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世界平和を
大樹
すばらしき人生98

早いもので令和三年もひと月が過ぎました。昨年からのコロナウイルスのパンデミック( 感染かんせん 爆発ばくはつ )により新しい生活様式へと変化しなければならない状況となりました。コロナ以前の生活が、いかに楽しく 平穏へいおん な日々であったか思い知らされました。かつての幸せな生活にもっと 感謝かんしゃ をしなければいけません。コロナ  においては、目に見えない てき と たたか う むずか しさを身にしみて感じております。


  三密さんみつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密着みっちゃく )を  けること。人と人との十分な 距離きょり (ソーシャルディスタンス)をとることが重要であります。「コロナに 感染かんせん しない、させない」という気持ちを常に持たないといけません。「人が動けばコロナも動く」と申しまして、できるだけ 不要ふよう 不急ふきゅう の外出は ひか えたほうが良いと思われます。


 さて、アメリカの 大統領選だいとうりょうせん も終わりトランプ 政権せいけん に まく がおりました。 最後さいご の最後までトランプ氏の 醜態しゅうたい が 露呈ろてい されました。年が明けトランプ氏の 支持者しじしゃ により 連邦れんぽう 議会ぎかい 議事堂ぎじどう が 占拠せんきょ されるという 暴挙ぼうきょ がありました。彼の人気はバイデン大統領より熱狂的な 支持層しじそう が多くおります。その 影響力えいきょうりょく があまりにも強いためトランプ氏のツイッターのアカウント( 利用りよう 権利けんり )まで 永久えいきゅう 停止ていし の状態となりました。ツイッターにより悪い情報が 拡散かくさん することを防止することが理由だと思います。


 彼の 往生おうじょう ぎわ の悪さは、日本人にはできないことです。一方、当選されたジョー・バイデン大統領は、現在は再婚されましたが、今から五十年ほど前に奥さんと子供さんを亡くし 悲劇ひげき のヒーローとされております。しかし、七十八歳という年齢で大統領という 激務げきむ に  えられるかどうかわかりません。日本にとって良い状況が生まれることを 期待きたい したいと思っております。


 元旦祭は読経並びに 短冊たんざく  きを かい さい させて頂きました。皆さまには 分散ぶんさん にてお参りを頂きありがとうございました。二月七日に開催の節分厄除祈願祭も読経のみの開催となります。また、二月十五日の釈尊涅槃会も同様の方法にて開催します。どうかよろしくお願いいたします。


 私がサラリーマンであった時のことです。 静岡県しずおかけん の 責任者せきにんしゃ をしておりました。東西に長く直線で百五十五キロあります。 東海道とうかいどう 新幹線しんかんせん の駅も六駅あり 岩手県いわてけん 、 新潟県にいがたけん に続き第三位です。 一級いっきゅう 河川かせん も六つあり、 安倍川あべかわ 、 大井川おおいがわ 、 天竜川てんりゅうがわ 、  野川のがわ 、 富士川ふじかわ 、 菊川きくがわ です。冬の時期には富士山が まぶ しいぐらいに目に入ってきます。山、川、海と大自然が豊富なところで仕事ができたことに感謝しております。


 Hさんという 優秀ゆうしゅう な部下がおりました。彼は 天才てんさい です。何も おし えなくても自分がやることを 理解りかい しております。 中途ちゅうと 採用さいよう のメリット(強み)は、自分のなすべきことを知っている 人材じんざい の 確保かくほ ができることです。しかし、中途でもWさんのように、知ってはいるがやらない人もおります。また、Kさんのように本当に知らない人もおります。みんな かお が ちが うように、それぞれスキル( 能力のうりょく )が違うのです。


 一番良いのはHさんのようにスキル(能力)が高く 集中力しゅうちゅうりょく があり努力ができる人です。 努力どりょく しないと「 たから の  ち ぐさ れ」になってしまうのです。Hさんには 死角しかく がないのです。彼は、 成長せいちょう ホルモン 専門せんもん のK 病院びょういん K先生に 懇意こんい にして 可愛かわい がっていただきました。先生は 患者かんじゃ さんを 百例ひゃくれい ほど  ておられました。彼は、 わず か二年のあいだに 患者かんじゃ 獲得かくとく に 専念せんねん し 実績じっせき を  ばしました。当初は四割のマーケットシェア( 市場しじょう 占拠率せんきょりつ )でしたが、最終的に七割まで  やしました。 優秀ゆうしゅう な人が  しまぬ努力をすれば、必ず 最高さいこう の 結果けっか が  られます。また、 性格面せいかくめん も 重要じゅうよう なファクター( 要素ようそ )です。人の人格や性格は必ず売り上げに 貢献こうけん します。スキル( 能力のうりょく )を みが き、どんなことにも努力を  しまず、人間的に 魅力みりょく があれば必ず 成就じょうじゅ すると 確信かくしん を持っております。


