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世界平和を
大樹
すばらしき人生99

早いものでもう三月になりました。 旧暦きゅうれき では 弥生やよい と呼んでおります。花見の季節ですが、コロナの 影響えいきょう で、昨年と同様に花見で 宴会えんかい ができない状況は依然として変わりません。 さん みつ ( 密閉みっぺい ・ 密集みっしゅう ・ 密接みっせつ )を  ける行動がこれからも大事なこととなります。しばらくは 新生しんせい かつ 様式ようしき で活動しないといけないと思います。ワクチンや 特効とっこう やく にも 期待きたい しておりますが、それだけでは何の 保証ほしょう もありません。人々の 行動こうどう 変容へんよう がとても大事であり、一人ひとりが 自覚じかく と 覚悟かくご を持つことで、コロナと たたか わなくてはいけないと思っております。


 二度目の 緊急きんきゅう 事態じたい 宣言せんげん が発令され、 感染者かんせんしゃ も少しずつ 減少げんしょう 傾向けいこう にありますが、少し気が ゆる めば、また 感染かんせん 拡大かくだい へとなってしまいます。イギリス がた やアフリカ型などのコロナの 変異へんい かぶ も増えてきており、コロナウイルスも強くなり症状も 重篤じゅうとく な症例が増えております。今後、コロナが 終息しゅうそく しても、また新たなウイルスが出てくるか、誰も知る 余地よち はありません。いつどんなウイルスが発生しても 冷静れいせい な対応をとることが重要であると思います。


 私たちにできることは、手指の消毒、うがい、マスク着用を 継続けいぞく することです。そして、私たち仏教の立場では、信者の皆さまが 感染かんせん しないことを祈ることです。私たちには教えがあるから感染しないという あやま った考えは  てたほうがよいと思います。感染するにはそれなりの 因縁いんねん があるのです。「感染しない、させない」という相手を思いやるこころが大切なのであります。


 先月開催の節分厄除祈願祭と釈尊 涅槃会ねはんえ は、コロナ 感染かんせん 防止ぼうし 対策たいさく として、読経のみの開催となりました。今月開催の春季彼岸先祖法要会も法話、参拝を中止させて頂きます。読経のみの開催となります。悪しからずご 了承りょうしょう たまわ りますようお願いいたします。


 人間社会において、多くの人々が 煩悩ぼんのう に支配され失敗をすることが多々ありますが、私がサラリーマンであった時のことです。四国の責任者をしておりました。部下は二十名ほどおりました。人間の性格というのはとても 重要じゅうよう なファクター( 要素ようそ )です。ものごとを 謙虚けんきょ に 冷静れいせい に見ることができる人と、そうでない人は、明らかに結果が変わってまいります。勿論、 性格面せいかくめん だけで仕事が成功するものではありません。しかし、仮に 能力のうりょく が同じ人間と考えた場合、性格面がいかに 関与かんよ するかという事実もあります。謙虚であるということが、仕事上でとても重要となってまいります。


 YさんとTさんという二人の部下の話です。二人とも性格は良く 素直すなお で やさ しいタイプの人間です。Yさんは京都の有名国立大学を卒業されました。Tさんは東京の私立大学を卒業されました。Yさんは有名国立大卒という 絶対的ぜったいてき なプライドがあります。Tさんにはそういうプライドはありませんでした。


 Yさんは香川県のK 医科いか 大学だいがく 付属ふぞく 病院びょういん を担当しておりました。当時、 じゅん 教授きょうじゅ のI先生は 糖尿病とうにょうびょう がご 専門せんもん であり、 情報じょうほう 提供ていきょう を 頻繁ひんぱん に行っていました。I先生の出身大学は大阪の国立O大学医学部を出られました。大学を比較しますと担当のYさんのほうがレベルが高いといこともあり、Yさんは上から 目線めせん で営業活動しているのではないかと 危惧きぐ しておりました。


 そんなある日、私がYさんに同行して、I先生を 訪問ほうもん した時のことです。私の 予想よそう どお り先生に 製剤せいざい の 特徴とくちょう をレクチャー( 講義こうぎ )していたのです。こんなことは、あってはならないことです。 製薬せいやく 会社がいしゃ の社員が先生にレクチャーするなんてとんでもないことです。その時、私は、先生の 不機嫌ふきげん な様子を はだ で感じました。いつかは先生の 逆鱗げきりん に  れてしまうのではないかという悪い予感がしました。


 こういう時は 迅速じんそく な対応が 賢明けんめい であり、担当を変えたほうが 被害ひがい は少ないと考え、Nさんに担当交代をしました。Nさんは、 学歴がくれき の面でYさんのようなことはありません。 あん の じょう 、交代して現状を 維持いじ するどころか、見る見るうちに、先生に 懇意こんい にされるようになり 信頼しんらい を得ました。そして、大きく売り上げを増やすことに成功したのです。彼はとても 謙虚けんきょ で 誠実せいじつ な人間なのです。


