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世界平和を
大樹
すばらしき人生96

令和二年も 師走しわす  むか えることとなりました。今年一年を振り返ってみると、いろんな変化を感じる年でした。二月頃からコロナウイルスの世界的なパンデミック( 感染かんせん 爆発ばくはつ  )にともなう新しい 生活せいかつ 様式ようしき へと変化がありました。 三密さんみつ  密閉みっぺい  密集みっしゅう  密着みっちゃく )をさけ、マスク着用で手洗いうがいの 励行れいこう など 衛生面えいせいめん の強化と 感染かんせん 防止ぼうし 対策たいさく といった 普段ふだん では考えにくい生活へと変化しました。 終息しゅうそく まで向こう一年から二年はかかるという 予測よそく もあります。 私たちは、 感染かんせん しない、させないという行動がとても重要です。この冬場が勝負となります。 不要ふよう 不急ふきゅう の外出や行動をこころがけ、自分の身は自分で まも るという強い意志を持たないといけません。



  環境面かんきょうめん から考えると、幸いにして、今年は日本への 台風たいふう の 上陸じょうりく はありませんでした。しかし、年々、 巨大化きょだいか する台風の 猛威もうい は 想像そうぞう を ぜっ する 勢力せいりょく となってきております。海水温の上昇に伴い過去に例のない 暴風ぼうふう や 豪雨ごうう ( 線状せんじょう 降水帯こうすいたい )による 被害ひがい も 甚大じんだい になってきております。来年以降も十分注意しなければならないと思います。


 先般の法公会立教四十七年祭は、 読経どきょう のみの 開催かいさい となりました。現在のコロナ  の状況では 来賓らいひん ・法話・演芸・和太鼓・餅投げなど開催することができませんでした。とにかく状況が落ち着くまでの祭事は当面、読経のみとさせていただきます。悪しからずご了承賜りますようお願いします。


 今月開催の開祖・榊原大菩薩十回忌も読経のみとさせていただきます。令和三年元旦祭も同様な方法となりますが、 短冊たんざく  きは三が日とも観音さまの前で行います。午前中は行事がありますので、元旦のみ午後から短冊引きとなります。本殿二階には 準備じゅんび いたしません。また、三が日の短冊引きは、分散してご 来会らいかい くだ さいますようお願いいたします。


 私がサラリーマンの時でした。 静岡県しずおかけん の 責任者せきにんしゃ をしておりました。入社当初は私が一人で静岡県 中部ちゅうぶ と 東部とうぶ を担当しておりました。二年目より部下が毎年、一、二名 増員ぞういん されました。当時のN部長にはとても感謝しております。


 静岡県の中でも 糖尿病とうにょうびょう の患者さんが三千名と最も多い静岡市のS 総合そうごう 病院びょういん を担当しておりました。そこの 副院長ふくいんちょう のI先生に 懇意こんい にしていただき、私自身の成長に つな がりました。平成三年に 糖尿病とうにょうびょう 学会がっかい が 山形市やまがたし で開催されました。その学会に初めて先生に 随行ずいこう させていただきました。 将棋しょうぎ の こま で有名な 天童市てんどうし の天童温泉に宿泊しました。それも、和室で先生と同じ部屋でした。私は 緊張きんちょう し ほとん ど ねむ れなかった思い出があります。


 翌年は 熊本市くまもとし でした。日本を東西に分け かく 大学だいがく 病院びょういん の 教授きょうじゅ クラスの先生方より がっ 会長かいちょう が 選出せんしゅつ されます。私はI先生に毎年行われる糖尿病学会に随行することになりました。 信頼しんらい 関係かんけい がなければ随行もありません。先生との深い きずな により売り上げに 貢献こうけん できたのです。


 私の部下でAさんという方がおりました。彼は平成三年に新入社員として入社し静岡県に 配属はいぞく となりました。性格は明るく良い青年でした。彼は 臨床りんしょう 検査けんさ の大学を卒業したので、医師や薬剤師により近いことを学んできたので安心しておりました。


  新卒しんそつ なので私は 手取てと り 足取あしと り彼を 教育きょういく しました。しかし、話が 上手じょうず にできない 性分しょうぶん でした。これを何とか 改善かいぜん しないと、いつまでたっても成長できません。


 私は、一週間の 行動こうどう 予定よてい をつくらせました。そして、先生に 面会めんかい した時の会話の内容を決めて、その内容を 記録きろく して 最後さいご のクロージング( 商談しょうだん 成立せいりつ )までもっていく 練習れんしゅう をさせました。 具体的ぐたいてき には、 世間話せけんばなし から始まり、 課題かだい を見つけ、課題 合意ごうい を図り、課題への 提案ていあん をし、課題 解決かいけつ の 提示ていじ をして最後のクロージングまでもっていくという内容です。


