秋になり過ごしやすい日々が続いております。しかし、今年は新型コロナウイルスが世界的に蔓延したため、必然的に新しい生活様式へと暮らしに変化がありました。この先、どう終息するのか誰にもわかりません。三密(密閉・密集・密着)を避け、マスクの着用と手洗いうがいの励行と手指の消毒はしばらく続きそうです。
経済も疲弊しかけておりますので、政府はGOTOトラベル(旅行)やGOTOイート(食事)などの経済支援対策を打っております。現状、多くの会社や大学はリモート(遠隔)で非接触型になりました。会社によっては、現行の週休二日制から週休三日制や週休四日制になるところもあります。もちろん給与は八十%や六十%に減ります。そうゆうわけで副業をしなければならない人も増えてきます。
医療現場でも、診療、処方、決済がオンラインで完結する仕組みへと変わってまいります。病院やクリニックがコロナ感染で一番危険なところです。患者がコロナなのかインフルなのか風邪なのか判断がつかないケースが多いことで危険リスクが最も高まります。
人が活動することでコロナ感染拡大の大きな原因となります。しかし、経済も回復しなければならないので、感染が拡大傾向でしたら活動自粛、縮小傾向なら再開というふうに、状況に応じた対応となるでしょう。
十一月八日(日)の法公会立教四十七年祭は読経のみの開催となります。恒例の来賓挨拶、法話、演芸、和太鼓、餅投げ及び参拝を中止とさせていただきます。現況から見ても、まだ大きな祭事ができる状況にありません。悪しからずご了承賜りますようお願い致します。
私がサラリーマンの時でした。四国で責任者をしておりました。四県なので部下の課長が四名おりました。皆それぞれの個性がありました。売り上げが多い人、そうでない人、仕事がはやい人、そうでない人、内容(精度)が高い人、そうでない人といろいろあります。
理想は売り上げが良く、仕事がはやく、精度が高い人が一番なのですが、完璧な人はおりません。愛媛県のM課長は売り上げは良いのですが、内容が淡泊であり、高知県のKY課長は売り上げも良くはやいのですが、内容がいまいちです。徳島県のO課長の仕事は、あまりはやくなくスピード感にかけますが、売り上げもそこそこで内容は濃い人です。香川県のK課長は売り上げも仕事のスピードもあまりよくないですが熱心なタイプでした。
人間観察をするとさまざまなことがわかってまいります。育った環境がその人の人格に現れます。まず、両親、家族、学校、先生、クラブ活動など周りの環境で人というものが形成されます。人間はすべて教わらなければ何の知識も得ることができません。
売り上げではM課長とKY課長で仕事のスピードはKY課長で内容はO課長とK課長という分類になります。四十代になるとなかなか指導しても大きく変わることができません。変わろうとしても変えられないのです。その人は、気づいていながら本気で短所を変えようとは思ってないのです。
各課長の短所を改善するためには、長所を褒めて、さらに長所を伸ばしたうえで、短所の改革に取り組まなければいけないのです。ストレートに短所だけをクローズアップして改善するようにと言ったら、大半は反発され改善どころか改悪になりかねません。まずは、長所を褒めること、そしてそれを伸ばすこと。そうしなければ人間関係に弊害が生まれます。
前任のT支店長から引き継いだ時は、四人ともバラバラな感じで、それぞれ連携がうまくいっておりませんでした。まず、この支店に足りないものは、いったい何なのか。それは、一体感なのです。私を含め五人に共通のビジョン(未来像)を持たなければいけないのです。そこで支店の共通のビジョンを持つためのディスカッション(討論)をしました。売り上げは決められたものが本部より降りてきます。その目標を達成するためのどうしてもビジョンが必要なのです。
三年間、彼らを指導して来たのですが、全員が変わったわけではありませんでしたが、共通の方向性を持ち、どういう戦術で活動をするかという共通の認識ができました。与えられた目標は各課ごとに違いますが、支店の目標は一つですので、できない人がいたらほかの誰かがカバーすれば、目標達成はできるのです。
共通のビジョン(未来像)がなければ、価値観を共有することはできません。一人の力なんて知れたものです。組織が一体となれば、高い目標でも達成できるのです。仕事というものはそういう協調性を克服できなければ、成功はあり得ません。ビギナーズラック(まぐれ)は、あるかもしれませんが、常に目標を達成し続けるには、このような背景が、どうしても必要なのであります。
さて、仏教の大切な教えの中に、「慈しみ」があります。それは、「人間と生命」という大きなテーマと繋がっております。私たちは、みんな生きている。生きているから良いことも、悪いことも含めさまざまな問題が発生します。従って、「生きている」について、きちんと考えなければいけません。
お釈迦さまは、「生きる」とは何か。「生きる目的」とは何か。「どのように生きるべきか」という三つの重要な事柄を説かれました。
まず、生きるとは何か。このことは哲学でもあまり考えない問題です。神が人間をつくったという話ではなく、お釈迦さまは、科学的見地から「生きる」ということを探求されました。実験をして、いろいろなことを研究した具体的な証拠があるのです。概念は不要です。なぜなら、自分が生きているからです。生きるとは何か。それは、生きている自分を観察することで、はっきりとわかるはずです。
周りにもたくさんの生き物が存在しております。そこから、「生きている」とはどういうことかを研究することができます。それをお釈迦さまは、超越した智慧で調べたのです。目で見ただけで、耳で聞いただけで、結論に達したわけではありません。そして、お釈迦さまが最終的に達した結論とは、「生きることは苦である」ということでした。
宇宙のスケールで「生命」を見たお釈迦さまは、「生きることは苦である」と言われます。生命を宇宙という巨大なエネルギーと比較してみるとわかるとおり、私たちの身体は、ほんの小さな取るに足らない存在です。そんな小さな身体で大きな宇宙に逆らうことは、とうてい無理なことです。立つことも、歩くことも、座ることも、話すことも、どれ一つとして楽なものはありません。つまり、生きることはすべて、「苦」なのです。
