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世界平和を
大樹
すばらしき人生97

新年あけましておめでとうございます。本年が皆さまにとって最良の年になるよう心より 祈念きねん いたします。私たちにとって今年がどんな年になるか、まだ分かりませんが、良くなる方向へと 精進しょうじん することに はげ むべきと思います。結果が善いということは原因(行動)も正しいということです。結果が悪ければ、原因(行動)も正しくなかったということです。私たちの精進の積み重ねが人格の向上に つな がります。日々の 努力どりょく がとても大事なのであります。


 現在、 新型しんがた コロナウイルスの 感染かんせん 拡大かくだい により、新しい 生活せいかつ 様式ようしき にも  れてきた頃です。まだまだ 予断よだん を許さない状況は続きます。ソーシャルディスタンスをとりながら、 三密さんみつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密着みっちゃく )を  け行動することが一番の 対策たいさく です。「人が動けばコロナも動く」と言いまして、 不要ふよう 不急ふきゅう な外出はできるだけ避けて、マスク着用、手指の消毒、うがいの 励行れいこう が 必須ひっす となります。どうかご自身の身体はご自身で まも っていただきたいと思います。コロナに感染しない、感染させない行動をとることがとても大事なのであります。


 私がサラリーマンの時でした。四国の責任者をしておりました。約二十名の部下がおり、営業が十八名で 特約店とくやくてん 担当者たんとうしゃ 一名と事務員一名でした。日本一広い面積の県は岩手県です。四国四県の面積の合計は岩手より少し広いようですが、ほぼ 同程度どうていど です。


 とにかくアクセス( 交通こうつう 手段しゅだん )が、あまり良くありませんでした。 香川県かがわけん 高松市たかまつし にオフィスがあったので 高知県こうちけん や 徳島県とくしまけん や 愛媛県えひめけん へと移動する場合でも特急列車を利用しますが、一時間に一本しかなく不便を感じておりました。高松市より徳島市へ向かう 高徳こうとく せん や高知市へ向かう 土讃どさん せん 、そして 松山市まつやまし に向かう 予讃よさん せん とあり、どれもとても時間がかかりました。のんびりした 環境かんきょう が四国らしいといえばそうなのかもしれません。


  いま だに 各路線かくろせん は、ディーゼル車が運転されております。以前のディーゼル車と比べれば、だいぶ性能は良くなってきております。徳島と高知の 駅舎前えきしゃまえ にはヤシの木が植えられております。どことなく 南国なんごく の 雰囲気ふんいき がありました。


 四国と言えば「お 遍路へんろ 」で有名な八十八か所 霊場れいじょう めぐ りがあります。人間には八十八の 煩悩ぼんのう があり霊場巡りをすれば八十八の煩悩が消え ねが いが かな うと言われております。私も大変でしたが、家族四人で回ることができました。


 四県それぞれ特徴があります。徳島は「 阿波あわ おど り」や「 清流せいりゅう よし 野川のがわ 」などが有名で、高知は「よさこい祭り」と「 かつら はま と さか もと りょう  ぞう 」と「高知城」も有名です。高松は「 讃岐さぬき うどん」と 源氏げんじ 平家へいけ の「 屋島やしま 合戦かっせん 」で有名です。松山は なつ  そう せき の小説で「 ぼっ ちゃん」があり、漱石もこよなく愛した「 道後どうご 温泉おんせん 」と 路面ろめん 電車でんしゃ の「坊っちゃん列車」や「松山城」などが有名です。今から二十年ほど前のことですが、当時の なつ かしい 記憶きおく が よみがえ ってきました。


 松山市内担当のMさんを、三年間 指導しどう したところ、少しずつ変化を感じ取ることができました。 初対面しょたいめん の時はごく普通で、なんの 特徴とくちょう もなく 物静ものしず かな人間でした。何事にもあまり 興味きょうみ を示さないタイプでした。しかし、彼は、人が 成功せいこう したところを見て 学習がくしゅう し、 研究けんきゅう し、自分なりに 工夫くふう し、それを自分のものにしてしまうという 特別とくべつ な 能力のうりょく があったのです。


「やる気があるぞ」というところをやたら見せる人間もいます。しかし、そういうタイプは 意外いがい と伸びないものです。Mさんのように、いろんな成功例を自分ができる 範囲はんい でオリジナリティ( 独創性どくそうせい )な 付加ふか 価値かち をつけて 活動かつどう ができる人間はなかなかいないのです。


「人は見かけによらず」といいますが、まさにその言葉通りの人間です。気持ちを外に出さない人間ほど内に  めた「 あつ い思い」を持っているものです。常日頃から自分の 自慢話じまんばなし はあまりしない、とても 謙虚けんきょ な性格で相手から好かれるタイプでした。