 彼に家に帰って練習するよう指示しました。何度も何度も  り かえ し練習をしました。その結果、彼は話が上手にできるようになったのです。よく 頑張がんば ったねとねぎらい、やればできるじゃないかと  めました。


 また、Kさんという方は平成四年に中途で採用になり静岡県を担当しました。彼もどちらかといえば 口数くちかず の少なく 温厚おんこう な 性格せいかく でした。 中途ちゅうと 採用さいよう の方には、 積極的せっきょくてき な 指導しどう をするよりも、彼が、今まで つちか ってきたキャリア( 経歴けいれき )を 重視じゅうし することが重要なのです。


 しかし、  てど  らせど、なかなか 頭角とうかく を あらわ さなかったのです。彼の 前職ぜんしょく は、 医療いりょう 機器きき のメーカーで営業をしておりました。  薬品やくひん と医療機器では仕事の 相手あいて が違うから、思い なや んでいるのかと思い、彼のプライドを きず つけないような 指導しどう をしました。


 通常、 中途ちゅうと 入社にゅうしゃ は、それなりに自分のスキル( 能力のうりょく )を持って新たな会社に転職します。彼は、そういう点をもう一度やり直さなければなりませんでした。先ほどのAさんとはメニューが違いますから、やるべきことの 意義いぎ を 説明せつめい し、彼の 本気度ほんきど を高めるための指導をしました。その結果、成績を上げることができたのです。


 世の中に 天才てんさい という人は確かにおられます。たとえ天才でも普通の人間でも変わらないことがあります。それは、一%の 才能さいのう と九十九%の 努力どりょく をすれば、 かな わない ゆめ はありません。メジャーリーグで有名なイチロー選手も、ものすごい 努力家どりょくか です。成功する人は、  しみない努力の  み かさ ねです。私たちも目標に向かって、努力することで成功という ふた 文字もじ を手に入れましょう。


 さて、「生きる」ということはどういうことかと考えてみても、なかなか 明確めいかく な答えは出てきません。仏教からみれば、「生きる」ということは「  の  き  え」ですから、目的などあるはずもありません。おなかがすいたからご飯を食べるのであって、それは、おなかがすいたという現実です。おなかがすいて くる しいという現実がある。だからご飯を食べるのであって、 とうと い目的があって食べるわけではありません。そして、ご飯を食べて 満腹まんぷく になると、苦しくなってくる。だから食事をやめる。実際はそれだけのことなのです。


 なぜ いき を  うかというと、  いたからです。なぜ息を吐くかというと、吸ったからです。ですから、生きることの目的などありません。今、苦しんでいる、その苦しみを何かに置き換えなければならないのです。いくら置き換えても、苦しみは終わることなく、また置き換え続けることになります。


 私たちが何かを行う時、目的がはっきりしています。例えば、プランターにヒマワリの たね を  える。目的がはっきりわかっているでしょう。ヒマワリを育てたいからです。あるいはゴーヤの種をまく。それは、自分でゴーヤを育てて食べたいからです。だから当然、自分のやることには目的があるはずなのです。


 では、自分が生きている目的は何なのか。生きているために行っている「 二次的にじてき なこと」には、はっきりとした目的があります。しかし、「二次的なこと」に目的があるのに、なぜ、生きるという「 一次的いちじてき なこと」の目的がわからないのでしょうか。


一次的な 行為こうい である「生きること」の目的を私たちは知りません。なぜなら、実は、それは、「ない」からなのです。私たちはただただ、「 現実げんじつ 」を生きているだけなのです。


 それをお釈迦さまから見ると、生きることは、苦しい、その苦しみを別の苦しみに置き換える、また、その苦しみを別の苦しみに置き換える、という苦の 循環じゅんかん だと言われます。


 苦を 無視むし するわけにはいきません。それは大変な問題です。従って、この循環を やぶ る方法を見つけなくてはならないのです。


 つまり、どうすれば生きる苦しみをなくせるのか。それは、「生きることを だっ すること」です。生きることが苦であるならば、そこから 脱出だっしゅつ しましょう、というわけです。それを 仏教用語ぶっきょうようご では、「 解脱げだつ 」といいます。そして、この「解脱」を生きる目的にするべきであるというのが、仏教の考え方なのです。


 ある人がお釈迦さまのこの話を 信頼しんらい して、よく 理解りかい し、 納得なっとく して、「では、私もこれから 解脱げだつ に 挑戦ちょうせん しよう」と思えば、その日からその人の人生の 曖昧あいまい さも 中途半端ちゅうとはんぱ さも、すべてなくなります。目的があるので、それを 目指めざ してしっかりと生きていけるのです。はっきりとイエス・ノーが言えて、しっかりとした 判断はんだん があって、 明確めいかく な生き方が あらわ れてきます。


