PAGE
TOP

世界平和を
大樹
すばらしき人生95

あきになりごしやすい日々ひびつづいております。しかし、今年ことし新型しんがたコロナウイルスが世界的せかいてき蔓延まんえんしたため、必然的ひつぜんてきあたらしい生活せいかつ様式ようしきへとらしに変化へんかがありました。このさき、どう終息しゅうそくするのかだれにもわかりません。三みつ密閉みっぺい密集みっしゅう密着みっちゃく)をけ、マスクの着用ちゃくよう手洗てあらいうがいの励行れいこう手指しゅし消毒しょうどくはしばらくつづきそうです。


 経済けいざい疲弊ひへいしかけておりますので、政府せいふはGOTOトラベル(旅行りょこう)やGOTOイート(食事しょくじ)などの経済けいざい支援しえん対策たいさくっております。現状げんじょうおおくの会社かいしゃ大学だいがくはリモート(遠隔えんかく)で接触せっしょくがたになりました。会社かいしゃによっては、現行げんこう週休しゅうきゅう二日制ふつかせいから週休しゅうきゅう三日制みっかせい週休しゅうきゅう四日制よっかせいになるところもあります。もちろん給与きゅうよは八十%や六十%にります。そうゆうわけで副業ふくぎょうをしなければならないひとえてきます。


 医療いりょう現場げんばでも、診療しんりょう処方しょほう決済けっさいがオンラインで完結かんけつする仕組しくみへとわってまいります。病院びょういんやクリニックがコロナ感染かんせん一番いちばん危険きけんなところです。患者かんじゃがコロナなのかインフルなのか風邪かぜなのか判断はんだんがつかないケースがおおいことで危険きけんリスクがもっとたかまります。


 ひと活動かつどうすることでコロナ感染かんせん拡大かくだいおおきな原因げんいんとなります。しかし、経済けいざい回復かいふくしなければならないので、感染かんせん拡大かくだい傾向けいこうでしたら活動かつどう自粛じしゅく縮小しゅくしょう傾向けいこうなら再開さいかいというふうに、状況じょうきょうおうじた対応たいおうとなるでしょう。


 十一月八日(日)のほう公会こうかい立教りっきょう四十七ねんさい読経どきょうのみの開催かいさいとなります。恒例こうれい来賓らいひん挨拶あいさつ法話ほうわ演芸えんげい和太鼓わだいこもちおよ参拝さんぱい中止ちゅうしとさせていただきます。現況げんきょうからても、まだおおきな祭事さいじができる状況じょうきょうにありません。しからずご了承りょうしょうたまわりますようおねがいたします。


 わたしがサラリーマンのときでした。四国しこく責任者せきにんしゃをしておりました。四けんなので部下ぶか課長かちょうが四めいおりました。みなそれぞれの個性こせいがありました。げがおおひと、そうでないひと仕事しごとがはやいひと、そうでないひと内容ないよう(精度せいど)がたかひと、そうでないひとといろいろあります。


 理想りそうげがく、仕事しごとがはやく、精度せいどたかひと一番いちばんなのですが、完璧かんぺきひとはおりません。愛媛県えひめけんのM課長かちょうげはいのですが、内容ないよう淡泊たんぱくであり、高知県こうちけんのKY課長かちょうげもくはやいのですが、内容ないようがいまいちです。徳島県とくしまけんのO課長かちょう仕事しごとは、あまりはやくなくスピードかんにかけますが、げもそこそこで内容ないようひとです。香川県かがわけんのK課長かちょうげも仕事しごとのスピードもあまりよくないですが熱心ねっしんなタイプでした。


 人間にんげん観察かんさつをするとさまざまなことがわかってまいります。そだった環境かんきょうがそのひと人格じんかくあらわれます。まず、両親りょうしん家族かぞく学校がっこう先生せんせい、クラブ活動かつどうなどまわりの環境かんきょうひとというものが形成けいせいされます。人間にんげんはすべておそわらなければなに知識ちしきることができません。


