早いものでもう三月になりました。 旧暦 では 弥生 と呼んでおります。花見の季節ですが、コロナの 影響 で、昨年と同様に花見で 宴会 ができない状況は依然として変わりません。 三 密 ( 密閉 ・ 密集 ・ 密接 )を 避 ける行動がこれからも大事なこととなります。しばらくは 新生 活 様式 で活動しないといけないと思います。ワクチンや 特効 薬 にも 期待 しておりますが、それだけでは何の 保証 もありません。人々の 行動 変容 がとても大事であり、一人ひとりが 自覚 と 覚悟 を持つことで、コロナと 闘 わなくてはいけないと思っております。
二度目の 緊急 事態 宣言 が発令され、 感染者 も少しずつ 減少 傾向 にありますが、少し気が 緩 めば、また 感染 拡大 へとなってしまいます。イギリス 型 やアフリカ型などのコロナの 変異 株 も増えてきており、コロナウイルスも強くなり症状も 重篤 な症例が増えております。今後、コロナが 終息 しても、また新たなウイルスが出てくるか、誰も知る 余地 はありません。いつどんなウイルスが発生しても 冷静 な対応をとることが重要であると思います。
私たちにできることは、手指の消毒、うがい、マスク着用を 継続 することです。そして、私たち仏教の立場では、信者の皆さまが 感染 しないことを祈ることです。私たちには教えがあるから感染しないという 誤 った考えは 捨 てたほうがよいと思います。感染するにはそれなりの 因縁 があるのです。「感染しない、させない」という相手を思いやるこころが大切なのであります。
先月開催の節分厄除祈願祭と釈尊 涅槃会 は、コロナ 感染 防止 対策 として、読経のみの開催となりました。今月開催の春季彼岸先祖法要会も法話、参拝を中止させて頂きます。読経のみの開催となります。悪しからずご 了承 賜 りますようお願いいたします。
人間社会において、多くの人々が 煩悩 に支配され失敗をすることが多々ありますが、私がサラリーマンであった時のことです。四国の責任者をしておりました。部下は二十名ほどおりました。人間の性格というのはとても 重要 なファクター( 要素 )です。ものごとを 謙虚 に 冷静 に見ることができる人と、そうでない人は、明らかに結果が変わってまいります。勿論、 性格面 だけで仕事が成功するものではありません。しかし、仮に 能力 が同じ人間と考えた場合、性格面がいかに 関与 するかという事実もあります。謙虚であるということが、仕事上でとても重要となってまいります。
YさんとTさんという二人の部下の話です。二人とも性格は良く 素直 で 優 しいタイプの人間です。Yさんは京都の有名国立大学を卒業されました。Tさんは東京の私立大学を卒業されました。Yさんは有名国立大卒という 絶対的 なプライドがあります。Tさんにはそういうプライドはありませんでした。
Yさんは香川県のK 医科 大学 付属 病院 を担当しておりました。当時、 准 教授 のI先生は 糖尿病 がご 専門 であり、 情報 提供 を 頻繁 に行っていました。I先生の出身大学は大阪の国立O大学医学部を出られました。大学を比較しますと担当のYさんのほうがレベルが高いといこともあり、Yさんは上から 目線 で営業活動しているのではないかと 危惧 しておりました。
そんなある日、私がYさんに同行して、I先生を 訪問 した時のことです。私の 予想 通 り先生に 製剤 の 特徴 をレクチャー( 講義 )していたのです。こんなことは、あってはならないことです。 製薬 会社 の社員が先生にレクチャーするなんてとんでもないことです。その時、私は、先生の 不機嫌 な様子を 肌 で感じました。いつかは先生の 逆鱗 に 触 れてしまうのではないかという悪い予感がしました。
こういう時は 迅速 な対応が 賢明 であり、担当を変えたほうが 被害 は少ないと考え、Nさんに担当交代をしました。Nさんは、 学歴 の面でYさんのようなことはありません。 案 の 定 、交代して現状を 維持 するどころか、見る見るうちに、先生に 懇意 にされるようになり 信頼 を得ました。そして、大きく売り上げを増やすことに成功したのです。彼はとても 謙虚 で 誠実 な人間なのです。
Yさんは、自分が 高学歴 であるという 傲 りがあったのです。 高慢 になるとどうしても相手を見下してしまうものです。そして、ものごとを 客観的 に見ることができなくなってしまう。 高慢 無礼 ということで、Yさんには謙虚という言葉はないのです。学校で勉強がいくらできても社会では 人柄 がとても大事です。常に謙虚に生きるということが、私たちの成功へと 繋 がる道なのであります。