 Yさんは、自分が 高学歴こうがくれき であるという おご りがあったのです。 高慢こうまん になるとどうしても相手を見下してしまうものです。そして、ものごとを 客観的きゃくかんてき に見ることができなくなってしまう。 高慢こうまん 無礼ぶれい ということで、Yさんには謙虚という言葉はないのです。学校で勉強がいくらできても社会では 人柄ひとがら がとても大事です。常に謙虚に生きるということが、私たちの成功へと つな がる道なのであります。


 さて、宗教の面から考えますと 不思議ふしぎ なことがわかって参ります。人間というものは自分の気持ちが ぜん なのか あく なのかわからないものなのです。その区別ができないというよりも、自分の 行為こうい は  い行為だと、 勝手かって に思っているのです。みんな自分がやっていることは正しいと思っているのです。これは、私たちが失敗するところであり注意が必要です。自分のこころが善なのか悪なのか、よくわからないまま自分の 主観しゅかん で善いことをやっているのだと思うことは、非常に 危険きけん なことです。


 人々は 勘違かんちが いをしております。誰かに対して よく が生まれたとしましょう。それから、その人のことを 心配しんぱい するのです。心配してあげても、よい結果にはなりません。その人に対する欲が、心配の めん をかぶっているだけだからです。しかし、本人は気づかないのです。本当に心配していると、勘違いをするのです。


 人のこころに  こる いか りが、 やさ しいという めん を かぶ る場合もあります。相手の生き方が 基本的きほんてき には気に入らないのです。優しい面を被って、相手を自分の この みにあわせて 改良かいりょう しようとするのです。しかし、良い結果は出ません。なぜかというと、本人の怒りが優しさに  けたからです。


 このようにこころが全く違うものに化けてしまうケースがたくさんあります。問題は、本人はまったく気づかないことです。たとえば、何としても我が子に医者になってほしいと思う親がいるとします。それこそ、子供のためになるのだと、まじめに思っているのです。なのに、子供が 反発はんぱつ して別な道を えら ぶとする。なぜ親が 失敗しっぱい したのでしょうか。それは、親のエゴ( 自我じが )、親の 希望きぼう 、親の よく が、相手に対する やさ しさに  けてしまったのです。親のエゴを かな えてあげることは、子供の 生涯しょうがい の 義務ぎむ ではありません。このようなこころの働きを仏教では「こころの 欺瞞ぎまん 」というのです。


 こころは  らぐものです。  い気持ちでやっているつもりであっても、善い結果が出ない理由がわかります。幸福になりたければ、こころの はたら きを 勉強べんきょう する必要があります。知ってほしいのは「人は誰でも、自分がやっていることが正しい 行為こうい だと思っていることです。行為が正しいか いな かは、結果が出るまでわかりません」。結果が出たら あと の まつ りです。どうすることもできません。自分の行為が正しい行為になるように、 工夫くふう する必要があります。


 こころのエネルギーを はっ する 時点じてん で、 ぜん の方向に切り  えるとよいのです。こころがエネルギーを発生して、さあ、出発しようとします。その方向は二つあります。一つは ぜん の みち 、もう一つは あく の みち です。電車と同じように、出発する時点で 路線ろせん を変えるのです。出発点をがんばって善のほうに変えましょう。そうすればあとは 簡単かんたん です。そのままずっと善の道を歩んで行けます。出発点が悪に向かってしまったら、悪の道に行ってしまうのです。


  ぜん に進むために、仏教では「 不貪ふとん ・ 不瞋ふじん ・ 不痴ふち ・ 理性りせい ・ 真理しんり を学ぶこと、ありのままに 観察かんさつ すること」などを 推奨すいしょう しております。仏教は、「 不貪ふとん ・ 不瞋ふじん ・ 不痴ふち 」という気持ちを育ててくださいとか、物事をありのままに観察してくださいとか、理性を育てなさいとか説いております。そういうことを 実践じっせん していると、こころが はっ するエネルギーがいつでも善の方向に 路線ろせん を変えるからです。善い方向の路線に自然と変わってしまうのです。


 それでも 感情かんじょう の 性質せいしつ を 見抜みぬ くことが むずか しい場合もたびたびあります。 不貪ふとん ・ 不瞋ふじん ・ 不痴ふち を学んで気をつけても、 日々ひび 物事ものごと を 観察かんさつ しても、うまくいかない時もあります。こころというものはコントロールが難しいのです。私たちは、常にこころの よご れを落とすという努力が必要なのです。


「生きている」というそのことだけで、 いつく しみを 実践じっせん するのです。必要なのはその気持ちです。「生きている」ものがすべて、幸福でありますように、とそのようにすべての生命に 無量むりょう の いつく しみを広げるのです。「無量」とは条件がないということです。条件もなく、生命の区別もない。