 げではM課長かちょうとKY課長かちょう仕事しごとのスピードはKY課長かちょう内容ないようはO課長かちょうとK課長かちょうという分類ぶんるいになります。四十だいになるとなかなか指導しどうしてもおおきくわることができません。わろうとしてもえられないのです。そのひとは、づいていながら本気ほんき短所たんしょえようとはおもってないのです。


 かく課長かちょう短所たんしょ改善かいぜんするためには、長所ちょうしょめて、さらに長所ちょうしょばしたうえで、短所たんしょ改革かいかくまなければいけないのです。ストレートに短所たんしょだけをクローズアップして改善かいぜんするようにとったら、大半たいはん反発はんぱつされ改善かいぜんどころか改悪かいあくになりかねません。まずは、長所ちょうしょめること、そしてそれをばすこと。そうしなければ人間にんげん関係かんけい弊害へいがいまれます。


 前任ぜんにんのT支店してんちょうからいだときは、四にんともバラバラなかんじで、それぞれ連携れんけいがうまくいっておりませんでした。まず、この支店してんりないものは、いったいなんなのか。それは、一体感いったいかんなのです。わたしふくめ五にん共通きょうつうのビジョン(未来像みらいぞう)をたなければいけないのです。そこで支店してん共通きょうつうのビジョンをつためのディスカッション(討論とうろん)をしました。げはめられたものが本部ほんぶよりりてきます。その目標もくひょう達成たっせいするためのどうしてもビジョンが必要ひつようなのです。


 三ねんかんかれらを指導しどうしてたのですが、全員ぜんいんわったわけではありませんでしたが、共通きょうつう方向性ほうこうせいち、どういう戦術せんじゅつ活動かつどうをするかという共通きょうつう認識にんしきができました。あたえられた目標もくひょう各課かくかごとにちがいますが、支店してん目標もくひょうひとつですので、できないひとがいたらほかのだれかがカバーすれば、目標もくひょう達成たっせいはできるのです。


 共通きょうつうのビジョン(未来像みらいぞう)がなければ、価値観かちかん共有きょうゆうすることはできません。一人ひとりちからなんてれたものです。組織そしき一体いったいとなれば、たか目標もくひょうでも達成たっせいできるのです。仕事しごとというものはそういう協調性きょうちょうせい克服こくふくできなければ、成功せいこうはありません。ビギナーズラック(まぐれ)は、あるかもしれませんが、つね目標もくひょう達成たっせいつづけるには、このような背景はいけいが、どうしても必要ひつようなのであります。


 さて、仏教ぶっきょう大切たいせつおしえのなかに、「いつくしみ」があります。それは、「人間にんげん生命せいめい」というおおきなテーマとつながっております。わたしたちは、みんなきている。きているからいことも、わるいこともふくめさまざまな問題もんだい発生はっせいします。したがって、「きている」について、きちんとかんがえなければいけません。


 お釈迦しゃかさまは、「きる」とはなにか。「きる目的もくてき」とはなにか。「どのようにきるべきか」というみっつの重要じゅうよう事柄ことがらかれました。


 まず、きるとはなにか。このことは哲学てつがくでもあまりかんがえない問題もんだいです。かみ人間にんげんをつくったというはなしではなく、お釈迦しゃかさまは、科学的かがくてき見地けんちから「きる」ということを探求たんきゅうされました。実験じっけんをして、いろいろなことを研究けんきゅうした具体的ぐたいてき証拠しょうこがあるのです。概念がいねん不要ふようです。なぜなら、自分じぶんきているからです。きるとはなにか。それは、きている自分じぶん観察かんさつすることで、はっきりとわかるはずです。


 まわりにもたくさんのもの存在そんざいしております。そこから、「きている」とはどういうことかを研究けんきゅうすることができます。それをお釈迦しゃかさまは、超越ちょうえつした智慧ちえ調しらべたのです。ただけで、みみいただけで、結論けつろんたっしたわけではありません。そして、お釈迦しゃかさまが最終的さいしゅうてきたっした結論けつろんとは、「きることはである」ということでした。


