行為をしているのです。
皆さまも経験があると思いますが、良いことをしようとすると、こころにブレーキがかかるものです。あのブレーキとはいったい何なのか。たとえば、お年寄りが電車に乗ってきて立ったままでも、若者は席を譲らずタヌキ寝入りをしている。では、なぜタヌキ寝入りをするのでしょうか。どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と、なかなか言えません。それは、貪・瞋・痴なのです。偽善行為をすると思われたら恥ずかしい、「けっこうです」と断られたら立場がない。あるいは、自分も疲れているからとか、席を譲っても座らないだろうか、など余計な理屈をつけます。そんなことが理由で立たないというだけで、そのような若者たちは、悪人であるというわけではないのです。「年寄りなんか知ったことじゃない」とは思っていないのです。こころにブレーキがかかっているため、席を譲ることができなくなっているのです。そのブレーキが貪瞋痴なのです。
従って、こころのブレーキさえなければ、電車の中でお年寄りに何の躊躇もなく、「どうぞ、座ってください」と声をかけられます。「次の駅で降りますから」と断られても、「かまいません、どうぞ」と明るく言えます。そんなやり取りで、とてもやさしい世界が生まれるのです。小さな親切でも最高の幸福感を味わうことができるのです。
こうした善行為によって人格も向上します。善行為は生きる人の義務であり、責務であって、欠かせないことです。生きていれば善行為をするのが当たり前のことです。そして、すべての行為は意志で行っております。しかし、意志が汚れていれば、行為も汚れます。つまり、汚れた気持ちで善行為をしても、いい結果は得られません。
人のこころの気持ち一つで、同じ行為が善にも悪にもなるのです。問題は意志、気持ちがとても大事なのです。
自分は生かされて生きているということですから、恩返しをしなければなりません。立派な意志から行う善行為はすばらしい善行為になるし、智恵が現れてまいります。そういう生き方をすれば不安のないこころで、安定し毎日を送ることができるのです。きれいなこころで行う善行為は必ず良い結果をもたらすと説かれております。まずは、できることから精進することがとても大事であるのです。
教祖・杉山辰子先生は法華経を深く信じ、常住坐臥いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えれば、必ず守られると説かれました。そうすれば不慮の事故や災難から免れることができる。そして、大難が小難に小難が無難へと罪障を消滅することができると仰せです。『慈悲』『誠』『堪忍』の三徳の実践がとても大事です。私たちが三徳を実践することで「こころを育てる」ことができるのです。こころが育てば人格が高まります。人格が高まれば人生も変わります。そうすえれば、必ず良い運命へと変えることができるのです。私たちは、日々精進することにより「すばらしき人生」への軌道に入りたいと思っております。
合 掌