やはり、目的があったほうが、なんでもうまくいくものです。しかし、 残念ざんねん ながら、「生きること」そのものには、目的がありません。であるなら 理性りせい に もと づいて、「解脱」という目的をつくり、一人ひとりが 勉強べんきょう し、 納得なっとく して、その目的のために生きていけば良いのです。


 生きる目的があってもなくても、この 問題もんだい はすべての生命の 課題かだい です。仏教は、生きる目的をつくってくれます。


  解脱げだつ するという目的は、お釈迦さまの 弟子でし たちだけの 課題かだい です。しかしながら、「どのように生きるべきか」は、お釈迦さまの弟子たちだけでなく、私たちにとっても重要な課題なのです。そして、生きる目的があってもなくても、 実際じっさい に私たちは生きております。「どのように生きるべきか」は だれ にとっても大きな問題なのです。


 目的なく生きる人生は、不安ばかりで、「死」までの時間を何とか生きるだけになってしまいます。ほとんどの生命はそのように生きております。しかし、 確実かくじつ に目的がある人生というのは、それは苦を  けること、幸福になること、死を避けることです。


 「生きる」とは、他の生命とのかかわりによって成り立つものです。一人では生きられません。「幸福に生きる」とは、他の生命との関係がうまくいっている状態のことなのです。


  ちょう の中にどれほどの 細菌さいきん がいるのかご存じでしょうか。 百兆ひゃくちょう もの きん があり 善玉ぜんだま と 悪玉あくだま があります。その中で 善玉ぜんだま きん がなくなってしまえば、私たちは死んでしまいます。


 一つひとつの 細胞さいぼう の中にも、ミトコンドリアという生命がいます。食べたものをエネルギーに 変換へんかん してくれるのです。このミトコンドリアがないと私たちは生きてゆけません。


 私たちは、常に 無数むすう の生命とのかかわりあいの中で生きています。それなのに、それらの生命と良い関係を きず くための 努力どりょく をしておりません。他の生命がなければ私たちの生命もありません。他の生命とのバランスをとることです。


 私たちの生命は 認識にんしき 過程かてい に 問題もんだい があるため誰にでも 自我じが 意識いしき が しょう じます。認識過程を 分析ぶんせき して 理解りかい しようとする人は 皆無かいむ です。自我意識が起こるということは、認識のプログラムミス、認識の あやま りです。私たちは、いかにして 自我じが を 肯定こうてい しようと 頑張がんば ります。自分のことばかり考えて、自分のこと以外は 興味きょうみ を持たない。これは自分の自我がそうさせるのです。他の生命によって生かされている人間がとんでもないエゴイスト( 利己りこ 主義者しゅぎしゃ )になってしまうのです。


 エゴイストというのは、自分の利益、自分の幸福ばかり考えております。それをどのように 実現じつげん したらよいのかわからない。しかし、その答えは 簡単かんたん です。自分の幸福は、他人とのかかわり方が正しく 機能きのう していれば実現できるものです。幸福を目指すなら、  を  てることです。


 いわば、「 自我じが 」というものは、 認識にんしき の 誤作動ごさどう であり、「自分が存在する」という認識は誤作動なのです。それなのに  を  ってしまえば、不幸になってしまう。一方で、幸福になりたい。幸福になりたいけれども、我を張ることはやめない。人間の おか している あやま ちは、ここにあります。


 いかに自我を捨て、まわりと 調和ちょうわ して生きることの大切さに気付くことです。生かされて、生きている命を人のために生きる人生へと高めることがとても重要なのです。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を ふか く しん じることの大切さを  いておられます。 信心しんじん の強さで 功徳くどく が変わると言われました。妙法の力を信じ 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を とな える時に大きな功徳があると おお せです。そうすれば、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬが れることができるのです。そして、その功徳で 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ することができると仰せです。


 常日頃から『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の 実践じっせん がとても大事と おお せです。三徳の中でも『慈悲』という いつく しみのこころが、とても大事であります。自分にも他人にも『慈しみのこころ』を持つことが私たちのこころを育てることになるのです。


 お釈迦さまは、『 いま を せつ に  きよ』と説かれたことを深く理解しなければいけません。そして、「 過去かこ のことは、もう  んだこと」「まだ  ない 未来みらい に 期待きたい するな」とも説かれました。この 瞬間しゅんかん をいかに大切に生きられるかということが 将来しょうらい への幸福に つな がってまいります。


 私たちも三徳を実践して、「今日を一生懸命に生きる」という目標をたてて、日々精進することで〝すばらしき人生〞へと階段をのぼりましょう。


 


合 掌


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