  外資がいし けい の ほとん どの社員は自己アピールをします。日本の文化と海外では違いがあります。多くの社員は仕事ができてもできなくても自分の 意見いけん としてのアピールをします。 弁解べんかい ではなく、やりますと言います。


 自分の仕事に自信を持っているTさんは、自己アピールの天才でした。仕事ができなくても、これから 頑張がんば りますと 報告ほうこく するのです。私は、彼ができないことを知っております。しかし、彼はできないにもかかわらず自信があるのです。


 こんな話は外資系だから 通用つうよう する部分もありますが、 最終的さいしゅうてき には 結果けっか が問われてしまうのです。いくらやる気があっても、 成果せいか が出なければおしまいです。それと、できない理由を他人のせいにする人間もいます。こういう人間も  け ぐみ に入ってしまいます。


  理想りそう はやる気があって売り上げを上げ続けることができる人間ですが、それぞれ 長所ちょうしょ や 短所たんしょ があるのです。いかに短所を長所に変えられるかがとても重要となります。Mさんのように 地味じみ な性格でも、自分を高めることに 集中しゅうちゅう できれば必ず成功へと みちび いて いただ けるのであります。


 さて、私たちは、たいへんな 差別さべつ 主義者しゅぎしゃ です。自分のエゴ( 自我じが )を肯定して、助けてくれる生命は 味方みかた だ、エゴの 邪魔じゃま をする生命は てき だ、他の生命には 関心かんしん がない。そんな 態度たいど で、みんな生きております。


  単純たんじゅん に考えると、味方が増えれば幸福も楽しみも増えるはずです。それは自分を 応援おうえん してくれる人々なわけですから、自分の幸福を安定したければ、味方を増やしていけばいいのです。そうすれば、幸福が増します。また、敵だと思っている生命を味方にすることができれば、幸福はよりいっそう 拡大かくだい します。当たり前のことです。敵がいると幸福ではないのだから、できるだけ敵の数を減らすのです。


  無関心むかんしん だった生命にも、味方になってもらうプログラム( 行程表こうていひょう )を  んだらどうでしょうか。他の生命の幸福も考えれば、自分の幸福は 確実かくじつ なものになります。自分のために味方をつくるだけでなく、さらに進んで、他人の幸福も考える。他人の幸福も心配するようになってくると、自分の味方との「かかわり」が たし かなものになります。 きずな がとても強くなり、確実に幸福になれるのです。


 しかし、どうすればそんなプログラムを組むことができるのか。その方法は、 簡単かんたん にわかるものではないのです。どうすれば味方が増えるのか、どうすれば敵が減るのか、どうすれば無関心の人が味方になるのか、どうすれば進んで人の幸福を心配する人間になれるのか。そのための方法が、お釈迦さまが説かれた「 慈悲じひ のこころ」なのです。


 幸福になりたいという一般的な目的。 解脱げだつ に たっ したいという仏教的な目的。生命にはこの二つの目的があります。ある人は、仏教の教えに従って、解脱に達したいと思っています。その他の一般の人々は皆、幸福になりたいと思っています。そして、両者には共に、「正しく生きる」という 課題かだい が与えられています。


  解脱げだつ に達したい人は、エゴ( 自我じが ) 意識いしき をなくして 執着しゅうちゃく を  て、 人格じんかく を きず いていきます。幸福になりたい人は、そのために他の生命とよりよい「かかわり」を築いていきます。そして、解脱に達する人も、そうでない人も、生命との正しいかかわりを築いていかなければならないのです。


 エゴがなくなると、生きることに対する 執着しゅうちゃく もなくなります。執着がなくなれば 解脱げだつ できます。しかし、解脱まで考えてない一般の人々を含めて、「 いつく しみ」はすべての生命に欠かせないことです。


「私はいやだ」などとは言えません。 慈悲じひ のこころを 推奨すいしょう すると、「はずかしくてできません」などという人がおられます。それは、「 呼吸こきゅう するのがいやだ」ということと同じです。従って、私たちは、慈しみを 実践じっせん しなければならないのです。


 お釈迦さまは、自分と他人の幸福を 実現じつげん するために、 無量むりょう の いつく しみを すす めておられます。 無駄むだ な 修行しゅぎょう も無駄な 哲学てつがく も全部  てて、幸福を 目指めざ すのです。それには、慈しみを育てることなのです。お釈迦さまは、「無量」という言葉を使っておられます。それは、生命が無量だからなのです。量ることができないということです。 無数むすう の生命に対して いつく しみを育てれば、人間関係がうまくいき、それによって「幸福」を頂けるということなのです。


