新年あけましておめでとうございます。本年が皆さまにとって最良の年になるよう心より 祈念 いたします。私たちにとって今年がどんな年になるか、まだ分かりませんが、良くなる方向へと 精進 することに 励 むべきと思います。結果が善いということは原因(行動)も正しいということです。結果が悪ければ、原因(行動)も正しくなかったということです。私たちの精進の積み重ねが人格の向上に 繋 がります。日々の 努力 がとても大事なのであります。
現在、 新型 コロナウイルスの 感染 拡大 により、新しい 生活 様式 にも 慣 れてきた頃です。まだまだ 予断 を許さない状況は続きます。ソーシャルディスタンスをとりながら、 三密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密着 )を 避 け行動することが一番の 対策 です。「人が動けばコロナも動く」と言いまして、 不要 不急 な外出はできるだけ避けて、マスク着用、手指の消毒、うがいの 励行 が 必須 となります。どうかご自身の身体はご自身で 護 っていただきたいと思います。コロナに感染しない、感染させない行動をとることがとても大事なのであります。
私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。約二十名の部下がおり、営業が十八名で 特約店 担当者 一名と事務員一名でした。日本一広い面積の県は岩手県です。四国四県の面積の合計は岩手より少し広いようですが、ほぼ 同程度 です。
とにかくアクセス( 交通 手段 )が、あまり良くありませんでした。 香川県 高松市 にオフィスがあったので 高知県 や 徳島県 や 愛媛県 へと移動する場合でも特急列車を利用しますが、一時間に一本しかなく不便を感じておりました。高松市より徳島市へ向かう 高徳 線 や高知市へ向かう 土讃 線 、そして 松山市 に向かう 予讃 線 とあり、どれもとても時間がかかりました。のんびりした 環境 が四国らしいといえばそうなのかもしれません。
未 だに 各路線 は、ディーゼル車が運転されております。以前のディーゼル車と比べれば、だいぶ性能は良くなってきております。徳島と高知の 駅舎前 にはヤシの木が植えられております。どことなく 南国 の 雰囲気 がありました。
四国と言えば「お 遍路 」で有名な八十八か所 霊場 巡 りがあります。人間には八十八の 煩悩 があり霊場巡りをすれば八十八の煩悩が消え 願 いが 叶 うと言われております。私も大変でしたが、家族四人で回ることができました。
四県それぞれ特徴があります。徳島は「 阿波 踊 り」や「 清流 吉 野川 」などが有名で、高知は「よさこい祭り」と「 桂 浜 と 坂 本 龍 馬 像 」と「高知城」も有名です。高松は「 讃岐 うどん」と 源氏 平家 の「 屋島 合戦 」で有名です。松山は 夏 目 漱 石 の小説で「 坊 ちゃん」があり、漱石もこよなく愛した「 道後 温泉 」と 路面 電車 の「坊っちゃん列車」や「松山城」などが有名です。今から二十年ほど前のことですが、当時の 懐 かしい 記憶 が 蘇 ってきました。
松山市内担当のMさんを、三年間 指導 したところ、少しずつ変化を感じ取ることができました。 初対面 の時はごく普通で、なんの 特徴 もなく 物静 かな人間でした。何事にもあまり 興味 を示さないタイプでした。しかし、彼は、人が 成功 したところを見て 学習 し、 研究 し、自分なりに 工夫 し、それを自分のものにしてしまうという 特別 な 能力 があったのです。
「やる気があるぞ」というところをやたら見せる人間もいます。しかし、そういうタイプは 意外 と伸びないものです。Mさんのように、いろんな成功例を自分ができる 範囲 でオリジナリティ( 独創性 )な 付加 価値 をつけて 活動 ができる人間はなかなかいないのです。
「人は見かけによらず」といいますが、まさにその言葉通りの人間です。気持ちを外に出さない人間ほど内に 秘 めた「 熱 い思い」を持っているものです。常日頃から自分の 自慢話 はあまりしない、とても 謙虚 な性格で相手から好かれるタイプでした。
外資 系 の 殆 どの社員は自己アピールをします。日本の文化と海外では違いがあります。多くの社員は仕事ができてもできなくても自分の 意見 としてのアピールをします。 弁解 ではなく、やりますと言います。
