早いもので令和三年もひと月が過ぎました。昨年からのコロナウイルスのパンデミック( 感染 爆発 )により新しい生活様式へと変化しなければならない状況となりました。コロナ以前の生活が、いかに楽しく 平穏 な日々であったか思い知らされました。かつての幸せな生活にもっと 感謝 をしなければいけません。コロナ 禍 においては、目に見えない 敵 と 戦 う 難 しさを身にしみて感じております。
三密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密着 )を 避 けること。人と人との十分な 距離 (ソーシャルディスタンス)をとることが重要であります。「コロナに 感染 しない、させない」という気持ちを常に持たないといけません。「人が動けばコロナも動く」と申しまして、できるだけ 不要 不急 の外出は 控 えたほうが良いと思われます。
さて、アメリカの 大統領選 も終わりトランプ 政権 に 幕 がおりました。 最後 の最後までトランプ氏の 醜態 が 露呈 されました。年が明けトランプ氏の 支持者 により 連邦 議会 議事堂 が 占拠 されるという 暴挙 がありました。彼の人気はバイデン大統領より熱狂的な 支持層 が多くおります。その 影響力 があまりにも強いためトランプ氏のツイッターのアカウント( 利用 権利 )まで 永久 停止 の状態となりました。ツイッターにより悪い情報が 拡散 することを防止することが理由だと思います。
彼の 往生 際 の悪さは、日本人にはできないことです。一方、当選されたジョー・バイデン大統領は、現在は再婚されましたが、今から五十年ほど前に奥さんと子供さんを亡くし 悲劇 のヒーローとされております。しかし、七十八歳という年齢で大統領という 激務 に 耐 えられるかどうかわかりません。日本にとって良い状況が生まれることを 期待 したいと思っております。
元旦祭は読経並びに 短冊 引 きを 開 催 させて頂きました。皆さまには 分散 にてお参りを頂きありがとうございました。二月七日に開催の節分厄除祈願祭も読経のみの開催となります。また、二月十五日の釈尊涅槃会も同様の方法にて開催します。どうかよろしくお願いいたします。
私がサラリーマンであった時のことです。 静岡県 の 責任者 をしておりました。東西に長く直線で百五十五キロあります。 東海道 新幹線 の駅も六駅あり 岩手県 、 新潟県 に続き第三位です。 一級 河川 も六つあり、 安倍川 、 大井川 、 天竜川 、 狩 野川 、 富士川 、 菊川 です。冬の時期には富士山が 眩 しいぐらいに目に入ってきます。山、川、海と大自然が豊富なところで仕事ができたことに感謝しております。
Hさんという 優秀 な部下がおりました。彼は 天才 です。何も 教 えなくても自分がやることを 理解 しております。 中途 採用 のメリット(強み)は、自分のなすべきことを知っている 人材 の 確保 ができることです。しかし、中途でもWさんのように、知ってはいるがやらない人もおります。また、Kさんのように本当に知らない人もおります。みんな 顔 が 違 うように、それぞれスキル( 能力 )が違うのです。
一番良いのはHさんのようにスキル(能力)が高く 集中力 があり努力ができる人です。 努力 しないと「 宝 の 持 ち 腐 れ」になってしまうのです。Hさんには 死角 がないのです。彼は、 成長 ホルモン 専門 のK 病院 K先生に 懇意 にして 可愛 がっていただきました。先生は 患者 さんを 百例 ほど 診 ておられました。彼は、 僅 か二年のあいだに 患者 獲得 に 専念 し 実績 を 伸 ばしました。当初は四割のマーケットシェア( 市場 占拠率 )でしたが、最終的に七割まで 増 やしました。 優秀 な人が 惜 しまぬ努力をすれば、必ず 最高 の 結果 が 得 られます。また、 性格面 も 重要 なファクター( 要素 )です。人の人格や性格は必ず売り上げに 貢献 します。スキル( 能力 )を 磨 き、どんなことにも努力を 惜 しまず、人間的に 魅力 があれば必ず 成就 すると 確信 を持っております。
お釈迦さまは、「 真理 」という言葉にずいぶんとこだわっておられます。真実とは何か、本当のこととは何なのか、あるいは、本当のことを知る方法についても、大変こだわられておられます。