 お釈迦さまは、「 真理しんり 」という言葉にずいぶんとこだわっておられます。真実とは何か、本当のこととは何なのか、あるいは、本当のことを知る方法についても、大変こだわられておられます。


 この世の中では、意見がいくつかある場合、いずれか一つに決めなければならないことが多くあります。そうした時に、 便利べんり なのは 民主みんしゅ 主義しゅぎ です。しかし、 多数決たすうけつ で何かを決めたとしても、それが正しいという 論理ろんり は成り立ちません。


 多数決というのは、いろいろな意見がある時に使うべき方法です。たとえば、 原子力げんしりょく を使うべきか いな かを問えば、意見は  っ ぷた つに分かれます。一方は使うべきだと言い、もう一方は使うべきではないと言います。


 どうやって決めますか。どちらにもそれなりの 論理ろんり があります。 原発げんぱつ 反対はんたい の人々は、代わりのエネルギーをどうするかについて答えを出さなくてはいけません。 他方たほう 、 原発げんぱつ 賛成さんせい という人々の場合は、安全をどうやって 担保たんぽ するか、ということを考えなければいけません。結局のところ、「では、意見の多いほうに決めましょう」ということになるのです。


 仏教の立場というのは、今の世の中の流れに逆らっていると言えるかもしれません。人々が 真理しんり だと思うものと、仏教が真理だと かた るものは初めから ちが います。仏教は、 調しら べてから正しいか いな かを語るのであって、みんなが言っているから正しいという立場には立ちません。仏教の立場というのは、「調べてみましょう」「 たし かめましょう」ということです。いきなり「正しい」とか「正しくない」とか「 間違まちが っている」というのではないのです。調べてみて出てきた 結果けっか に もと づいて出た 結論けつろん には、一般の人の 意見いけん と 一致いっち する場合もあるし、一致しない場合もあります。


 ところで、私たちの「生きるエネルギー」の みなもと は、「こころ」なのであります。生きるエネルギーは、 外部がいぶ から 電気でんき のように 供給きょうきゅう されているわけではありません。こころが 自家じか 発電的はつでんてき にエネルギーをつくっているのです。そのエネルギーで私たちは生きているのです。だから仏教は、こころとは何かを 明確めいかく に 分析ぶんせき するのです。「こころが生きるエネルギーなのだ」ということを 証明しょうめい するためなのです。


 生きることが  になっていることも、幸福に思えないことも、こころの問題です。私たちは一人ひとりにとって、生きることはたいへんなのです。楽ではありません。生きることは苦しいのです。一方で、人間はみんな、幸福になりたいと思っております。しかし、幸福になりたいのに、なかなかなれません。


 こころがエネルギーなのですから、生きることが苦であるならば、こころというエネルギーの 仕組しく みに何か 問題もんだい があるのです。幸福になろうとがんばっても、なれないということは、こころに何か問題があるはずなのです。


 同じ 行為こうい であっても、 結果的けっかてき に幸福になったり不幸になったりします。たとえば、子育てをする。その結果が良いか悪いかは、一般的にはわかりません。 真面目まじめ に 真剣しんけん に子供を育てたとしても、良い人間として成長するか、悪人になるかは、親にはわかりません。


 あるいは、上司が部下を しか る。 悪意あくい で叱っているわけではないのですが、それによって部下が元気になっていい仕事をするか、ふてくされて仕事をしなくなるか。結果がどうなるのか、私たちには知ることはできません。私たちは、そういう世界で生きているのです。


 では、なぜ人生はそうなるのでしょうか。その理由は、必ず「こころ」にあるはずなのです。子育ての場合、必ず幸せになるようにと必死で努力するのです。決して不幸に おとしい れたくはないのです。しかし、将来、子供が幸福になるか不幸になるかわかりません。その理由は何でしょうか。


 上司としてしっかり部下を 管理かんり したい。それで会社が 繁栄はんえい して、部下もバリバリ仕事をして 能力のうりょく を 発揮はっき する。そして、幸福になりたい。わかりやすい望みです。しかし、自分が部下をうまく管理したつもりでも、だめになる可能性もあります。この理由はどこにあるのでしょうか。


 たとえば、人に向かって「こらっ」と 怒鳴どな るとします。「こらっ」と言われたからといって、相手が必ずしも おこ っているとは限りません。「こらっ」と言われても、ニコッと笑って喜んでいる場合もあります。ものすごく怒る場合もあります。この違いはどこにあるのでしょうか。


 人に向かって「あなたの顔は二度と見たくない」と言っても、相手は全然傷つくこともなく、ニコニコしている場合もあります。あるいは人によっては、とんでもない結果になる場合もあります。同じ行為なのに、結果が変わってしまうのです。