さて、宗教の面から考えますと 不思議 なことがわかって参ります。人間というものは自分の気持ちが 善 なのか 悪 なのかわからないものなのです。その区別ができないというよりも、自分の 行為 は 善 い行為だと、 勝手 に思っているのです。みんな自分がやっていることは正しいと思っているのです。これは、私たちが失敗するところであり注意が必要です。自分のこころが善なのか悪なのか、よくわからないまま自分の 主観 で善いことをやっているのだと思うことは、非常に 危険 なことです。
人々は 勘違 いをしております。誰かに対して 欲 が生まれたとしましょう。それから、その人のことを 心配 するのです。心配してあげても、よい結果にはなりません。その人に対する欲が、心配の 面 をかぶっているだけだからです。しかし、本人は気づかないのです。本当に心配していると、勘違いをするのです。
人のこころに 起 こる 怒 りが、 優 しいという 面 を 被 る場合もあります。相手の生き方が 基本的 には気に入らないのです。優しい面を被って、相手を自分の 好 みにあわせて 改良 しようとするのです。しかし、良い結果は出ません。なぜかというと、本人の怒りが優しさに 化 けたからです。
このようにこころが全く違うものに化けてしまうケースがたくさんあります。問題は、本人はまったく気づかないことです。たとえば、何としても我が子に医者になってほしいと思う親がいるとします。それこそ、子供のためになるのだと、まじめに思っているのです。なのに、子供が 反発 して別な道を 選 ぶとする。なぜ親が 失敗 したのでしょうか。それは、親のエゴ( 自我 )、親の 希望 、親の 欲 が、相手に対する 優 しさに 化 けてしまったのです。親のエゴを 叶 えてあげることは、子供の 生涯 の 義務 ではありません。このようなこころの働きを仏教では「こころの 欺瞞 」というのです。
こころは 揺 らぐものです。 善 い気持ちでやっているつもりであっても、善い結果が出ない理由がわかります。幸福になりたければ、こころの 働 きを 勉強 する必要があります。知ってほしいのは「人は誰でも、自分がやっていることが正しい 行為 だと思っていることです。行為が正しいか 否 かは、結果が出るまでわかりません」。結果が出たら 後 の 祭 りです。どうすることもできません。自分の行為が正しい行為になるように、 工夫 する必要があります。
こころのエネルギーを 発 する 時点 で、 善 の方向に切り 替 えるとよいのです。こころがエネルギーを発生して、さあ、出発しようとします。その方向は二つあります。一つは 善 の 道 、もう一つは 悪 の 道 です。電車と同じように、出発する時点で 路線 を変えるのです。出発点をがんばって善のほうに変えましょう。そうすればあとは 簡単 です。そのままずっと善の道を歩んで行けます。出発点が悪に向かってしまったら、悪の道に行ってしまうのです。
善 に進むために、仏教では「 不貪 ・ 不瞋 ・ 不痴 ・ 理性 ・ 真理 を学ぶこと、ありのままに 観察 すること」などを 推奨 しております。仏教は、「 不貪 ・ 不瞋 ・ 不痴 」という気持ちを育ててくださいとか、物事をありのままに観察してくださいとか、理性を育てなさいとか説いております。そういうことを 実践 していると、こころが 発 するエネルギーがいつでも善の方向に 路線 を変えるからです。善い方向の路線に自然と変わってしまうのです。
それでも 感情 の 性質 を 見抜 くことが 難 しい場合もたびたびあります。 不貪 ・ 不瞋 ・ 不痴 を学んで気をつけても、 日々 物事 を 観察 しても、うまくいかない時もあります。こころというものはコントロールが難しいのです。私たちは、常にこころの 汚 れを落とすという努力が必要なのです。
「生きている」というそのことだけで、 慈 しみを 実践 するのです。必要なのはその気持ちです。「生きている」ものがすべて、幸福でありますように、とそのようにすべての生命に 無量 の 慈 しみを広げるのです。「無量」とは条件がないということです。条件もなく、生命の区別もない。
