令和二年も 師走 を 迎 えることとなりました。今年一年を振り返ってみると、いろんな変化を感じる年でした。二月頃からコロナウイルスの世界的なパンデミック( 感染 爆発 )にともなう新しい 生活 様式 へと変化がありました。 三密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密着 )をさけ、マスク着用で手洗いうがいの 励行 など 衛生面 の強化と 感染 防止 対策 といった 普段 では考えにくい生活へと変化しました。 終息 まで向こう一年から二年はかかるという 予測 もあります。 私たちは、 感染 しない、させないという行動がとても重要です。この冬場が勝負となります。 不要 不急 の外出や行動をこころがけ、自分の身は自分で 護 るという強い意志を持たないといけません。
環境面 から考えると、幸いにして、今年は日本への 台風 の 上陸 はありませんでした。しかし、年々、 巨大化 する台風の 猛威 は 想像 を 絶 する 勢力 となってきております。海水温の上昇に伴い過去に例のない 暴風 や 豪雨 ( 線状 降水帯 )による 被害 も 甚大 になってきております。来年以降も十分注意しなければならないと思います。
先般の法公会立教四十七年祭は、 読経 のみの 開催 となりました。現在のコロナ 禍 の状況では 来賓 ・法話・演芸・和太鼓・餅投げなど開催することができませんでした。とにかく状況が落ち着くまでの祭事は当面、読経のみとさせていただきます。悪しからずご了承賜りますようお願いします。
今月開催の開祖・榊原大菩薩十回忌も読経のみとさせていただきます。令和三年元旦祭も同様な方法となりますが、 短冊 引 きは三が日とも観音さまの前で行います。午前中は行事がありますので、元旦のみ午後から短冊引きとなります。本殿二階には 準備 いたしません。また、三が日の短冊引きは、分散してご 来会 下 さいますようお願いいたします。
私がサラリーマンの時でした。 静岡県 の 責任者 をしておりました。入社当初は私が一人で静岡県 中部 と 東部 を担当しておりました。二年目より部下が毎年、一、二名 増員 されました。当時のN部長にはとても感謝しております。
静岡県の中でも 糖尿病 の患者さんが三千名と最も多い静岡市のS 総合 病院 を担当しておりました。そこの 副院長 のI先生に 懇意 にしていただき、私自身の成長に 繋 がりました。平成三年に 糖尿病 学会 が 山形市 で開催されました。その学会に初めて先生に 随行 させていただきました。 将棋 の 駒 で有名な 天童市 の天童温泉に宿泊しました。それも、和室で先生と同じ部屋でした。私は 緊張 し 殆 ど 眠 れなかった思い出があります。
翌年は 熊本市 でした。日本を東西に分け 各 大学 病院 の 教授 クラスの先生方より 学 会長 が 選出 されます。私はI先生に毎年行われる糖尿病学会に随行することになりました。 信頼 関係 がなければ随行もありません。先生との深い 絆 により売り上げに 貢献 できたのです。
私の部下でAさんという方がおりました。彼は平成三年に新入社員として入社し静岡県に 配属 となりました。性格は明るく良い青年でした。彼は 臨床 検査 の大学を卒業したので、医師や薬剤師により近いことを学んできたので安心しておりました。
新卒 なので私は 手取 り 足取 り彼を 教育 しました。しかし、話が 上手 にできない 性分 でした。これを何とか 改善 しないと、いつまでたっても成長できません。
私は、一週間の 行動 予定 をつくらせました。そして、先生に 面会 した時の会話の内容を決めて、その内容を 記録 して 最後 のクロージング( 商談 成立 )までもっていく 練習 をさせました。 具体的 には、 世間話 から始まり、 課題 を見つけ、課題 合意 を図り、課題への 提案 をし、課題 解決 の 提示 をして最後のクロージングまでもっていくという内容です。
彼に家に帰って練習するよう指示しました。何度も何度も 繰 り 返 し練習をしました。その結果、彼は話が上手にできるようになったのです。よく 頑張 ったねとねぎらい、やればできるじゃないかと 褒 めました。
また、Kさんという方は平成四年に中途で採用になり静岡県を担当しました。彼もどちらかといえば 口数 の少なく 温厚 な 性格 でした。 中途 採用 の方には、 積極的 な 指導 をするよりも、彼が、今まで 培 ってきたキャリア( 経歴 )を 重視 することが重要なのです。