この世の中では、意見がいくつかある場合、いずれか一つに決めなければならないことが多くあります。そうした時に、 便利 なのは 民主 主義 です。しかし、 多数決 で何かを決めたとしても、それが正しいという 論理 は成り立ちません。
多数決というのは、いろいろな意見がある時に使うべき方法です。たとえば、 原子力 を使うべきか 否 かを問えば、意見は 真 っ 二 つに分かれます。一方は使うべきだと言い、もう一方は使うべきではないと言います。
どうやって決めますか。どちらにもそれなりの 論理 があります。 原発 反対 の人々は、代わりのエネルギーをどうするかについて答えを出さなくてはいけません。 他方 、 原発 賛成 という人々の場合は、安全をどうやって 担保 するか、ということを考えなければいけません。結局のところ、「では、意見の多いほうに決めましょう」ということになるのです。
仏教の立場というのは、今の世の中の流れに逆らっていると言えるかもしれません。人々が 真理 だと思うものと、仏教が真理だと 語 るものは初めから 違 います。仏教は、 調 べてから正しいか 否 かを語るのであって、みんなが言っているから正しいという立場には立ちません。仏教の立場というのは、「調べてみましょう」「 確 かめましょう」ということです。いきなり「正しい」とか「正しくない」とか「 間違 っている」というのではないのです。調べてみて出てきた 結果 に 基 づいて出た 結論 には、一般の人の 意見 と 一致 する場合もあるし、一致しない場合もあります。
ところで、私たちの「生きるエネルギー」の 源 は、「こころ」なのであります。生きるエネルギーは、 外部 から 電気 のように 供給 されているわけではありません。こころが 自家 発電的 にエネルギーをつくっているのです。そのエネルギーで私たちは生きているのです。だから仏教は、こころとは何かを 明確 に 分析 するのです。「こころが生きるエネルギーなのだ」ということを 証明 するためなのです。
生きることが 苦 になっていることも、幸福に思えないことも、こころの問題です。私たちは一人ひとりにとって、生きることはたいへんなのです。楽ではありません。生きることは苦しいのです。一方で、人間はみんな、幸福になりたいと思っております。しかし、幸福になりたいのに、なかなかなれません。
こころがエネルギーなのですから、生きることが苦であるならば、こころというエネルギーの 仕組 みに何か 問題 があるのです。幸福になろうとがんばっても、なれないということは、こころに何か問題があるはずなのです。
同じ 行為 であっても、 結果的 に幸福になったり不幸になったりします。たとえば、子育てをする。その結果が良いか悪いかは、一般的にはわかりません。 真面目 に 真剣 に子供を育てたとしても、良い人間として成長するか、悪人になるかは、親にはわかりません。
あるいは、上司が部下を 叱 る。 悪意 で叱っているわけではないのですが、それによって部下が元気になっていい仕事をするか、ふてくされて仕事をしなくなるか。結果がどうなるのか、私たちには知ることはできません。私たちは、そういう世界で生きているのです。
では、なぜ人生はそうなるのでしょうか。その理由は、必ず「こころ」にあるはずなのです。子育ての場合、必ず幸せになるようにと必死で努力するのです。決して不幸に 陥 れたくはないのです。しかし、将来、子供が幸福になるか不幸になるかわかりません。その理由は何でしょうか。
上司としてしっかり部下を 管理 したい。それで会社が 繁栄 して、部下もバリバリ仕事をして 能力 を 発揮 する。そして、幸福になりたい。わかりやすい望みです。しかし、自分が部下をうまく管理したつもりでも、だめになる可能性もあります。この理由はどこにあるのでしょうか。
たとえば、人に向かって「こらっ」と 怒鳴 るとします。「こらっ」と言われたからといって、相手が必ずしも 怒 っているとは限りません。「こらっ」と言われても、ニコッと笑って喜んでいる場合もあります。ものすごく怒る場合もあります。この違いはどこにあるのでしょうか。
人に向かって「あなたの顔は二度と見たくない」と言っても、相手は全然傷つくこともなく、ニコニコしている場合もあります。あるいは人によっては、とんでもない結果になる場合もあります。同じ行為なのに、結果が変わってしまうのです。