自分の仕事に自信を持っているTさんは、自己アピールの天才でした。仕事ができなくても、これから 頑張 りますと 報告 するのです。私は、彼ができないことを知っております。しかし、彼はできないにもかかわらず自信があるのです。
こんな話は外資系だから 通用 する部分もありますが、 最終的 には 結果 が問われてしまうのです。いくらやる気があっても、 成果 が出なければおしまいです。それと、できない理由を他人のせいにする人間もいます。こういう人間も 負 け 組 に入ってしまいます。
理想 はやる気があって売り上げを上げ続けることができる人間ですが、それぞれ 長所 や 短所 があるのです。いかに短所を長所に変えられるかがとても重要となります。Mさんのように 地味 な性格でも、自分を高めることに 集中 できれば必ず成功へと 導 いて 頂 けるのであります。
さて、私たちは、たいへんな 差別 主義者 です。自分のエゴ( 自我 )を肯定して、助けてくれる生命は 味方 だ、エゴの 邪魔 をする生命は 敵 だ、他の生命には 関心 がない。そんな 態度 で、みんな生きております。
単純 に考えると、味方が増えれば幸福も楽しみも増えるはずです。それは自分を 応援 してくれる人々なわけですから、自分の幸福を安定したければ、味方を増やしていけばいいのです。そうすれば、幸福が増します。また、敵だと思っている生命を味方にすることができれば、幸福はよりいっそう 拡大 します。当たり前のことです。敵がいると幸福ではないのだから、できるだけ敵の数を減らすのです。
無関心 だった生命にも、味方になってもらうプログラム( 行程表 )を 組 んだらどうでしょうか。他の生命の幸福も考えれば、自分の幸福は 確実 なものになります。自分のために味方をつくるだけでなく、さらに進んで、他人の幸福も考える。他人の幸福も心配するようになってくると、自分の味方との「かかわり」が 確 かなものになります。 絆 がとても強くなり、確実に幸福になれるのです。
しかし、どうすればそんなプログラムを組むことができるのか。その方法は、 簡単 にわかるものではないのです。どうすれば味方が増えるのか、どうすれば敵が減るのか、どうすれば無関心の人が味方になるのか、どうすれば進んで人の幸福を心配する人間になれるのか。そのための方法が、お釈迦さまが説かれた「 慈悲 のこころ」なのです。
幸福になりたいという一般的な目的。 解脱 に 達 したいという仏教的な目的。生命にはこの二つの目的があります。ある人は、仏教の教えに従って、解脱に達したいと思っています。その他の一般の人々は皆、幸福になりたいと思っています。そして、両者には共に、「正しく生きる」という 課題 が与えられています。
解脱 に達したい人は、エゴ( 自我 ) 意識 をなくして 執着 を 捨 て、 人格 を 築 いていきます。幸福になりたい人は、そのために他の生命とよりよい「かかわり」を築いていきます。そして、解脱に達する人も、そうでない人も、生命との正しいかかわりを築いていかなければならないのです。
エゴがなくなると、生きることに対する 執着 もなくなります。執着がなくなれば 解脱 できます。しかし、解脱まで考えてない一般の人々を含めて、「 慈 しみ」はすべての生命に欠かせないことです。
「私はいやだ」などとは言えません。 慈悲 のこころを 推奨 すると、「はずかしくてできません」などという人がおられます。それは、「 呼吸 するのがいやだ」ということと同じです。従って、私たちは、慈しみを 実践 しなければならないのです。
お釈迦さまは、自分と他人の幸福を 実現 するために、 無量 の 慈 しみを 薦 めておられます。 無駄 な 修行 も無駄な 哲学 も全部 捨 てて、幸福を 目指 すのです。それには、慈しみを育てることなのです。お釈迦さまは、「無量」という言葉を使っておられます。それは、生命が無量だからなのです。量ることができないということです。 無数 の生命に対して 慈 しみを育てれば、人間関係がうまくいき、それによって「幸福」を頂けるということなのです。
「 命 をつなぐ」とは、どういうことでしょうか。私たちは、「命は 尊 い」と思っていますが、本当にそうでしょうか。私たちは他者の生命を 奪 わないと自分の命をつなぐことができません。だから、 安易 に「命は尊い」といってはいけないのです。