「 いのち をつなぐ」とは、どういうことでしょうか。私たちは、「命は とうと い」と思っていますが、本当にそうでしょうか。私たちは他者の生命を うば わないと自分の命をつなぐことができません。だから、 安易あんい に「命は尊い」といってはいけないのです。


 私たちは他者の生命を うば って生きているのです。「 弱者じゃくしゃ は ころ され 強者きょうしゃ は生き  びる」という 法則ほうそく で生命は成り立っております。「あなたは弱者なのだから、死んでも 仕方しかた ない」、こんな一方的な考え方は良くありません。私たちが食べている食材の多くに生命が存在します。その限りない とうと い命の 犠牲ぎせい の上で、私たちは生かされて生きております。


 私たちには、すべての生命を いつく しむ 義務ぎむ があります。「生きること」は うば うことであり、他の生命に 迷惑めいわく をかけることです。私たちは他の生命がなければ生きていられません。一秒でも生きているということは、「  り」をつくっているのです。「借りは、きちんと返しましょう」と、お釈迦さまは教えておられます。私たち人間は、ずいぶん 残酷ざんこく なことをしております。そうしなければ生き続けることはできません。そうであるならば、常に「 いつく しみ」を 実践じっせん しなくてはいけないのです。


 人間に限らず、誰の命も「  り」なのです。借りたものは返さないといけません。人間には、借りを返す 能力のうりょく があります。それなのに、借りを返さないならば、 みにく いものです。人間には慈しみを実践する 義務ぎむ があるのです。


 また、「慈しみ」は借りを返す行為だけではなく、生きる上で起こすすべての 問題もんだい に対する 解決かいけつ さく でもあるのです。逆に言うと、すべての生命に対する「 いつく しみ」がなければ、私たちは、自然まで 破壊はかい してしまいます。 経済けいざい 発展はってん という 大義たいぎ のもとで、限りある自然をただただ 浪費ろうひ してしまうのです。


 こころに 栄養えいよう を与えることがとても 重要じゅうよう です。栄養というのは、ご はん だけでは足りないのです。生命には、こころの栄養が必要なのです。人間は、食べるものがなくても一週間ぐらいは生きられます。しかし、こころに栄養がないと、たちまち死んでしまいます。食べ物よりもこころの栄養のほうが大切なのです。


  いか り、 嫉妬しっと 、 ねた み、 にく しみ、わがままなどは、生命には どく として はたら きます。こころに怒り、憎しみ、 よく などがあると、それはこころの毒になるのです。こころに栄養が必要なのに、私たちは、毒をためていくのです。反対に「慈悲」は、こころの栄養です。自分も他者も栄養を  、また限りなく増やすことができるのです。「慈悲」は、 無限むげん のエネルギーをつくり出すのです。他の人を慈しんだからといって、自分の慈しみがなくなるわけではありません。なおさら、他の生命に対する慈しみも増えるのです。与えれば与えるほど、増えるエネルギーなのです。慈しみは、無限のエネルギーをつくり出し、こころの栄養にもなるのです。


 たとえば、 東日本ひがしにほん 大震災だいしんさい で、大勢の人が不幸に 遭遇そうぐう しました。その時、他人のことを心配しよう、人の苦しみを考えよう、という やさ しさが人々に表れてきました。 地震じしん と 津波つなみ は誰のせいでもないのだから、何を うら む必要もありません。この 苦難くなん を私たちは、人の優しさによって  り  えていかなければならないのです。ほかに乗り越える方法はないのです。


  物資ぶっし の 支援しえん をしたからといって、問題が 解決かいけつ するわけではありません。 精神的せいしんてき な面で 応援おうえん することが大切なのです。自然災害なわけですから、誰のせいでもありません。みんなが、知らない他人をサポートしようとする、その気持ちがあれば私たちは、この苦難を乗り越えられます。これこそがお釈迦さまが説かれた『 慈悲じひ のこころ』なのであります。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を ふか く しん じることの大切さを説かれました。 功徳くどく というものは、 信心しんじん の深さで変わってまいります。妙法を信じて、信じて、信心して「妙法蓮華経」の五文字を とな える時に、大きな、大きな功徳を頂けると おお せです。 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も唱えることで、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができるのです。 表面的ひょうめんてき には変化がないように見えますが、 確実かくじつ に 大難だいなん が 小難しょうなん に小難が 無難ぶなん へと 罪障ざいしょう を 消滅しょうめつ することができるのです。


 そして、 さん とく 『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の 実践じっせん がとても大事です。私たちが三徳の実践をすることによって、自然と身体が 精進しょうじん するという  い方向へと向いてまいります。日々の努力が私たちを〝すばらしき人生〞へと高めてくれるのであります。


合 掌


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