 宇宙うちゅうのスケールで「生命せいめい」をたお釈迦しゃかさまは、「きることはである」とわれます。生命せいめい宇宙うちゅうという巨大きょだいなエネルギーと比較ひかくしてみるとわかるとおり、わたしたちの身体しんたいは、ほんのちいさなるにらない存在そんざいです。そんなちいさな身体しんたいおおきな宇宙うちゅうさからうことは、とうてい無理むりなことです。つことも、あるくことも、すわることも、はなすことも、どれひとつとしてらくなものはありません。つまり、きることはすべて、「」なのです。


 わたしたちが「きている」ということは、「うごいている」ということです。停止ていしせずに身体しんたいなかに「うごき」があるのです。細胞さいぼうひとつひとつがうごいて、停止ていしはしません。ほね停止ていししているようにえますが、ちがいます。ほね細胞さいぼうもずっとうごいています。うごくという言葉ことばに、「移動いどうする」という意味いみもあります。一細胞さいぼうが、微妙びみょうふくらんだりちぢんだりしてうごいているのです。ここで意味いみするのは、その「うごき」です。


 たとえば、みなさまの心臓しんぞううごきは一定いってい規則きそくただしいとおもっておられますが、実際じっさいはそうではありません。はやうごいたりゆっくりうごいたりといろいろ変化へんかします。万有ばんゆう引力いんりょく法則ほうそくからかんがえると、わたしたちは地面じめんうえっていることはできないはずです。なぜかというと、あしうら面積めんせきはすごくちいさいのに、胴体どうたいはすごくおもいからです。人間にんげんおなじようなプロポーションの置物おきものつくったらかならたおれます。


 しかし、わたしたちは、そうなりません。あしうらたいらではなくデコボコしております。それなのに見事みごとっています。電車でんしゃなかっているときに、電車でんしゃがカーブをがったり、ブレーキをかけたりすると、わたしたちはたおれるはずです。しかし、からだのバランスをとって、たおれないようにります。物質ぶっしつのエネルギーとちがったエネルギーが身体しんたいという物体ぶったいなかはたらいていることはたしかです。


 それは「こころ」のエネルギーであると名付なづけたらわかりやすいのです。わたしたちは、つかれたり、あるいは意識いしきがなくなたっり、貧血ひんけつこしたりするとたおれてしまいます。そのとき、こころのエネルギーはよわくなって、身体しんたい維持いじができなくなっているのです。物質ぶっしつちからちがべつなエネルギーも身体しんたいなかはたらいていることがわかります。


 では、こころのエネルギーとはなになのでしょうか。ごくたりまえのことですが、身体しんたいには「かんじる」という機能きのうそなわっております。で、みみで、はなかんじるわけです。なにかをかんじると、そこにエネルギーがまれます。生命せいめいは、「かんじる」ことで、エネルギーをつくりします。それほど大量たいりょうにつくることはできませんが、それでも、けっこうつくれます。


 エネルギーをつくるのは、身体しんたい感覚かんかくです。身体しんたいにデータがれるのです。生命せいめい感覚かんかく刺激しげきされて、認識にんしきエネルギーがつくられますが、どんな物質ぶっしつがどこにれるかということを、仏教ぶっきょうでは明確めいかく調しらべております。身体しんたいにはエネルギーをかんじる場所ばしょむっつあります。みみはなしたしんいます。これが六根ろっこんです。なぜ身体しんたい六根ろっこんけたのでしょうか。六種類しゅるい感覚かんかくがあるからです。六種類しゅるい感覚かんかくが、六種類しゅるいのデータをかんじるのです。「かんじる」ことが「きる」ことなのです。かんじる能力のうりょくがなければ、きものではありません。ただの物体ぶったいです。物体ぶったいかんじるという能力のうりょくがあるとするならばきものです。しかし、すべてをかんじることはできません。それぞれの物体ぶったいが、かぎられたデータりょうかんじているのです。それできているということになります。感覚かんかく器官きかんにデータがれると、かんじるというエネルギーがしょうじます。そのエネルギーによって、身体しんたいうごくのです。