なぜかというと、こころは生きるエネルギーなので、そのエネルギーの 働 き方によって 適切 な 結果 になるのです。当然、誰でも良い結果を出したいのです。その目的を目指して、努力するものです。しかし、結果がどう出るか誰にもわからないのです。ということは、私たちには良い結果を出せるようなこころのエネルギーの 制御 ができていないということです。
行為 をつかさどるこころのことを、仏教では「 心所 」と言います。「心所」とは、「こころにあるもの」「こころによるもの」のことで、こころの中に入っている、こころに溶けているもののことです。 言 い 換 えれば、こころの 成分 のようなものです。ちなみに仏教では、「こころがある 物体 」を「生命」、「こころのない物体」を「 物質 」と言っております。
「 怒 り」というのは「こころ」ではありません。こころに怒りが 溶 けてしまっているので、「怒り」は「心所」です。同様に、「 欲 」も「心所」です。こころに欲が溶けて 一緒 になっているのです。欲とこころは 離 すことができません。
たとえば、お茶は、お茶の成分が水に溶けています。しかし、これは水、これはお茶というふうに分けることはできません。 離 れることなくいつも 一緒 ですけれども、水とお茶は別々のものなのです。水は水で同じものですが、その中に溶けたものの違いで差がつくのです。水にコーヒーの成分、オレンジの成分、 味噌 の成分が入ったら、それぞれの水が、コーヒーになったり、オレンジジュースになったり、味噌汁になったりします。それぞれの 液体 になるのです。
こころも 蒸留 水 のようなものです。そちらにさまざまなもの( 心所 )が溶けるのです。それによって、さまざまなこころが生まれるのです。
道徳 も、こころで 決 めるのではなく、心所で決められます。 行為 で決まるわけではありません。行為を引き起こしたこころ 次第 で、 善行 為 になったり、 悪行 為 になったりするのです。
たとえば、こころに 貪瞋痴 が 溶 けているのであれば、あなたが自分勝手にいいことだと思っても、その結果は必ず悪くなるということです。
また、こころに 無知 があったら、あなたのその行為はもうだめです。人に「こらっ」と言ったとしても、無知で言った 途端 とんでもない結果になります。相手のことを心配して、また相手のことを可愛がりたいという目的で「こらっ」と言っても、悪い結果にはなりません。いかに 煩悩 をなくしていくか、きれいなこころ( 心所 )をつくるかによって、 善 行為 に 繋 がるような 人間 改革 をしなければならないのです。
教祖・杉山辰子先生は 妙法 を 深 く 信 じることの大事さを 説 かれました。「信じる者こそ 救 われる」という 言葉 があるように信じないと始まりません。その上で、 行住坐臥 いついかなる時も妙法の力を信じ「妙法蓮華経」の五文字を 唱 える時に 功徳 があると 仰 せです。常に妙法を唱えていれば、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると 説 かれました。
教祖さまの 語録 に、このように書かれております。「悲しむ人はこころから 慰 め 労 り、 飢 えた人には食を与え、 寒 さに 震 える人には 衣類 を 施 す等、人の 喜 ぶこと、人の 便利 を 図 ることは、他人が見ておろうと見ていないとに 拘 わらず、一生懸命 実行 せられて 陰徳 を 積 んで下さい。必ず 陽報 は 子宝 となってあらわれます」。このように 施 すことの大切さを示されておられます。
教祖さまには、 三 大煩悩 である「 貪 ( 貪欲 )・ 瞋 ( 瞋恚 )・ 痴 ( 愚痴 )」を 滅 することの重要さを教えていただきました。私たちが 悩 んだり 苦 しんだりするのは、この三大煩悩の 働 きによるものです。
本日より少しでも 煩悩 を減らす努力が必要です。そして、『 慈悲 』『 誠 』『 堪忍 』の 三 徳 の 実践 がとても重要です。 三毒 を減らし三徳を実践するところに法華経のエキスが 凝縮 しております。『誠』『堪忍』は努力すればできないことはありません。『 慈悲 』は一番難しいと思います。しかし、『慈悲』の 実践 を 積極的 に行うことはとても重要であります。私たちが 慈 しみを育てることが結果的には 人格 向上 に 繋 がって参ります。とにかく 努力 ・ 精進 することで〝すばらしき人生〞へと高めたいと思っております。
合 掌