 なぜかというと、こころは生きるエネルギーなので、そのエネルギーの はたら き方によって 適切てきせつ な 結果けっか になるのです。当然、誰でも良い結果を出したいのです。その目的を目指して、努力するものです。しかし、結果がどう出るか誰にもわからないのです。ということは、私たちには良い結果を出せるようなこころのエネルギーの 制御せいぎょ ができていないということです。


  行為こうい をつかさどるこころのことを、仏教では「 心所しんじょ 」と言います。「心所」とは、「こころにあるもの」「こころによるもの」のことで、こころの中に入っている、こころに溶けているもののことです。  い  えれば、こころの 成分せいぶん のようなものです。ちなみに仏教では、「こころがある 物体ぶったい 」を「生命」、「こころのない物体」を「 物質ぶっしつ 」と言っております。


 「 いか り」というのは「こころ」ではありません。こころに怒りが  けてしまっているので、「怒り」は「心所」です。同様に、「 よく 」も「心所」です。こころに欲が溶けて 一緒いっしょ になっているのです。欲とこころは はな すことができません。


 たとえば、お茶は、お茶の成分が水に溶けています。しかし、これは水、これはお茶というふうに分けることはできません。 はな れることなくいつも 一緒いっしょ ですけれども、水とお茶は別々のものなのです。水は水で同じものですが、その中に溶けたものの違いで差がつくのです。水にコーヒーの成分、オレンジの成分、 味噌みそ の成分が入ったら、それぞれの水が、コーヒーになったり、オレンジジュースになったり、味噌汁になったりします。それぞれの 液体えきたい になるのです。


 こころも 蒸留じょうりゅう すい のようなものです。そちらにさまざまなもの( 心所しんじょ )が溶けるのです。それによって、さまざまなこころが生まれるのです。


  道徳どうとく も、こころで  めるのではなく、心所で決められます。 行為こうい で決まるわけではありません。行為を引き起こしたこころ 次第しだい で、 善行ぜんこう  になったり、 悪行あくこう  になったりするのです。


 たとえば、こころに 貪瞋痴どんじんち が  けているのであれば、あなたが自分勝手にいいことだと思っても、その結果は必ず悪くなるということです。


 また、こころに 無知むち があったら、あなたのその行為はもうだめです。人に「こらっ」と言ったとしても、無知で言った 途端とたん とんでもない結果になります。相手のことを心配して、また相手のことを可愛がりたいという目的で「こらっ」と言っても、悪い結果にはなりません。いかに 煩悩ぼんのう をなくしていくか、きれいなこころ( 心所しんじょ )をつくるかによって、 ぜん 行為こうい に つな がるような 人間にんげん 改革かいかく をしなければならないのです。


 教祖・杉山辰子先生は 妙法みょうほう を ふか く しん じることの大事さを  かれました。「信じる者こそ すく われる」という 言葉ことば があるように信じないと始まりません。その上で、 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も妙法の力を信じ「妙法蓮華経」の五文字を とな える時に 功徳くどく があると おお せです。常に妙法を唱えていれば、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができると  かれました。


 教祖さまの 語録ごろく に、このように書かれております。「悲しむ人はこころから なぐさ め いたわ り、  えた人には食を与え、 さむ さに ふるえ える人には 衣類いるい を ほどこ す等、人の よろこ ぶこと、人の 便利べんり を はか ることは、他人が見ておろうと見ていないとに かか わらず、一生懸命 実行じっこう せられて 陰徳いんとく を  んで下さい。必ず 陽報ようほう は 子宝こだから となってあらわれます」。このように ほどこ すことの大切さを示されておられます。


 教祖さまには、 さん 大煩悩だいぼんのう である「 どん ( 貪欲どんよく )・ じん ( 瞋恚しんい )・  ( 愚痴ぐち )」を めっ することの重要さを教えていただきました。私たちが なや んだり くる しんだりするのは、この三大煩悩の はたら きによるものです。


 本日より少しでも 煩悩ぼんのう を減らす努力が必要です。そして、『 慈悲じひ 』『 まこと 』『 堪忍かんにん 』の さん とく の 実践じっせん がとても重要です。 三毒さんどく を減らし三徳を実践するところに法華経のエキスが 凝縮ぎょうしゅく しております。『誠』『堪忍』は努力すればできないことはありません。『 慈悲じひ 』は一番難しいと思います。しかし、『慈悲』の 実践じっせん を 積極的せっきょくてき に行うことはとても重要であります。私たちが いつく しみを育てることが結果的には 人格じんかく 向上こうじょう に つな がって参ります。とにかく 努力どりょく ・ 精進しょうじん することで〝すばらしき人生〞へと高めたいと思っております。


 


合 掌


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