 ではどうしてエネルギーで身体しんたいうごくのでしょうか。それは、感覚かんかく性質せいしつ関係かんけいがあるのです。感覚かんかくとは、「」と断言だんげんしなくてもいいですが、基本的きほんてき感覚かんかくは「」であるとえます。そのなんとしてもえなければならないのです。


 たとえば、一時間じかんほどっていると、けっこうかんじます。なにかんじるかといますと、「」をかんじます。そしてつかれてしまい、すわらなければならなくなります。つづけていてもおなじことがえます。げることにより、地球ちきゅう重力じゅうりょく反発はんぱつしなくなり「らく」をかんじます。げていると、しばらくするとうでいたくなります。つまり、くるしみがまれます。身体しんたい発電機はつでんきとして、電力でんりょくではなく、「」というちから発生はっせいするのです。「」がたまるとつかれてくるので、なにべつのエネルギーに変換へんかんしなければならなくなります。そのために、生命せいめいえずうごいていなくてはならないわけです。呼吸こきゅうをする、ごはんべる、る、きる、ひとはなしをするなどです。それがきるということです。このきるエネルギーは、「」なのです。


 身体しんたいなかこる最大さいだいのエネルギーは六根ろっこんなかの「」です。「」はかんがえる・思考しこうする・妄想もうそうする、などのはたらきをします。この「」によって、相当そうとうのエネルギーがこります。くらべれば、る、く、あじわうなどのエネルギーは、それほどおおきくはないのです。わたしたちがなにかを客観的きゃっかんてきかんがえる・思考しこうする時間じかんはわずかです。妄想もうそうする時間じかんは、比較ひかくにならないほどながいのです。妄想もうそう自我じが中心的ちゅうしんてきであり、感情かんじょうによってはっする回転かいてんです。感情かんじょうとはどんじんのことです。つまり、よごれたこころで妄想もうそうをしているということです。


 お釈迦しゃかさまは「きる」ということの最終さいしゅう結論けつろんとしてかれました。きるとは、物体ぶったい感覚かんかくがあることです。物体ぶったいかんじるのうちからがあることです。かんじられる場所ばしょむっつです。六種類しゅるいのデータをかんじられます。かんじると、のエネルギーが発生はっせいします。べつえることが、きることになるのです。ようするに、「ながれ」がきるということなのであります。


 教祖きょうそ・杉山辰子先生せんせいはこの妙法みょうほうちからしんじる信心しんじんつよさで功徳くどくわってくるとわれました。妙法みょうほうちからふかしんじ、行住坐臥ぎょうじゅうざがいついかなるときも「妙法蓮華経」の五文字もじとなえることで不慮ふりょ事故じこ災難さいなんからまぬかれることができるとおおせです。


 人間にんげんは、どうしても煩悩ぼんのう支配しはいされてしまうわるくせがあります。教祖きょうそさまは「三どく」をなくすことが大事だいじおおせです。三大さんだい煩悩ぼんのうどん(貪欲どんよく)・じん(瞋恚しんい)・(愚痴ぐち)のなかでも貪欲どんよくすくなくすることが大事だいじであるとわれました。三大さんだい煩悩ぼんのうわりに三徳さんとく慈悲じひ』『まこと』『堪忍かんにん』を実践じっせんすることがとても重要じゅうようであるとかれました。


 わたしたちも日頃ひごろ生活せいかつなかで『三徳さんとく』の実践じっせんをすることがのぞましいのです。いつくしみのこころになり、まことくし、しっかりと堪忍かんにんをしましょう。そして、すべてに感謝かんしゃしてきることが、"すばらしき人生じんせい"へとたかめてくれるのであります。


合 掌


一覧に戻る
ACCESS
交通アクセス