私たちが「生きている」ということは、「動いている」ということです。停止せずに身体の中に「動き」があるのです。細胞の一つひとつが動いて、停止はしません。骨は停止しているように見えますが、違います。骨の細胞もずっと動いています。動くという言葉に、「移動する」という意味もあります。一個一個の細胞が、微妙に膨らんだり縮んだりして動いているのです。ここで意味するのは、その「動き」です。
例えば、皆さまの心臓の動きは一定で規則正しいと思っておられますが、実際はそうではありません。速く動いたりゆっくり動いたりといろいろ変化します。万有引力の法則から考えると、私たちは地面の上に立っていることはできないはずです。なぜかというと、足の裏の面積はすごく小さいのに、胴体はすごく重いからです。人間と同じようなプロポーションの置物を作ったら必ず倒れます。
しかし、私たちは、そうなりません。足の裏は平らではなくデコボコしております。それなのに見事に立っています。電車の中で立っている時に、電車がカーブを曲がったり、ブレーキをかけたりすると、私たちは倒れるはずです。しかし、体のバランスをとって、倒れないように踏ん張ります。物質のエネルギーと違ったエネルギーが身体という物体の中で働いていることは確かです。
それは「こころ」のエネルギーであると名付けたらわかりやすいのです。私たちは、疲れたり、あるいは意識がなくなたっり、貧血を起こしたりすると倒れてしまいます。その時、こころのエネルギーは弱くなって、身体の維持ができなくなっているのです。物質の力と違う別なエネルギーも身体の中で働いていることがわかります。
では、こころのエネルギーとは何なのでしょうか。ごく当たり前のことですが、身体には「感じる」という機能が備わっております。目で、耳で、鼻で感じるわけです。何かを感じると、そこにエネルギーが生まれます。生命は、「感じる」ことで、エネルギーをつくり出します。それほど大量につくることはできませんが、それでも、けっこうつくれます。
エネルギーをつくるのは、身体の感覚です。身体にデータが触れるのです。生命の感覚が刺激されて、認識エネルギーがつくられますが、どんな物質がどこに触れるかということを、仏教では明確に調べております。身体にはエネルギーを感じる場所が六つあります。眼・耳・鼻・舌・身・意と言います。これが六根です。なぜ身体を六根に分けたのでしょうか。六種類の感覚があるからです。六種類の感覚が、六種類のデータを感じるのです。「感じる」ことが「生きる」ことなのです。感じる能力がなければ、生きものではありません。ただの物体です。物体に感じるという能力があるとするならば生きものです。しかし、すべてを感じることはできません。それぞれの物体が、限られたデータ量を感じているのです。それで生きているということになります。感覚器官にデータが触れると、感じるというエネルギーが生じます。そのエネルギーによって、身体が動くのです。
ではどうしてエネルギーで身体が動くのでしょうか。それは、感覚の性質に関係があるのです。感覚とは、「苦」と断言しなくてもいいですが、基本的に感覚は「苦」であると言えます。その苦を何としても変えなければならないのです。
例えば、一時間ほど立っていると、けっこう感じます。何を感じるかと言いますと、「苦」を感じます。そして疲れてしまい、座らなければならなくなります。手を上げ続けていても同じことが言えます。手を下げることにより、地球の重力に反発しなくなり「楽」を感じます。手を上げていると、しばらくすると腕が痛くなります。つまり、苦しみが生まれます。身体は発電機として、電力ではなく、「苦」という力を発生するのです。「苦」がたまると疲れてくるので、何か別のエネルギーに変換しなければならなくなります。そのために、生命は絶えず動いていなくてはならないわけです。呼吸をする、ご飯を食べる、寝る、起きる、人と話をするなどです。それが生きるということです。この生きるエネルギーは、「苦」なのです。
身体の中に起こる最大のエネルギーは六根の中の「意」です。「意」は考える・思考する・妄想する、などの働きをします。この「意」によって、相当な苦のエネルギーが起こります。意に比べれば、見る、聞く、味わうなどのエネルギーは、それほど大きくはないのです。私たちが何かを客観的に考える・思考する時間はわずかです。妄想する時間は、比較にならないほど長いのです。妄想は自我中心的であり、感情によって発する意の回転です。感情とは貪・瞋・痴のことです。つまり、汚れたこころで妄想をしているということです。
お釈迦さまは「生きる」ということの最終結論として説かれました。生きるとは、物体に感覚があることです。物体に感じる能力があることです。感じられる場所は六つです。六種類のデータを感じられます。感じると、苦のエネルギーが発生します。苦を別な苦に置き換えることが、生きることになるのです。要するに、「苦の流れ」が生きるということなのであります。
教祖・杉山辰子先生はこの妙法の力を信じる信心の強さで功徳が変わってくると言われました。妙法の力を深く信じ、行住坐臥いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を唱えることで不慮の事故や災難から免れることができると仰せです。
人間は、どうしても煩悩に支配されてしまう悪い癖があります。教祖さまは「三毒」をなくすことが大事と仰せです。三大煩悩の貪(貪欲)・瞋(瞋恚)・痴(愚痴)の中でも貪欲を少なくすることが大事であると言われました。三大煩悩の代わりに三徳『慈悲』『誠』『堪忍』を実践することがとても重要であると説かれました。
私たちも日頃の生活の中で『三徳』の実践をすることが望ましいのです。慈しみのこころになり、誠を尽くし、しっかりと堪忍をしましょう。そして、すべてに感謝して生きることが、"すばらしき人生"へと高めてくれるのであります。
合 掌