私たちは他者の生命を 奪 って生きているのです。「 弱者 は 殺 され 強者 は生き 延 びる」という 法則 で生命は成り立っております。「あなたは弱者なのだから、死んでも 仕方 ない」、こんな一方的な考え方は良くありません。私たちが食べている食材の多くに生命が存在します。その限りない 尊 い命の 犠牲 の上で、私たちは生かされて生きております。
私たちには、すべての生命を 慈 しむ 義務 があります。「生きること」は 奪 うことであり、他の生命に 迷惑 をかけることです。私たちは他の生命がなければ生きていられません。一秒でも生きているということは、「 借 り」をつくっているのです。「借りは、きちんと返しましょう」と、お釈迦さまは教えておられます。私たち人間は、ずいぶん 残酷 なことをしております。そうしなければ生き続けることはできません。そうであるならば、常に「 慈 しみ」を 実践 しなくてはいけないのです。
人間に限らず、誰の命も「 借 り」なのです。借りたものは返さないといけません。人間には、借りを返す 能力 があります。それなのに、借りを返さないならば、 醜 いものです。人間には慈しみを実践する 義務 があるのです。
また、「慈しみ」は借りを返す行為だけではなく、生きる上で起こすすべての 問題 に対する 解決 策 でもあるのです。逆に言うと、すべての生命に対する「 慈 しみ」がなければ、私たちは、自然まで 破壊 してしまいます。 経済 発展 という 大義 のもとで、限りある自然をただただ 浪費 してしまうのです。
こころに 栄養 を与えることがとても 重要 です。栄養というのは、ご 飯 だけでは足りないのです。生命には、こころの栄養が必要なのです。人間は、食べるものがなくても一週間ぐらいは生きられます。しかし、こころに栄養がないと、たちまち死んでしまいます。食べ物よりもこころの栄養のほうが大切なのです。
怒 り、 嫉妬 、 恨 み、 憎 しみ、わがままなどは、生命には 毒 として 働 きます。こころに怒り、憎しみ、 欲 などがあると、それはこころの毒になるのです。こころに栄養が必要なのに、私たちは、毒をためていくのです。反対に「慈悲」は、こころの栄養です。自分も他者も栄養を 得 、また限りなく増やすことができるのです。「慈悲」は、 無限 のエネルギーをつくり出すのです。他の人を慈しんだからといって、自分の慈しみがなくなるわけではありません。なおさら、他の生命に対する慈しみも増えるのです。与えれば与えるほど、増えるエネルギーなのです。慈しみは、無限のエネルギーをつくり出し、こころの栄養にもなるのです。
たとえば、 東日本 大震災 で、大勢の人が不幸に 遭遇 しました。その時、他人のことを心配しよう、人の苦しみを考えよう、という 優 しさが人々に表れてきました。 地震 と 津波 は誰のせいでもないのだから、何を 恨 む必要もありません。この 苦難 を私たちは、人の優しさによって 乗 り 越 えていかなければならないのです。ほかに乗り越える方法はないのです。
物資 の 支援 をしたからといって、問題が 解決 するわけではありません。 精神的 な面で 応援 することが大切なのです。自然災害なわけですから、誰のせいでもありません。みんなが、知らない他人をサポートしようとする、その気持ちがあれば私たちは、この苦難を乗り越えられます。これこそがお釈迦さまが説かれた『 慈悲 のこころ』なのであります。
教祖・杉山辰子先生は妙法を 深 く 信 じることの大切さを説かれました。 功徳 というものは、 信心 の深さで変わってまいります。妙法を信じて、信じて、信心して「妙法蓮華経」の五文字を 唱 える時に、大きな、大きな功徳を頂けると 仰 せです。 行住坐臥 いついかなる時も唱えることで、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができるのです。 表面的 には変化がないように見えますが、 確実 に 大難 が 小難 に小難が 無難 へと 罪障 を 消滅 することができるのです。
そして、 三 徳 『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 実践 がとても大事です。私たちが三徳の実践をすることによって、自然と身体が 精進 するという 善 い方向へと向いてまいります。日々の努力が私たちを〝すばらしき人生〞へと高めてくれるのであります。
合 掌