しかし、 待 てど 暮 らせど、なかなか 頭角 を 現 さなかったのです。彼の 前職 は、 医療 機器 のメーカーで営業をしておりました。 医 薬品 と医療機器では仕事の 相手 が違うから、思い 悩 んでいるのかと思い、彼のプライドを 傷 つけないような 指導 をしました。
通常、 中途 入社 は、それなりに自分のスキル( 能力 )を持って新たな会社に転職します。彼は、そういう点をもう一度やり直さなければなりませんでした。先ほどのAさんとはメニューが違いますから、やるべきことの 意義 を 説明 し、彼の 本気度 を高めるための指導をしました。その結果、成績を上げることができたのです。
世の中に 天才 という人は確かにおられます。たとえ天才でも普通の人間でも変わらないことがあります。それは、一%の 才能 と九十九%の 努力 をすれば、 叶 わない 夢 はありません。メジャーリーグで有名なイチロー選手も、ものすごい 努力家 です。成功する人は、 惜 しみない努力の 積 み 重 ねです。私たちも目標に向かって、努力することで成功という 二 文字 を手に入れましょう。
さて、「生きる」ということはどういうことかと考えてみても、なかなか 明確 な答えは出てきません。仏教からみれば、「生きる」ということは「 苦 の 置 き 換 え」ですから、目的などあるはずもありません。おなかがすいたからご飯を食べるのであって、それは、おなかがすいたという現実です。おなかがすいて 苦 しいという現実がある。だからご飯を食べるのであって、 尊 い目的があって食べるわけではありません。そして、ご飯を食べて 満腹 になると、苦しくなってくる。だから食事をやめる。実際はそれだけのことなのです。
なぜ 息 を 吸 うかというと、 吐 いたからです。なぜ息を吐くかというと、吸ったからです。ですから、生きることの目的などありません。今、苦しんでいる、その苦しみを何かに置き換えなければならないのです。いくら置き換えても、苦しみは終わることなく、また置き換え続けることになります。
私たちが何かを行う時、目的がはっきりしています。例えば、プランターにヒマワリの 種 を 植 える。目的がはっきりわかっているでしょう。ヒマワリを育てたいからです。あるいはゴーヤの種をまく。それは、自分でゴーヤを育てて食べたいからです。だから当然、自分のやることには目的があるはずなのです。
では、自分が生きている目的は何なのか。生きているために行っている「 二次的 なこと」には、はっきりとした目的があります。しかし、「二次的なこと」に目的があるのに、なぜ、生きるという「 一次的 なこと」の目的がわからないのでしょうか。
一次的な 行為 である「生きること」の目的を私たちは知りません。なぜなら、実は、それは、「ない」からなのです。私たちはただただ、「 現実 」を生きているだけなのです。
それをお釈迦さまから見ると、生きることは、苦しい、その苦しみを別の苦しみに置き換える、また、その苦しみを別の苦しみに置き換える、という苦の 循環 だと言われます。
苦を 無視 するわけにはいきません。それは大変な問題です。従って、この循環を 破 る方法を見つけなくてはならないのです。
つまり、どうすれば生きる苦しみをなくせるのか。それは、「生きることを 脱 すること」です。生きることが苦であるならば、そこから 脱出 しましょう、というわけです。それを 仏教用語 では、「 解脱 」といいます。そして、この「解脱」を生きる目的にするべきであるというのが、仏教の考え方なのです。
ある人がお釈迦さまのこの話を 信頼 して、よく 理解 し、 納得 して、「では、私もこれから 解脱 に 挑戦 しよう」と思えば、その日からその人の人生の 曖昧 さも 中途半端 さも、すべてなくなります。目的があるので、それを 目指 してしっかりと生きていけるのです。はっきりとイエス・ノーが言えて、しっかりとした 判断 があって、 明確 な生き方が 現 れてきます。
やはり、目的があったほうが、なんでもうまくいくものです。しかし、 残念 ながら、「生きること」そのものには、目的がありません。であるなら 理性 に 基 づいて、「解脱」という目的をつくり、一人ひとりが 勉強 し、 納得 して、その目的のために生きていけば良いのです。