水の中で生活するすべての生命も幸福でありますように。空を飛んでいる生命も幸せでありますように。このようにすべての生きものに「無量」の慈しみを持つことが私たちにとって、 慈 しみを 育 てる方法なのです。
生命に対して、わだかまりもない、 恨 みもない、 敵意 もないこころを育てる。自分は誰に対しても何のわだかまりもなく、どんな生命にも敵意はない。そのようなこころを育てることです。
慈悲 の 実践 は、世の中の 現実 を 語 っているのではないのです。世の中の人間に、思いつくこともできない 高度 な生き方を 推奨 しております。やってみることです。 徐々 に、こころが成長していきます。 差別 意識 が 壊 れていきます。
自分の命と他人の命が、別なものとは思えないところまで、 慈 しみを育てるのです。お釈迦さまはこう説明されました。「あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのすべての生命に対して、 無量 の『 慈 しみ』のこころを育ててください」すべての生命に対し、母の気持ちになりなさいということです。
ここまでは、生命を 種類 別 に分けましたが今度は、方向という 概念 で生命を 捕 らえるのです。生きとし生けるもの、という概念を 脳 は 理解 できないのです。その言葉を聞いても、脳は何も 感 じないのです。それではこころは成長しません。しかし、脳には自分がいる場所を 認識 する 能力 があります。脳は自分の 地図 を持っているのです。
脳のこの 機能 を 慈悲 の 実践 に使うのです。 東西南北 上下 という 六法 を考えてください。しかし、東西南北は、昔は 太陽 の 位置 から考えたものでした。今は 磁石 の 針 で見ます。それより 現実的 なのは、自分を中心に左右、前後、上下という方向です。方向には 限界 がありません。あなたの右の方向はどこまで続くのですか、と 訊 ねられたら、 無限 と答えなくてはいけないのです。左、前後、上下という方向についても、同じ答えになります。それで何となく、無限という 概念 が 脳 に入ります。しかし、これらの六つの方向にも、生命が住んでいるのです。生命の場合は、無限ではなく「 無量 」ということになります。
このような 工夫 をして、無料の生命・生きとし生けるもの、という概念を脳に 理解 させるのです。そうすることで、いかなる生命に対しても、わだかまりのない、 恨 みのない、 敵意 のないこころが徐々に 現 れてくるのです。これが 慈悲 の 実践 の 頂点 なのです。
次に時間という問題ですが、お釈迦さまは「立っている時も、歩いている時も、 座 っている時も、あるいは横になっていても 眠 っていない限り、この『慈悲』の 念 をしっかり 保 ってください」。慈悲には休みがないのです。 瞬間 たりとも、 怒 り、 恨 み、 憎 しみで生きてはならにと説いておられます。常に 慈悲 のこころを育てることがとても重要なのです。
さて、今、現在私たちが生かされて生きているこの世界は人と人とのつながりが弱くなってきております。 核家族 がもたらす家族との絆がそうさせているのではないでしょうか。
昔は 三 世代 家族 がほとんどでした。 住宅 事情 により 大家族 での 暮 らしができなくなったのも事実です。本当は 孫 には 祖父母 と 親 との両方の 教育 がないとうまくいかないものです。 近隣 の人とのつながりも弱くなっているのも、祖父母の 智慧 が、子や孫に上手く伝わっていないからだと思われます。
教祖・杉山辰子先生は妙法を深く信じることの大切さを説かれました。信じる力の大きさによって 功徳 も大きくなると言われました。妙法を 信心 して「妙法蓮華経」の五文字を唱える時に大きな功徳があるのです。 行住坐臥 いついかなる時も唱えれば、 不慮 の 事故 や 災難 から 免 れることができると 仰 せです。そして、 三 徳 『 慈悲 』 『 誠 』 『 堪忍 』 の 実践 が重要です。実践することにより人格を高めることができるのです。
私たちも三徳の実践により自分自身を 磨 くことが何より大事です。人格を高めるための 施 し、すなわち 慈悲 の 実践 がとても大事なのです。
生きていれば苦しいことは山ほどあります。お釈迦さまは、この妙法を 根本 とするならば、 乗 り 越 えられない 苦難 はないと説かれました。私たちもいろんな苦難を 避 けるのではなく、立ち向かい、それを乗り越えて〝すばらしき人生〞になれるよう努力しましょう。
合 掌