 水の中で生活するすべての生命も幸福でありますように。空を飛んでいる生命も幸せでありますように。このようにすべての生きものに「無量」の慈しみを持つことが私たちにとって、 いつく しみを そだ てる方法なのです。


 生命に対して、わだかまりもない、 うら みもない、 敵意てきい もないこころを育てる。自分は誰に対しても何のわだかまりもなく、どんな生命にも敵意はない。そのようなこころを育てることです。


  慈悲じひ の 実践じっせん は、世の中の 現実げんじつ を かた っているのではないのです。世の中の人間に、思いつくこともできない 高度こうど な生き方を 推奨すいしょう しております。やってみることです。 徐々じょじょ に、こころが成長していきます。 差別さべつ 意識いしき が こわ れていきます。


 自分の命と他人の命が、別なものとは思えないところまで、 いつく しみを育てるのです。お釈迦さまはこう説明されました。「あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのすべての生命に対して、 無量むりょう の『 いつく しみ』のこころを育ててください」すべての生命に対し、母の気持ちになりなさいということです。


 ここまでは、生命を 種類しゅるい べつ に分けましたが今度は、方向という 概念がいねん で生命を  らえるのです。生きとし生けるもの、という概念を のう は 理解りかい できないのです。その言葉を聞いても、脳は何も かん じないのです。それではこころは成長しません。しかし、脳には自分がいる場所を 認識にんしき する 能力のうりょく があります。脳は自分の 地図ちず を持っているのです。


 脳のこの 機能きのう を 慈悲じひ の 実践じっせん に使うのです。 東西南北とうざいなんぼく 上下じょうげ という 六法ろっぽう を考えてください。しかし、東西南北は、昔は 太陽たいよう の 位置いち から考えたものでした。今は 磁石じしゃく の はり で見ます。それより 現実的げんじつてき なのは、自分を中心に左右、前後、上下という方向です。方向には 限界げんかい がありません。あなたの右の方向はどこまで続くのですか、と たず ねられたら、 無限むげん と答えなくてはいけないのです。左、前後、上下という方向についても、同じ答えになります。それで何となく、無限という 概念がいねん が のう に入ります。しかし、これらの六つの方向にも、生命が住んでいるのです。生命の場合は、無限ではなく「 無量むりょう 」ということになります。


 このような 工夫くふう をして、無料の生命・生きとし生けるもの、という概念を脳に 理解りかい させるのです。そうすることで、いかなる生命に対しても、わだかまりのない、 うら みのない、 敵意てきい のないこころが徐々に あらわ れてくるのです。これが 慈悲じひ の 実践じっせん の 頂点ちょうてん なのです。


 次に時間という問題ですが、お釈迦さまは「立っている時も、歩いている時も、 すわ っている時も、あるいは横になっていても ねむ っていない限り、この『慈悲』の ねん をしっかり たも ってください」。慈悲には休みがないのです。 瞬間しゅんかん たりとも、 いか り、 うら み、 にく しみで生きてはならにと説いておられます。常に 慈悲じひ のこころを育てることがとても重要なのです。


 さて、今、現在私たちが生かされて生きているこの世界は人と人とのつながりが弱くなってきております。 核家族かくかぞく がもたらす家族との絆がそうさせているのではないでしょうか。


 昔は さん 世代せだい 家族かぞく がほとんどでした。 住宅じゅうたく 事情じじょう により 大家族だいかぞく での  らしができなくなったのも事実です。本当は まご には 祖父母そふぼ と おや との両方の 教育きょういく がないとうまくいかないものです。 近隣きんりん の人とのつながりも弱くなっているのも、祖父母の 智慧ちえ が、子や孫に上手く伝わっていないからだと思われます。


 教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの大切さを説かれました。信じる力の大きさによって 功徳くどく も大きくなると言われました。妙法を 信心しんじん して「妙法蓮華経」の五文字を唱える時に大きな功徳があるのです。 行住坐臥ぎょうじゅうざが いついかなる時も唱えれば、 不慮ふりょ の 事故じこ や 災難さいなん から まぬか れることができると おお せです。そして、 さん とく  慈悲じひ   まこと   堪忍かんにん  の 実践じっせん が重要です。実践することにより人格を高めることができるのです。


 私たちも三徳の実践により自分自身を みが くことが何より大事です。人格を高めるための ほどこ し、すなわち 慈悲じひ の 実践じっせん がとても大事なのです。


 生きていれば苦しいことは山ほどあります。お釈迦さまは、この妙法を 根本こんぽん とするならば、  り  えられない 苦難くなん はないと説かれました。私たちもいろんな苦難を  けるのではなく、立ち向かい、それを乗り越えて〝すばらしき人生〞になれるよう努力しましょう。


 


合 掌


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