生きる目的があってもなくても、この 問題 はすべての生命の 課題 です。仏教は、生きる目的をつくってくれます。
解脱 するという目的は、お釈迦さまの 弟子 たちだけの 課題 です。しかしながら、「どのように生きるべきか」は、お釈迦さまの弟子たちだけでなく、私たちにとっても重要な課題なのです。そして、生きる目的があってもなくても、 実際 に私たちは生きております。「どのように生きるべきか」は 誰 にとっても大きな問題なのです。
目的なく生きる人生は、不安ばかりで、「死」までの時間を何とか生きるだけになってしまいます。ほとんどの生命はそのように生きております。しかし、 確実 に目的がある人生というのは、それは苦を 避 けること、幸福になること、死を避けることです。
「生きる」とは、他の生命とのかかわりによって成り立つものです。一人では生きられません。「幸福に生きる」とは、他の生命との関係がうまくいっている状態のことなのです。
腸 の中にどれほどの 細菌 がいるのかご存じでしょうか。 百兆 もの 菌 があり 善玉 と 悪玉 があります。その中で 善玉 菌 がなくなってしまえば、私たちは死んでしまいます。
一つひとつの 細胞 の中にも、ミトコンドリアという生命がいます。食べたものをエネルギーに 変換 してくれるのです。このミトコンドリアがないと私たちは生きてゆけません。
私たちは、常に 無数 の生命とのかかわりあいの中で生きています。それなのに、それらの生命と良い関係を 築 くための 努力 をしておりません。他の生命がなければ私たちの生命もありません。他の生命とのバランスをとることです。
私たちの生命は 認識 過程 に 問題 があるため誰にでも 自我 意識 が 生 じます。認識過程を 分析 して 理解 しようとする人は 皆無 です。自我意識が起こるということは、認識のプログラムミス、認識の 誤 りです。私たちは、いかにして 自我 を 肯定 しようと 頑張 ります。自分のことばかり考えて、自分のこと以外は 興味 を持たない。これは自分の自我がそうさせるのです。他の生命によって生かされている人間がとんでもないエゴイスト( 利己 主義者 )になってしまうのです。
エゴイストというのは、自分の利益、自分の幸福ばかり考えております。それをどのように 実現 したらよいのかわからない。しかし、その答えは 簡単 です。自分の幸福は、他人とのかかわり方が正しく 機能 していれば実現できるものです。幸福を目指すなら、 我 を 捨 てることです。
いわば、「 自我 」というものは、 認識 の 誤作動 であり、「自分が存在する」という認識は誤作動なのです。それなのに 我 を 張 ってしまえば、不幸になってしまう。一方で、幸福になりたい。幸福になりたいけれども、我を張ることはやめない。人間の 犯 している 過 ちは、ここにあります。
いかに自我を捨て、まわりと 調和 して生きることの大切さに気付くことです。生かされて、生きている命を人のために生きる人生へと高めることがとても重要なのです。
教祖・杉山辰子先生は妙法を 深 く 信 じることの大切さを 説 いておられます。 信心 の強さで 功徳 が変わると言われました。妙法の力を信じ 行住坐臥 いついかなる時も「妙法蓮華経」の五文字を 唱 える時に大きな功徳があると 仰 せです。そうすれば、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができるのです。そして、その功徳で 大難 が 小難 に小難が 無難 へと 罪障 を 消滅 することができると仰せです。
常日頃から『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても大事と 仰 せです。三徳の中でも『慈悲』という 慈 しみのこころが、とても大事であります。自分にも他人にも『慈しみのこころ』を持つことが私たちのこころを育てることになるのです。
お釈迦さまは、『 今 を 切 に 生 きよ』と説かれたことを深く理解しなければいけません。そして、「 過去 のことは、もう 済 んだこと」「まだ 来 ない 未来 に 期待 するな」とも説かれました。この 瞬間 をいかに大切に生きられるかということが 将来 への幸福に 繋 がってまいります。
私たちも三徳を実践して、「今日を一生懸命に生きる」という目標をたてて、日々精進することで〝すばらしき人生〞へと階段をのぼりましょう。
合 掌